自分を低く見積もれば、人生は楽に生きられる


 少し前に読んだ蛭子能収さんの著書『ひとりぼっちを笑うな』のなかで、次のような話がありました。

 

自分のことを、あらかじめ低く、低く見積もっていたほうが、人生ってラクですよ。

 

 特定の個人と、あるいは集団内の他の人と自分とを比較して、「自分の方が価値が低い」「能力がない」「劣っている」と意識しておいたほうが、楽に生きられる。

 「ぼかぁダメな人間じゃあ」と日頃から部屋の隅っこでブツブツと呟いている僕からすれば、とても共感できる話ではありますが、これをそのまま受け取るのもちょっと怖い。

 自分にとっては楽かもしれないけれど、それを表に出すとウザがられるんじゃないかしら、とも。卑屈な人間、必要以上に自分を貶める人間に向けられる目線に、あまり良いイメージはありません。自己完結できるかどうか、というのは大切なのかもしれない。

 

固定化された「最弱」の競争相手

 とにかく、自分を低目、低目に見積もっておくんです。「このクラスのなかでは、俺が一番頭が悪い」「このグループに入ったら、俺が一番顔が悪い」とか、そこにいる人たちのなかで、自分が一番能力的に劣っていると設定するんです。

 そういう意味では、俗に言う「プライド」みたいなものって、ほとんど持ったことがないんじゃないかな。持っていたとしても、それをもの凄く低い場所に置いておくのが〝蛭子の流儀〟です。

 どうして普段からそんなことを考えているかというと、そうしておけば、ちょっとでも褒められたりしたときに、異様に嬉しくなれるからなんです。常に自分を一番下に置いていれば、それ以上マイナスになることはない。むしろ、プラスしかありませんからね。それはもう、生きていて楽しいことばかりですよ。だって、一番下から上にあがるしかないのですから。

 

 冒頭の引用部分の前で、蛭子さんはこのように書いています。

 

 「自分」という人間をある集団に属するものとして捉えたとき、そのなかで最も劣っているものとして自分を「設定」する。

 極端な「マイナス」からスタートすることで、どんなときでも評価を「プラス」に持っていくような形。どんな場所でもレベル1から始めて、あとは階段を上って行くだけ。

 この考え方は、たとえある程度のレベルがあっても、自分がレベル1だと “思いこむ” ものだと思う。過去に経験のあるケースや、客観的に見て明らかに自分よりも劣っている人がいる場合でも、「ワシが底辺だ!」と信じきる。ぷるぷる、ぼくつよいスライムじゃないよう。

 

 他方では、集団における比較と言えば、何か物事を為すにあたって、競争相手を持つことが効果的だともよく耳にします。自分と同等の「ライバル」的な対象を設定するか、もしくは高みにいる人間を「目標」として追いかけるか。

 ところが、この “蛭子流” の思考法は、他者ではなく自分の位置を固定化することで自らのモチベーションにしているように見えます。

 「あいつには負けたくない」でも、「いつかあの人を追い越すんだ」でもなく、「僕はこの中で一番ダメな人間だ」と自己完結している格好。周囲と競い合っているように見えて、実際の基準は「最低の自分」。

 

 それは、ひとたび「設定」して固定化されてしまえば変化することはなく、環境の変化や人間関係の影響も受けにくいものであるように思う。

 ゆえに、急激な変化・成長も望めない考え方ではあるけれど、それを長くに渡って続ける場合や、周りに流されず自分のペースで取り組むにあたっては、かなり効果が期待できるものなのではないかしら。

 

イメージするのは常に最強の自分だ。
外敵など要らぬ。
おまえにとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない。

 

 こんなことを背中で語るイケメン*1がいましたが、その真逆っすね。イメージするのは、常に最弱の自分。

 

あくまで「設定」であり、「卑屈」になってはいけない

 ただ、「日本人は謙虚」「自信がない」「自己評価が苦手」などと言われるように、自分を低く見積もっている人はそこら中にいる印象が強い。そんな人達からすれば、蛭子さんの考え方は「何を今更」とツッコまれるものかもしれない。

 ただ、それをこの通りに「自己完結」で終わらせられている人がどのくらいいるのかと考えると、どうだろう。むしろ自分一人で完結せず、 “低く見積もった自分” を表に出している人のほうが、相当数いるのではないかしら。いわゆる「卑屈」なタイプ。

 このことは、「謙虚」と「卑屈」の違いとして説明できるんじゃないかなー、と考えて検索してみたところ、なぜか空手教室のページがヒット。それなりに納得できる内容だったので、引用させていただきます。

 

謙虚とは、自分の力を必要以上誇示したり自慢したりしない態度のことだ。

(中略)

最初から自分を負け犬にしてしまい、そこから発する自嘲的な言葉で精神のバランスを取ろうとする態度を卑屈と言う。

「どうせ」とか「所詮」とか「もともと」といった言葉ではじまる自嘲的な言い訳がその特徴だ。

 

「どうせ私のような・・・・・・には・・・・・・・・」
「所詮・・・・な者はどんなにがんばっても・・・・・・」
「もともと・・・・が違うんで・・・・・・・」

 

こういう言葉を発する心根を卑屈という。
卑屈な態度をとるというのは、本人が謙虚なためではない。

 

失敗しそうなとき、事前にこうした逃げの言葉を発することで失敗したときの安住の場所を確保するためのものだ。

「もともと、無理なものは無理であって、所詮無駄な努力はしても無駄で、どうせ失敗することはわかっていたのだ」という完璧な言い訳が構築できるのだ。

卑屈

 

 自分の言動にも心当たりがありますが、卑屈な人間に良いイメージは皆無と言っていい*2

 その人の実力が伴っているかいないかに関わらず、自身を貶めて諦観しきっている様子を見るのは、あまり気持ちのいいものではない。

 それが親しい相手ならば、尚更。たまに弱音や愚痴を吐くくらいならば仕方ないとしても、常日頃からマイナス感情、ネガティブスパイラルに陥っている状態の人は、自分にも周囲にも悪影響しか及ぼさないと思う。

 

 自分を低く見積もることによって、周囲の競争とは関係を絶ち、別の視点から自分の成長・動機付けのきっかけへとつなげることはできるかもしれない。

 けれど、それをやたらと外へ吹聴してまわるのは、かえって逆効果になり得る。「設定」「イメージ」として自分を固定化するのは良くても、それを周囲と共有しようとしてしまっては結局、他者との関係を無視できなくなる。単純に「ウザい」と思われてもおかしくない。

 

 個人的には、ネガティブな感情を外に出すこと、それ自体は悪くない……というか、そうせざるを得ない状況は当たり前にあるものだと思う。親しい友人に愚痴を吐けるのならそうすればいいし、鬱ツイートをすることで楽になるのなら、それもいい。

 ただ、「日常的に」あるいは「常に」ネガティブな感情を垂れ流していては、他者はもちろん、自分に強い悪影響が出ることは否めないし、前向きになることは難しい。

 そういう意味で、この〝蛭子の流儀〟を実践するのであれば、それは自己完結的なものとしたい。この考え方自体は僕も好きだし、悪くないと思う。けれど、この極度のマイナスが「卑屈」へと変わる可能性もなくはないので、その辺は気をつけて意識したいな、と思いました。

 

 やっぱり、外に出すのはプラス思考、ポジティブな感情の方が楽しいよね。極度なポジティブはポジティブで、自己啓発的・病的に怖く感じることもあるけれど。

 

 

 

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*1:アーチャー(Fate/stay night)とは - ニコニコ大百科

*2:そもそも「卑屈」という単語がネガティブな印象のものですが。