心に残る、恩師のことば。


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photo by khalid almasoud

 

 自慢じゃないけど、僕は記憶力があまりよろしくない。

 

 よほど大好きでハマった作品でない限り、映画もアニメもドラマもマンガも小説も物語の内容を忘れてしまうし、大学で学んだ各講義の要点も既にいずこかへ旅立たれてしまわれた。

 友人との会話で「あのとき、こういうことがあったよねー」とか言われても、「え?なんだっけ?」と聞き返して、詳細に説明してもらうことでようやく「あー!あったあったー!」と思い出す。もちろん、思い出せないこともある。ポケモンも500匹くらいまでしか覚えていない。

 そんな自分でも、小学生時代の経験は「思い出」として、鮮明に記憶しているエピソードは結構ある。オカマっぽい教頭先生とのやり取りとか、小学生ならではの“恋愛未満”的な話とか……身体がむず痒くなってきそうであかんですが。

 

 その中に、当時の担任の先生からかけられた、印象的な言葉がある。

 

 言うまでもなく、一字一句覚えているはずもなく、ニュアンスでしか記憶していないけれど、現在の自分へ至るまでの過程できっと何かしらの力となった、ことば。

 ふと昔のことを思い出そうとぼーっとしていたところ、そんな「ことば」が急に蘇ってきた。いえす、のすたるじー。

 

転勤族として過ごした小学生時代



 この辺りの記事でも書いたけれど、僕の家庭はいわゆる「転勤族」だった。
 父親の仕事の都合で引っ越しが多く、6年間で過ごした小学校は4校。

 

 それゆえ、同じ学校で学年が上がる「進級」と「クラス替え」を初めて体験したのは4年生になるタイミングであり、なぜか分からないけれど、引っ越すわけでもないのに、泣いてしまったことを覚えている。

 クラスが替わるとはいえ、友達と名実ともに成長できることが嬉しかったのか、はたまた、慣れない経験への不安ゆえか。

 

 大人からの評価も友達からの評価も「真面目」「しっかりしている」で通っていた僕だけれど、他方では、そんな子供っぽさも持ち合わせていたように思う。

 というか、現在に至るまでそのギャップというか多面性は、良くも悪くも残っているんじゃなかろうか。もうちょいオトナになろうぜ、僕よ。

 

幼いこどもに前を向かせる言葉

 あれからもう10年以上が経って記憶もおぼろげだけれど、強く印象に残っている言葉が、ふたつある。名前は覚えていても、もう顔は思い出せない先生が話してくれた、ちょっとした一言。

 

「さびしいと思うし、不安かもしれないけれど、けいろーくんの経験は必ず、大人になったときに役に立つから。だって、日本のいろいろなところでたくさんの友達が作れるんだよ?それは、すっごいことなんだよ!」

 

 実際はもうちょい平易に、噛んで含めるような言い回しだったと思うけれど、小学2年生の終業式兼お別れ会の後、担任の先生が別れ際にかけてくれた言葉。

 小学校に入ってから2度目の転校で、しかもまだ8歳という年齢だった自分の気持ちを慮ってくれたのか、ものすごく優しく言い聞かせるように話してくれたような記憶がある。

 普段はそれなりに厳しい、ベテランのおばちゃん先生で、さらに自分は自分でやんちゃ盛りだったはずだけれど、このときばかりは大人しく素直に話を聴いていたのではないかしら。

 

 引っ越しに限らず、ちょっとした「別れ」でも後ろ髪を引かれるようなことはあるけれど、そこで無駄に振り返らず、ちゃんと前を向かせるような力を持った言葉でした。

 実際、それ以降は「日本全国で友達100人作ってやるぞー!」くらいの考え方で、前向きに引っ越しや環境の変化を捉えることができていたように思う。

 大人になった今、さすがに小学校時代の友達と連絡を取ることはしていないけれど、中学に入るくらいまでは、頻繁に手紙でやり取りをしていたし。各学校の友達からもらった手紙や年賀状は、今でも大切に保管してあります。良い思い出。

 

自分のアイデンティティを認識するきっかけとなった言葉

 もいっこの印象的な言葉は、上記記事でも取り上げているもの。

 

「けいろーくんは、真面目だったり、ひょうきん者だったり、泣き虫だったり、たくさんの『仮面』を持っているよねー」

 

 小学4年生の頃、新任の20代の担任の先生に指摘された言葉。多分、こちらに関してはほぼこの通りの表現だったと思う。それだけ衝撃的だったのです。そのとき、けいろーに電流走る。

 正確には、そのときは「なんか知らんけど、“仮面”とかかっこいい!」程度に受け取っていたのだけれど、後になって、あの指摘は自分の本質を突いていたんじゃあるまいか……と考えるようになった。

 

 いわゆる「キャラ」の使い分けの話っすね。話す相手や所属するグループによって「キャラ」を演じ分けている人は少なくないだろうし、別に珍しいことではないのだけれど、当時の自分はそれが顕著だった。

 「先生の前では優等生キャラになる」とか、「自分より能力的に劣っている人を見下す傾向にある」とか、そういうものではなく。所属するコミュニティやグループごとに、その場その場で必要とされるキャラクターを演じ分けるような形。

 

 みんなをまとめる者がいなければリーダーを、真面目くんばかりの中ではお調子者を、アホなボケ役ばかりの中ではツッコミ役を、毒舌の受け皿がいなければいじられキャラを、それぞれ、演じてきた。

 どこの学校、コミュニティへ行っても、人間関係における役回り、コミュニケーションのやり取りを見ていると、ある種のテンプレート的な流れに沿っていることが分かる。それを見て、把握し、そこにいない必要なキャラを導き出して、演じる。そんな作業を、無意識に続けていたように思う。

 

 この手の性質を持った人は、創作物でもたびたび描かれるものではある。いじめを経験したことのある子だとか、家庭環境が複雑な家柄だとか――要するに、子供時代にしばしば大きな環境の変化に見舞われてきた人。

 もちろん、似たような環境にある全員に当てはまるものでもないだろうし、確かこのことについて心理学・社会学まわりで学んだような気もするけれど、うろ覚え。忘れっぽいので!はっはっは。

 

 なにはともあれ、このような指摘を早くからもらえたことによって、後々の思春期の自己形成に影響を与えたことは間違いないと思う。

 自分にはそのような性質があって、それはどのような問題をはらんでいるのか。中学時代に大いに悩むことになるのだけれど、当時の先生のこの言葉によって、悩みの内容がはっきりしていたことはプラスになったんじゃないかな。

 

「名言」は、気づいたら記憶の片隅に保存されているもの

 話は逸れますが、ネット上で、たまに「名言集」を目にすることがある。

 

 過去の偉人や著名人によって語られた、心に響く印象的な言葉たち。実際に存在した人間に限らず、創作物の中で架空のキャラクターによって放たれたセリフも同様だ。

 これらは日常を過ごしている自分たちをちょっと揺さぶる鋭い指摘であったり、落ち込んでいるときに奮い立たせてくれるような、力のある言葉であったりする。たとえ知らない人物の「名言」であっても、印象に残ることは珍しくない……はず。

 

 ただ、個人的にはそのような「名言」は文脈ありきだと思っているので、他人の蒐集した「名言集」は一部参考になっても、実際的にはあまり力を持たないものだと思う。

 坂本龍馬にせよ、マザー・テレサにせよ、スティーブ・ジョブズにせよ、彼ら彼女らの過ごした生とその業績を理解してこそ大きな力を持つのであって、そうでなければ単なる「いい言葉」でしかないのではないかしら。

 もちろん、そのような文脈が不要だという人も少なくはないと思う。誰が言ったか、どのような場面で叫んだかは大した問題でなく、その言葉単体で力を持つケースもあって然り。僕自身、「ことば」には、それだけの力があるものだと考えています。

 

 何を言いたいかというと、偉人や創作の「名言」に力や刺激を求めるのもいいけれど、たまには自分自身の記憶を振り返ってみるのもいいのでは、ということです。

 自己分析だとか棚卸しだとか深く考えずとも、「あのときはあんなことがあったなー」とか「そういえばこんなことを言われたなー」とかで良い。自分に影響を与えた大切な「ことば」はそんな、何でもない思い出の中にあるのだと思う。

 

 その中に、自分にとっての「名言」もあるはず。自分に関する文脈なんて自分にしか分からないのだから、そこから言葉をすくい上げることによって、自分にとっての「名言集」が完成するのではないかしら。

 生徒の一人に放った言葉が、その人の記憶に残り続けているように、自分のブログの記事やその一文が、どこかの誰かに響いていればいいな。

 

 なーんて。

 

 

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