ライフスタイル-コミュニケーション
悩み相談を「受ける側」は、どのように話を聞き、答えればいいのかを考える。友人から悩みを打ち明けられた時、話をどのように聞けばいいのか。相手は何を求めているのか。
「思いやり」と「善意の押しつけ」の境界線について。人間関係とコミュニケーションの中で揺れ動く「感情」について、つらつらと書きなぐってみた。
街中や飲食店で聞こえてくる「怒声」に対し、不快感を覚えてしまうことについて。
自分に対する「他人からの評価」との向き合い方について。ネガティブな意見には身構えてしまうけれど、「自分にそういう一面があるかもしれない」と認識することが大切になるケースもあるのではないかしら。
スマホにストーリーじみた迷惑メールが届いたことから、ふと「キャリアメール」について思ったことをつらつらと書いてみた。スパムは懲り懲り。
人に対して付ける「○○くん」「○○さん」という言葉について。僕の二人称の使い方、おかしいですか?
「批判」はその人の過去に裏打ちされた知識や体験ありきのものなのか。日々浮かび上がる文句や問題点の指摘を有意義なものとして消化するためには。
「独り言」について。見知らぬ誰かの独り言に嫌悪感を覚える一方、よく知る友人に関してはそのかぎりではない。Twitter上の「呟き」と、自分一人の内々から零れ出た「ひとりごと」も。
『秒速5センチメートル』のキャッチコピーから、日々の生きづらさやコミュニケーション不全を「生きる速度」の違いに例えて説明してみました。
ネット上の「書き言葉」とリアルの「話し言葉」の同期性について。文字としてアウトプットすることで自分の思考に気付くこともあるし、「文章」で話す人も中にはいるのではないかしら。
ビジネスの場でも嫌がられがちな「べき論」について。そもそも「べき論」とはなんぞや。価値観の押し付けとしての意味が強いように思えるそれを否定し、前向きに説得するための考え方。
毎日のように訪れている某喫茶チェーン店にて、よく目にする常連のおじいちゃんに話しかけられ、しばらく雑談に興じた話。高齢者、お年寄りが平日の昼間にカフェへ足を運ぶ理由とは。
大学のサークルの追いコンに参加してきたときに、考えたこと。メールの連絡をどこまでするかという疑問と、卒業生であるOB・OGはどこまで気を遣うべきか問題。
会社員時代と、ブログを始めてからの「名刺」に対する考え方の違いについて。ネットとリアルの人格をリンクさせて活動するのであれば、必ずしも名刺は必要なものでもないと思う。
忘年会シーズンでございます。強制的な余興はノーサンキューですが、その会自体を楽しもうとするのは悪くないことかと。憂鬱な飲み会も楽しくするため、「忘年会」に関して前向きに考えてみました。
コミュニケーションの話。「本当の自分」「等身大」の自分を伝えやすいコミュニケーション手段は人それぞれに異なっていて、それでいいんじゃないかと。コミュ障、人見知りだっていいじゃない。自分の得意な方法で人と関わろう。
小学校時代を思い出して、今も自分の記憶に残る、担任の先生にかけられた「ことば」の話。自分のよく知る人の、何でもない言葉が、自分にとっての「名言」となるのでは。
蛭子能収さんの著書『ひとりぼっちを笑うな』より、“自分を低く見積もっていた方が人生が楽ですよ”という考え方について思うこと。「最弱」を自覚することでモチベーションとするのは効果的だと感じる一方、「卑屈」になりかねない危うさもあるのでは。
「登下校で一人になりたい系男子」の話。帰りの公共交通機関、電車の中などでは、なんとなく一人の方がいいと感じるのは自分だけだろうか。
ネットスラングとしての「コミュ障」という言葉について思うこと。そこに本来の「コミュニケーション障害」の意味はなく、単なるネタ・自虐として使われている、曖昧なマジックワードなのではないだろうか。
インターネットと、コミュニケーションと、文字と言葉の話。伝わらないメディアであるネットにおいては、文字表現の限りを尽くして交流する必要がある。コミュ障でも人見知りでも、「ことば」は等しく伝えてくれるし、伝えてくれない。
日頃からコンテンツに接し、他者とコミュニケーションを取りながら、様々なものを消費している僕ら。「オタク」の意味も不明瞭になり、何にでもツッコむことが当たり前。その消費の速度が加速しつつある今、両者へのリスペクトが忘れられていないだろうか。
友達の家でテレビを観ながらダベるのが苦手な、僕の話。
“話せる人”に憧れるだけの人生だった。
特定の関係性の中で善意がぐるぐると回って、循環的にみんなハッピー!になれるような「幸せスパイラル」の考え方。 そして、自分が受けた恩を「恩返し」として相手に返すのではなく、第三者にまで波及させることで、人間関係の繋がりを線のごとく伸ばし、次…
photo by Flооd ネットでもリアルでも、個人同士での言い争いにおいては、反論を許さない強い言葉がたまに聞こえてくる。自分の優位性を証明し、相手の欠点を明確に指摘するもの……のように見えるけれど、その実、なんら論理的ではなく、単に反撃させないため…
「ぼっち」とはなんぞや。ぼっち飯だとかぼっち旅だとか言うけれど、ひとりぼっちでもいいじゃないか。
便利だから使ってしまうマジックワード。そんなテンプレートの表現に頼りすぎるのも困りもの。語彙力が貧相になるのを避け、自らの「ことば」で語るにはどうすればいいのか。
恋愛関係において「キープ」するのは良いのか悪いのか。結婚を前提に考える必要がある年齢の問題も鑑みつつ、考えてみました。
インターネット上での「文字」によるコミュニケーションを見ていると、「正義」や「論破」など、やたらに「強い言葉」を使う人が目に入る。どうしてだろう。