日曜日のお昼すぎ。団地を1階まで降りて外に出ると、「おまえも焼きニートにしてやろうか」とでも言わんばかりの、刺すような日光が襲い来る。ちくしょうめ。焼くなら焼くがいいさ。毛深い人間からすれば、焼けた黒い肌は良いカモフラージュになるから好都合なのだ。わはは。
眩しさに顔をしかめつつ駐車場を横切って行くと、途中、某運送会社のおにーさんとすれ違った。自分以上にこんがりと焼けた肌は健康的で、パッと見でも体格の良さが際立つ彼。その風体を見れば、確かに写真集が出てしまうのもわかるような気がする。評価はともかく。
思わず「お疲れさまです〜」と声をかけると、「こんちゃー!」と元気な一声。疲れているだろうに、それをおくびにも出さない爽やかスマイル。さすがに夏場の汗は隠しようがないけれど、それでもプロ根性を感じた。マジでお疲れ様でございます。ちゃんと休んでくださいね。
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店員さんに向けられた「ありがとう」
自他共に認める人見知り人間である僕は、中学生くらいまで、見知らぬ人にこちらから声をかけるなんてことはあまりしてこなかった。ご近所さんならばいざ知らず、掃除のおばちゃんとか、コンビニの店員さんとか、配達の兄ちゃんとかは完全にスルー。
忙しそうに働いているところに声をかけるのは邪魔かもしれないし。挨拶をしたところで何があるでもなし。わざわざ改まって「お疲れ様」だの「いつもありがとう」だの言うのも良い子ぶってるみたいだし。彼らは彼らで為すべき労働に励んでいるのだから、僕らはただ、それを享受していればいいのです。
「店員さんに『ありがとう』を言うかどうか問題」みたいなものは、たまーに話題に挙がってくる印象があるけれど、結局は個人の自由でしかないように思う。
あからさまに誰かを不快にするような言い回しをしているならば考えものだけど、ストレートな感謝の意を示す「ありがとう」や、お釣りや商品を受け取ったときの相槌としての「どうも」は、なんらネガティブな表現ではないはず。
誰に迷惑をかけるわけでもなし。言おうが言わまいが、それは各々の価値観によるものであり、「消費者」としてのスタイルの違いでしかない。理不尽に説教を垂れるようなクレーマーと比べれば、特に問題視されるものではないと思う。「スマイルください!」は……また別ですね、はい。
経験と環境によって顕在化する意識の差
「そういった価値観の違いは、何によって生まれるのだろう?」と考えてみると、一口に言えば、広い意味での「環境」の影響があるんじゃないかと思う。そういったやりとりが当たり前の環境で育ったか否か、あるいは身近な人間がそうしていたかどうか。
自分の場合、両親がどちらもそういった「声かけ」をするような人だったため、高校生くらいの頃には自然とそうした習慣がついておりました。人見知りではあるものの、高校に入るとそれまで以上に頻繁にコンビニを使う機会も増え、気づいたら声が出ていたような気がする。
もうひとつ、大きな理由として考えられるのが、コンビニ店員ならコンビニ店員、清掃バイトなら清掃バイトの、「経験」があるかどうか。単純な話、コンビニでアルバイトをしたことがある人ならばその苦労がわかるし、他の職種でも同様である、ということ。
その仕事に携わっていた当時、もし「声をかけられることが嬉しかった」という実体験があるのなら、そこに過去の自分を見て同じようにするんじゃないかと思う。自分は運送業に従事していた過去はないけれど、類似の労働体験があったので、冒頭のおにーさんにもポロッと挨拶が出た感じ。
もちろんこれも、結局は「人によりけり」でしかない。中には「忙しく動きまわっているときに声かけんじゃねーよ!」と考える人がいてもおかしくはないし、バイト経験があっても淡々と仕事をこなすほうが好きならば、そうした挨拶に煩わしさを感じていた人もいることでしょう。
付け加えると、そのときの気分によっても言葉の受け取り方は変わるだろうし、「どこどこで働いた経験のある人はこのようにする」なんて一概には言えないはず。ただ、その仕事を知っているか知らないかによって出てくる意識の差は、少なからずあるんじゃないかと思うのです。
知っているから、許せる/知っているから、許せない
しかし一方で、ある仕事に従事した経験がある、“知っている”からと言って、そのサービスを享受する側になったときに誰もが同じように立ち振る舞うかといえば、そうとも言い切れない。そこにもやはり意識の差はあるし、視点が二分されるように思う。
話は変わりますが、8月はイベントが盛りだくさんの時期でござる。お祭りに花火大会、ビアガーデンに海水浴、音楽フェスにコミックマーケットなどなど、数千人どころか、数十万人単位で人が押し寄せることも少なくない。
そうした特定の目的を持った集団は、都心の雑踏とはまた違った性質を持つもの。参加者同士でのトラブルは当然として、特にお金を払うイベントにおいて何かがあった場合、それを統率する会場・運営・主催者側にも多大な批判が及ぶのも見慣れた光景なのではないかと。
料金を支払ったうえでその場にいる以上、何かしらの不手際で文句が運営側に向かうのも、当たり前と言えば当たり前の流れだと思う。この夏にも、いくつかのイベントで問題点が指摘されるような場面はたびたびありましたし。
けれど、どれだけイベントに慣れたプロであっても相手は人間だし、運営には数多くの団体と人が関わっており、膨大なお金もかかっているはず。余程の統率力と参加者の自助努力がなければ、数十万の集団をまとめてコントロールするなんて至難の技でござる。
そういった事情は少し考えればそれとなーく想像できるけれど、それはあくまで「想像」に過ぎない、とも。経験に裏打ちされた「実感」があるかどうかによって、見方は大きく変わってくる。
何かしらのイベント企画に携わったことがあれば、あるいはその内容が想像できれば、ちょっとした進行のミスなんかは「まあそういうこともあるよね」と許容できる人が多いように思う。――他方では、「こっちは金払ってるんだぞー!」とお怒りになる方もおられますが。
ところがぎっちょん、そういった文句を言うのが“知らない”人だけかと言えばそんなことはなく、逆に経験がある、“知っている”からこそ、強く批判する、批判できるという事情もあるように見える。
「知っているから、許せる」のか、「知っているから、許せない」のか。自分が過去にそこにいたからこそ、それを仕方のないものとして見過ごせるか。あるいは、実体験があるからこそ、ちょっとした不手際が許せず批判するのか。
これは別に悪いことでもなんでもなく、むしろ伝え方によってはプラスに働くものなんじゃないかと思うのです。過去に「中の人」として培った経験があり、現在は「消費者」側の視点から見ることができるからこそ、意義ある批判ができるような。
それは単なる「文句」ではなく、至極まっとうな「批判」として鑑みられるべきものであるように思う。それをどうやって伝えるかは、ちょいと悩みどころであるかもしれないけれど。
※特にオチはありません
――あれ? なんでこんな話になったんだっけ? ……冒頭のおにーさんの話題から、あまり何も考えずに書き始めたので、結論はございません、はい。
ただ、ひとつ思ったのは、仕事ひとつ取っても、知っているもの・知らないものがさまざまにあって、何かに対して物申そうとするのなら、単なる文句にならないように気をつけたいなー、って話。
- 知っているから許せる → 「そういうもの」という理解、あるいは諦観
- 知っているから許せない → 「より良くできるはず」という提案、あるいは余計なお世話
- 知らないけれど許せる → 多くを期待しない、実害が及ばない限りどうでもいい
- 知らないけれど許せない → 期待通りor以上の物が提供されて然るべき、時々クレーマー
“知っている”からこそ提案できる対策・批判がある一方で、“知らない”からこそ素直に伝えられる感想・文句もあるわけで。そういう意味では、余計なお世話として軽視されがちな先人の意見や、質の悪いものとして流されがちなクレームにも、等しく意味があるのでしょう。
結局のところ、「相手が不快にならないようなコミュニケーションをしよう」という、学級目標のようなふんわりとした表現に着地してしまうのですが、なんやかんやで大切な部分だと思うので、折にふれては意識したいなーと思ったのでした。 まる。