少し前に、こんな記事を書きました。定形の表現、テンプレや流行りに身を任せるのは楽だけれど、たまにゃ違った表現を考えて使ってみてもええんでないかい?という話。っべーよ、最近マジ同じ言葉ばっか使っちまってパネェよ。
そのブックマークコメントを読みなおしていたところ、こちらの突っ込みが目に留まりました。
そもそもなんでネットのどこ行っても淫夢民ばっかりみたいな今の現状も、淫夢用語テンプレとしての用途が優秀すぎたというのも多少はね?誰も彼も考えたくない、自分の言葉(マジレス)で語りたくない。 feita
確かにその通りだと思う。特に短文コミュニケーションにおいては、テンプレやネタの効用は非常に大きいものだし、マジレスが忌避されがちな風潮も昔からある。
そんなウェブ上でのテンプレ表現云々と、ボキャブラリーについて考えてみた。冒頭の記事の補完、のような形になります。
〈マジレス〉が嫌われがちなネットの風潮
そもそも昔から、2ちゃんねるなどのインターネットコミュニティにおいては、だらだらと長い「長文」は嫌われる傾向にあった。「チラ裏*1にでも書いてろよ」「長文うぜえ」「ブログでやれ」など、風当たりは強い。はい、すんません!ブログでやってます!
視点を移すと、例えば個人サイトの掲示板などに行けば、どこにでも少なからずは議論好きの人がいただろうし、チャットをやれば、マシンガントークの如くものっそいスピードで書き込みを繰り返す饒舌なユーザーもいただろう。
しかし、ネットは一種の「遊び場」であり、そのコミュニティの中で「楽しさ」や「おもしろさ」が一番*2に求められていただろうことを鑑みると、長ったらしい自己主張や〈マジレス〉は、やはり好まれるものではなかったような印象が強い。
現在も、そんな〈マジレス〉はノーサンキュー!なコミュニティは、少なからずあると思う。Twitterでは「タイムラインの邪魔」と長文の連続ツイートを嫌う人もいるし、ニコニコ動画では「長文うぜえ」というコメントも見られ、そのまま2chの流れを汲んでいると言ってもいい。
はてなブログでは、そもそもが「ブログ」という長文ばっちこーい!な媒体であることもあって、あまり嫌う人はいないように感じる。もちろん、無駄に冗長で意味を成していない過密な文章は読まれないでしょうが。その辺のバランスは、どこでも等しく必要になってくるテクニックだと思う。
定形表現、ネタの引用は確かに便利
そんな〈マジレス〉を和らげるための表現技法?として、定形表現あるいはネタの引用といった〈テンプレ〉を持ってくることには、一定の効果があると思う。つよい(確信)
冒頭のブコメでも指摘されている、いわゆる「淫夢ネタ*3*4」についても、正直、ここまで広まるとは思ってなかった。たまげたなぁ。
淫夢は一例に過ぎないとしても、定形表現やネタの引用といった常套句は実際、かなり便利だ。特にTwitterやブコメなど、文字数に制限のある場所では、それら〈テンプレ〉の方が分かりやすく、伝わりやすい場面も多い。
さらに、ブログのような長文メディアについても、所々でネタを挟んで使うことによって、文章の冗長さを和らげる働きがある……んじゃないかと思う。最初から最後までくっそ真面目でお固い言葉が続くよりは、自分のよく知る表現やネタがあった方が飽きづらいだろうし、書き手の使い方がうまければ、うふふと笑えることだってある。
同様の〈テンプレ〉的な表現として、「流行語」やネタにおける「お約束」といったものもある。それらの強みは何かと言えば、それが多くの人によって共有されているネタであり、一定の信頼感が担保されている点じゃなかろうか。
昨年、「倍返しだ!」や「今でしょ!」などがあらゆるメディアで無駄に乱発されたのも、「みんなが知っているがゆえの安心感」によるものかと。
でも言うまでもなく、流行は一時的な現象ゆえの「流行」だし、あまりに乱用されればウザくなってくる。だからこそ、流行語にせよネタにせよ、使いどころと使いどきはうまくやらないと、消費者にそっぽを向かれるだけに終わってしまう。この場合もやっぱり、バランスを大切に。
それと、これは僕個人のイメージかもしれないが、あるコンテンツに関して、最初に目に入った部分が〈テンプレ〉表現だった場合は、特に良い顔をされないような気がする。
代表的なものだと、ニュースサイトの記事名や、ブログタイトル。何の捻りもなく、ずーっと定形表現ばかり使い続けていると、「何も考えないで本文書いてるんじゃない?」と思えてしまう。「◯◯すぎる△△」とか、もう何年使われてることやら。そういう意味で、「ほとんど考える必要のない」表現は楽だけれど、使いすぎれば毒にもなる。
流行りは別として、自分の「使いたい」言葉を探す
どうして僕らが「流行語」や「お約束」に惹かれ、それを使うのかと考えてみると、もちろん、言葉そのものが持つ魅力や強い印象なんかもあると思う。耳にして、目にして、自分も使いたくなるような表現。「ことば」の力は、いつの世も無視できない。
けれど他方では、「流行っているから、みんなが使っているから」という理由でそれを使う場合も、往々にしてあるんじゃないかしら。淫夢ネタは汎用性が高いあまりに、その元ネタを知らずに使っている人が相当数いるんじゃないかと思える。「ニコ動はたまにしか見ないけど、Twitterは毎日やってる」ような学生で、自然と使っている人とか、結構いるんでない?
仲間内のネタで盛り上がるのは楽しいし、誰もが知っている、という安心感もある。日本人集団の中で、一人だけメルニクス語*5を話してたら通じないもんね。わいーる!
それは否定しないけれど、やっぱり同じことばっかり話していると飽きてくるんじゃないかとも。たまにゃ刺激が必要。そんなとき、新しい流行がくるのを待つくらいなら、自分の好きな言葉、使いたい言葉を探して使っていく方が楽しいと思うんだけど、どないでしょ?
別にネタっぽさとか、おもしろさとかは関係なく。周囲を見てみるとなんとなく、新しく覚えた言葉をむやみに使うと子供っぽいとか、使い方を間違えてたら恥ずかしいとか、そんな感じで躊躇している人が多いような気がする。いいじゃない、ばんばん使っていけば。
小説でもラノベでもマンガでも、なんでも、読んでいて「この表現いいな!」と感じることがあると思う。そんなとき、“〜私のココロの名言集〜”みたいなところにメモって満足するだけじゃもったいない。使えばいいじゃない。あ、でも急に、場にそぐわない少年漫画のシーンを引用されても困るけど。
具体的には、冒頭の記事で書いたように、読書や辞書の中から持ってきたり、自分の口癖を見直してみたり。いつもいつでも、みんなと同じ言葉を使うんじゃなく、いろいろな言葉に触れて、使って、血肉としていく。
そうすることで、自然と「ことば」の意味を考える習慣もつくと思うし、他人の借り物でない自分なりの表現や、自分の「ことば」が生まれてくるのではないかしら。