べき‐ろん【べき論】
《「べき」は助動詞「べし」の連体形》義務を果たすこと、理想を実現しなければならないことなどを強く主張する論調。「そうするべき」「こうあるべき」という言い回しから。
インターネット上の言説に限れば、「〜べき」という「べき論」に対してネガティブなイメージを持っている人は多いように見える。試しに検索してみても、「良いことがない」「執着」「自分を滅ぼす」「捨てよ!」といった否定的な意見が多い。
しかし一方で、こうした主張もまた「『べき論』はなくす “べき” 」という「べき論」に縛られているように見えなくもない。特に「捨てよ!」なんてタイトルは、そのまま「捨てるべき」に換言してもまったく違和感がないので。上記辞書の意味を借りれば、 “強く主張する論調” は「べき論」と大差ないとも言えそうだ。
そんな「べき論」について、ちょっと考えてみました。
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説得力が皆無、押し付けとしての「べき論」
「〜べき」という論調からあまり良い印象を受けないのは、その多くが「価値観の押し付け」になっているからだと想像できる。冒頭のように、一般的な辞書では “主張の強さ” しか示されていないが、ニコニコ大百科では、 “大抵の場合、説得力はほとんどない” とまで書かれている。
というのも、べき論というものは根拠として理想論や道徳を用いているので「それはそうだけど実際無理だろ……」とか「そんなもん俺には関係ねーし」という反応をされてしまうのである。人間は損得から外れた正論だけでは中々動いてくれないのだ。政治でもそうだが「日本人として〜すべき」と言って通じないぞ。
「べき論」のすべてが “根拠として理想論や道徳を用いている” とは流石に言い切れないので、これはちょっと極論かな、とも思いますが。
ただ、そのように考えてしまうくらいにはデータや論理の伴わない「〜べき」がまかり通っており、ただただその人の主張を押し付けんとする「べき論」が広く存在しているとも考えられる。
他には、以下のような記事もありました。
自分が「○○するべき」と考えていることは、自分の中にある世間に対する先入観や、偏った見方によって、勝手に作られる考えからくるものです。世間一般はそうだと考えて、自分の物差しで考えるのをやめてしまうのです。確かに、そのほうが楽なこともあります。
なぜなら、世間一般の考え方に自分をあてはめれば、自分で物事を考えなくてもよくなるからです。社会や周りの人に合わせて生きることは、いわゆる「無難な生き方」といえます。
この文章によれば、「べき論」は一種の処世術であるようにも読める。複雑な事柄、自身がわからないものについては考えてもしかたないとして、その理由を「世間一般」に依拠する形。「世間的にはこう考えられている(らしい)から、そうする “べき” だ」と。
このような、「多数派(だと考えられている層)の意見は正しい」といった点に理由を求める考え方は、「普通」「常識」などの表現ともつながる面があるように思う。「普通はこうする」「だってそれが常識じゃん」「だから、そうすべきだ」――などなど。
しかし、そのような「当たり前」が必ずしもすべての場面で通じるとは限らない。実際、多数派に従えば「大きく間違える」ことはないのかもしれないが、それを「当然」のものとして他者にまで強要するのはあまり良い行動に思えない。
こうして見ると、ネガティブな印象の強い「べき論」は、やはり「価値観の押し付け」としての要素が強いように思う。それが曖昧な「世間」を根拠としており、まったくもって説得力が皆無。根拠が曖昧であるがために、反論も難しい。
それゆえに、「〜するべきだよ!」と言われると、違和感を覚えながらも何となく従ってしまう――そのようなモヤモヤが、「〜べき」という言い回し全体への悪印象につながっているのではないかしら。
「べき論」の否定は難しい
そうは言っても、「べき論」を完全に否定するのは難しい。なぜなら、「〜べき」を禁止したところで別の形に言い回しが変わるだけであり、そもそも「ことば」から受ける印象は人によって異なるからだ。
例えば、先ほどの記事。冒頭にもちょろっと書きましたが、 “「べき論」は捨てよ!” というタイトルそのものが、 “「べき論」は捨てるべき!” と言い換えることができてしまう。せっかく大真面目に語っているのに、「コントか!」とツッコまれかねない。言葉って、難しい。
もちろん、本文を読めば違った捉え方もできる。 “(「〜すべき」という形で自身の価値観を押し付けようとする意味の)「べき論」は捨てよ!” と考えれば、まだ納得できそう。「ネガティブな『べき論』はやめて、前向きにメリットを勧める “べき” !」みたいな……うーん、どうだろう。
解決策として言い換えてみたところで、その「ことば」から受ける印象は、読者個人によって左右されてしまう。「〜してみてはどうでしょう?」という提案ですら「〜べき」と同等に読まれてしまえば、もうどうしようもない。「べき」ってなんだろう……(混乱)
自分を縛る「べき論」と、他者への説得方法としての「おすすめ」
また、「べき論」を多用することを勧められない理由として、このような指摘もありました。
べきを言う度に自分の中にこうしなければいけない、これをしてはいけない、という指針ができてくるので、それを守りつづけられる強い人なら未だしも、僕のような雑魚は言えば言うほどその自分で決めた指針にガチガチに縛られてしまって、それまで普通にやっていた言動も、この前これはやってはいけないと決めたから駄目だ、ということでセーブがかかってしまう。
これは「〜べき」に限らず、さまざまな「強い言葉」に当てはまるものだと思う。「〜べき」をはじめとする言い回しは何かを断言・決定・固定化するだけの「力」を持っているため、その言葉を使うことで自分自身を縛る枷となってしまう。
「これはそうするべき」と断定してしまえば、それを簡単に撤回することは難しい。そりゃあ人間、意見や価値観の変化はあって然るべきだと思うけれど、あまりに頻繁に二転三転していては、信用を失う。かと言って、なんてもかんでも「〜べき」で固定してしまえば、それ以外の主張を明らかにすることも憚られ、どんどん息苦しくなっていく一方だ。
しかし一方で、例えば「ブログ」という場に関して言えば、「〜と思う」「〜かもしれない」「〜らしい」なんて曖昧模糊な物言いを繰り返している文章よりは、断言系の旗幟鮮明とした主張の方が多くの人に好まれるし、反響も大きいように感じる。
ネットメディアやブログのタイトルで「〜べき」という表現をたびたび目にする(ような気がする)のは、それがおそらくアクセスを集めやすいバズワードだからなのでしょう。「◯◯が〜であるべき△つの理由」とか、どっかで見たことあるようなないような……。
あ、ご覧のとおり、僕自身はこのような曖昧口調がデフォルトなので、基本的に「〜べき」は使わないようにしております。というか単純に、「『〜べき』なんて強く語れるほど、知識も経験も自信もないっす」という弱虫思考なだけですが。ふわふわりふわふわる。
閑話休題。そのように、使いどころによっては大きな効果も認められそうな「べき論」ではあるけれど、個人的にはそれより、他人に「おすすめ」するような考え方で説明したい。
本一冊を勧めるにしても、「これは名作だから絶対に読むべき!」じゃなくて、「こういうポイントが面白かったからおすすめ」とか、「貴方も読んでいるあの本をこういう関係があるから、読んでみたら?」とか。選択権・決定権は、あくまで相手に委ねる形で。
とは言え、「べき論」を語ってしまう人の気持ちもわかるというか、たまーに自然に使っちゃってる気がするので、偉そうなことは言えないのですが。
熱くなると、どうしても「おすすめだよ〜」が「するべき!!」になっちゃうんですよね。確か数ヶ月前にも、「理由はどうでもいいから、とにかく!絶対に!!観なさい!!『SHIROBAKO』を!!!」なんて語ってたような。いやー、オタクって押し付けがましくてやーねー。
「〜べき」も「おすすめ」も、個人の見方によっては等しく「価値観の押し付け」としか映らないため、結局のところはその人の気の持ちようでしかないのかもしれない。
でも他方では、 “論調の強さ” という視点では違った印象を持つ人がいることも間違いないと思うので、その使い分けは意識しておいても損はないのではないかしら。かのアインシュタイン先生も、次のように仰ったらしいし(参考リンク:誰かの信じる「普通」や「常識」は、他の誰かにとってそうではない)。
Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.
――常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことである