「話せる人」に憧れるだけの人生だった


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 ときめいた。キュンときた。

 

 昔っから、口下手な子供だった。思ったことをそのまま言えず、その場のノリと空気に合わせてきた。「こう言えば、怒られないだろう」言葉ばかりを選んで、不必要なことは言わないよう、口を閉ざして生きてきた。

 

 高校生くらいまでなら、それでもなんとかやっていけたんです。

 

 授業やクラスの話し合いの場では、必要最低限の発言と意思表明をしていれば良かった。筋道立てて自身の主張を長々と語る必要はなく、「これくらいは話してもいいよね?」くらいのことを短く簡潔に喋るだけで、その場の一員として認められていた。

 そもそも無理に挙手して発言する必要もなく、話し合いを聞いてさえいれば、あとは最後の多数決に参加するだけでOK。──ああ、素晴らしきかな多数決。本当はもっと言いたいこと、ツッコミたいことはあったけど、そこは「空気を読む」ことに徹していた。ぼく、偉い。

 休み時間などの普段の会話でも、そうやって必要最低限の発言をしていれば、自分の居場所は確保できていた。グループごとに違う「キャラ」の仮面をかぶって、それを演じるだけでOK。こう見えて、演技力には自信があるのじゃ。僕に演劇部からのスカウトが来なかったのが不思議でならない。鼻声だからかな。

 ある時は、いじられキャラとして。ある時は、自虐キャラとして。ある時は、電波キャラとして。ふなっしーよろしく「ひゃっはー!」なんて叫んでいれば周りは笑ってくれたし、僕もそれで楽しかった。

 本当は、ほかにもっと思うところもあったのだけれど……そこは「空気」に導かれるまま、自身の役割に徹するのみである。ぼく、偉い。

 

 ところがどっこい。身も心も成熟し、より大きな集団に所属するようになり、「自主性」と「コミュ力」が求められる場が増えてくると、そうもいかなくなる。

 論理の伴った「おもしろさ」や「独自性」が評価される社会で、僕は己の考えを声に出して説明することができなかった。 “踊る阿呆” を演じるのとは訳が違う。レトリックやエッジの効いたツッコミが持て囃される空間において、その場のノリでアホするだけのアホは、真の意味でただの “アホ” でしかなかった。

 そんななかで僕にできるのは、集団に溶けこみ「空気」と一体化することだけ。それも一種の「コミュ力」と言えるかもしれない。けれど、単なる「空気」としてそこに存在しているだけでは、自分に何の価値も見出だせない。むなしい。

 なんとなくそこにはいるけれど、何の主張も意思も表明しない、でくのぼう。集団の生み出す「空気」に操られ、最低限の役割をこなすだけの存在。「空気」に抗い、場の流れを変えるだけの信念も持たず、同じことを繰り返すのみの村人A。──ここは、はてな村だよ。ここは、はてな村だよ。

 

 だから僕は「話せる人」をすごいと感じているし、ずっと憧れていた。より詳しく言うなら、「明確な自身の信念や主張を持っており、その場その場に応じて、それを論理的な意見として発信・話すことのできる人」──みたいな感じかしら。

 そのような人がテレビ番組やラジオ番組に出演し、流れるように巧みに言葉を発しているのを聴くと、「すっげー!」と嘆息せずにはいられない。僕には無理だ。すぐに反論なんて出てこないし、返答すら難しい。まるで型落ちのパソコンのような自分は、ロードに時間がかかりすぎる。

 「言葉のキャッチボール」なんて表現があるけれど、それを滑らかにいつまでも続けられる人は、本当にすごいと思う。僕にはできない。相手の投げたボールを受け取ることはできても、それをうまく返すことができない。

 自分が投げ返すボールを選んで、相手との距離を確認して、どのくらい力を入れて投げればいいかを考えて、一番良いタイミングを見計らって……そうしてやっと、投げることができるかどうか。どんだけ時間かけてるんだって話ですよね。日が暮れちゃうよ?

 

 そんな自分でも、昔から文章を書くのは好きだった。
 さらに言えば、読書感想文を書くのが、大好きだった。

 

 自分の思ったこと、感じたこと、考えたことを、慌てることなく、時間をかけて吐き出すことができるのは、楽しい。鉛筆をすり減らせば減らすほど思いは溢れて、書きたいこと、伝えたいことが湧き上がってきて……もう、たまらない。最高。ヘブン状態。

 そんなやる気と熱量が伝わったのか、小学校から高校に至るまで、読書感想文では毎年欠かさず賞を取っていた。さすがにいつも優秀賞というレベルではなく、だいたいが佳作だったとは思うけれど。それでも、自分の「ことば」が認められることは嬉しかった。図書券もおいしいです。

 リアルタイムの音声ではなく、文章であれば、そこそこ自分の考えをまとめることができた僕。そんな人間がインターネットの存在を知り、チャットやSNSでの交流にハマるのは、当然のことだったのかもしれない。

 中学時代は、長いときには6時間以上も見知らぬ他人とチャットをしていたし、高校時代は、モバゲーのサークルでアホをしたり、自分の考えなんかを大層に日記にまとめたりもしていた。あとで恥ずかしくなり消してしまったことは、軽く後悔している。ブログのネタになったのに……。

 大学時代は、mixiでむちゃくちゃ長文の日記を書き続けた結果、次第にコメントがつかなくなるくらいに引かれていたようだし、Twitterではいわゆる「鬱イート」を垂れ流して気持ち悪がられたりもした。……しょうがないじゃん。手軽に吐き出せちゃうんだもの。

 

 ──で、今はこうしてブログを書いている。特に「はてな」で好き勝手に書き散らしていて感じるのは、モノを書くのも読むのも、どっちも好きな人が多いんだなー、ということ。

 ブックマークコメントを見ると、批判的な書きこみ以外に辛辣で尖ったツッコミもあるけれど、コメントの大半には、その人自身の「意見」や「ことば」がしっかりと込められているように感じられる。

 

 殺伐とした一部のインターネットにおいては、「氏ね」「キモい」「は? なに言ってんの?」といったツッコミを当たり前のように見かけるけれど、それらは基本、悪口以外の何物でもない。書きこんだ人の断片的な感情であり、それ以上は何も読み取ることのできない、ただの文字の羅列に過ぎない。

 翻ってブコメを見ると、「キモい」にせよ「おかしい」にせよ「ありえない」にせよ「なに言ってんだこいつ」にせよ、その理由が明確に書かれている印象が強い。ゆえに、言われた側も考えなおす余地があり、それは一種の優しさでもあるとすら思う。はてなーは優しいよ? ……たぶん。

 テキストによる双方向性の「交流」とまでは言い切れなくとも、はてなでは、それなりに意味のある「ことば」のやり取りが交わされていることは間違いない。僕はそれが何よりも楽しいし、嬉しいとすら思う。いつもいつもツッコんでくださり、本当にありがとうございます。

 

 「話せる人」への憧れは、変わらずある。最近はブログつながりで会う人に対して、あまりにも口下手な自分の不甲斐なさに、申し訳なく感じることもありますし。やっぱり、ネットのようにはいかないね。

 結局のところ、「話せる」ようになるためには「話す」しかないと思うので、人並みに自身の意見を持って会話を続けられるよう、がんばりたいところ。はやくにんげんになりた〜い。

 でもそれとは別に、文字によるコミュニケーションだって、やっぱり楽しい。少なからず人に読まれる、誰かを楽しませることのできる文章を書けるよう、これからも好き勝手に書き連ねてまいります。僕のブログと出会ってくれて、ありがとうね。

 

 

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