(※元記事は削除されてしまったようです)
「駄サイクル」と「幸せスパイラル」、どちらもしばしば耳にする言葉ですが、「駄サイクル」にも元ネタがあるとは知らなかった……!
この2つの言葉について、こちらの記事ではクリエイティブな分野に絞って説明されていますが、僕はまた別の方向で思うことがありまして。
「何かをもたらす人と人との繋がり」または「その行為」を意味する言葉を何点か取り上げつつ、そのスパイラルやサイクルが発生する「場所」と「広がり」の視点から、ちょっと考えてみようと思います。
「幸せスパイラル」と「駄サイクル」は閉鎖的?
冒頭の記事について、僕はブックマークコメントで次のように書きました。
言葉の印象論かもしれないけれど、「幸せスパイラル」は外へ広がっていくもので、「駄サイクル」は内で停滞するものだと思ってる。前者は「恩送り」と言い換えられ、際限なく広がる可能性が。小毬ちゃんかわいい。
……なんですが、改めて考えてみると、「幸せスパイラル」も根っこの部分は、非常に限定された人間関係やコミュニティの中で行われるものだったような。
「誰かが幸せになると、自分もちょっぴり幸せになるよね。
君が幸せになると、私も幸せ。私も幸せになると君も幸せ。
ずーっと、ずーっとくりかえして。ほら、幸せスパイラル」
「幸せスパイラル」の提唱者、神北小毬氏。コマリマックス。*1
一番小さな「人間関係」は、自分と他人、2者間で作られるものだ。ここで言う「幸せスパイラル」も、「私」と「君」の間で生まれる循環を意味している。
「私」が「君」にお菓子をあげる。「君」はありがとうと言って受け取る。それをおいしそうに食べる「君」を見ると、「私」も嬉しくなる。嬉しそうな「私」を見て、「君」もまた嬉しくなる。どっちも幸せ。わぁい、スパイラル。
これだけ書くと、まるで頭の中が「お花畑」な理論じゃないか、と鼻で笑われるかもしれない。けれど、このような光景は割と日常的に見られるものでもあると思う。
例えば、「私」をおばあちゃん、「君」をお孫さんにしてみたらどうだろう。ほら、ほんわかほっこりな光景が脳裏に浮かぶんじゃないかしら。――そう! 僕はおばあちゃんの喜ぶ顔が見たいから、いつもお小遣いを貰いに行くんですよ。べべべべつにタカりに行っているわけじゃないんだからね!
このように、「幸せスパイラル」の最低人数が2人であるように、「駄サイクル」も同様なのではないかと。一応、意味を確認しておくと、
駄サイクルの輪の中で需要と供給が成立し、自称ア~チストが何人か集まって、見る→ホメる→作る→ホメられる→見る→ホメる(以下略)を繰り返している。
というもの。 “何人か集まって” という文言があるので、特定の閉じられたコミュニティ、グループ内で起こる循環であるという認識で間違いはないと思う。
つまり、ポジティブな「幸せスパイラル」にせよ、ネガティブな「駄サイクル」にせよ、いずれも閉じられた空間の関係性において発生する循環作用であり、外へ拡散され辛いものであると言える。
「幸せスパイラル」に関しては、「幸せ」を送る相手を外の関係性に求めることで、その輪をもっと広げることができるかもしれないけれど。そもそも、元ネタの『リトルバスターズ!』*2が、閉じられた世界の物語だから……。
「恩送り」によって世界が変わる……?
先ほどのコメントで「恩送り」という言葉を出しましたが、これこそ、「幸せスパイラル」の輪を大きく広げうる行為なんじゃないかと、僕は思います。
誰かから受けた恩を、自分は別の人に送る。そしてその送られた人がさらに別の人に渡す。そうして「恩」が世の中をぐるぐる回ってゆくということ。
「恩送り」では、親切をしてくれた当人へ親切を返そうにも適切な方法が無い場合に第三者へと恩を「送る」。恩を返す相手が限定されず、比較的短い期間で善意を具体化することができるとしている。社会に正の連鎖が起きる。
Wikipediaでも言及されていますが、要は「情けは人の為ならず」*3のこと。
当人に礼を返す「恩返し」や、二者間でのビジネスライクな「Win-Win」な関係とは異なり、第三者へと “送る” 行為を前提としているため、無限に繋がりが連鎖していく可能性を秘めている。善意の伝達手段としては、すばらしい理念なのではないかと。
実際、こんな話があったそうな。
舞台となったのは、アメリカ・サウスカロライナ州のブラフトンという町にあるコーヒーショップ「The Corner Perk」。地元の人たちで賑わうこのカフェに、2年前のある日、一人の女性客がやってきました。
その女性は自分のコーヒー代を支払った後、100ドル札を置いて店員にこう言いました。
“このお金がなくなるまで、ここに来たお客さんの分をごちそうしたい”
店員は驚きながらもその提案を受け入れ、実行することに。
驚いたのは店員さんだけではありません。後から来たお客さんたちはみな「コーヒーが無料って、どういうこと?」とびっくり。そのたびに「先ほど来たお客さんが、みなさんの分も払ってくれたんですよ」と説明したそうです。
この噂は町中に流れて12,000人以上もの人に広まり、多くの人がこれからやってくるほかのお客さまの代金として、お金を置いていったそうです。中には何も買わずに、寄付だけしに来た人もいたとか!
見知らぬ他人のコーヒー代を「先払い」したことで、その恩恵に預かった人も、次のお客さんの代金を払って行くという、なかなか驚きのストーリー。
言うなれば、バーカウンターで飲んでいたところ、「あちらのお客様からです」とススーッと流れてきたカクテルを受け取った人が、さらに別の人に「あちらの方へ」とご馳走する連鎖が続いている状態。細長いテーブルを延々と滑り続けるグラスを想像するとシュールですが。
喫茶店「The Corner Perk」のオーナーさんへのインタビュー動画。*4
この件は、とある “喫茶店” という限られた空間で起こった出来事ではありますが、見知らぬ人から全くの他人へと「善意」が送り送られている状況を見ても、まだ広がりのある行為であるように思えます。一度やってみたい。「どっちにしろ、結局払ってるじゃん」というツッコミは別として。
「Pay it forward」の連鎖は途切れない
この「恩送り」という行為、先の記事でも引用されていたように、海外では「Pay it forward」という言い回しで、 “善意を他人へ回す” 行為として認識されているようです。
ひとつのきっかけとなったのは、映画化もされた同名小説。僕は映画版を観ましたが、お気に入りの作品のひとつです。
映画『ペイ・フォワード 可能の王国』より*5。「Pay it forward」は、“次へ渡せ”と訳されている。
11歳の少年トレバーは、社会科の授業中、担任のシモネット先生から「もし君たちが世界を変えたいと思ったら、何をする?」と問い掛けられる。悩んだ末にトレバーはあるアイデアを思いつく。
それは“ペイ・フォワード”。他人から受けた厚意をその人に返すのではなく、まわりにいる別の人へと贈っていく…という奇想天外なアイデアだった。やがて、少年の考えたユニークなアイデアが広がり、心に傷を負った大人たちの心を癒していく…。
ほぼ「恩送り」と同義ですね。本作の中では、 “自分が受けた思いやりや善意を、その相手に返すのではなく、別の3人の相手に渡す” という指定があるけれど、これは別に3人に縛る必要もないと思う。
誰かの手助けとなれそうなとき、余裕があるときにでも、他人にちょっとした思いやりを “送る” こと。そして、その相手も “次へ渡し” てくれれば、万々歳。
この映画、正直、結末は「はい!?」と突っ込みたくなるものでしたが*6、後になって考えてみると、「Pay it forward<」の精神を伝えるには、あの方向に持っていくのは妥当なのかなーと思えるものでした。
< たくさんの見知らぬ人たちが繋がっていたことを可視化した上で、たとえ誰がどうなったとしても、善意の連鎖は途切れない。そんな感慨を引き起こす作品です。
「循環」を作るか、「繋がり」を伸ばしていくか
改めて整理してみると、「幸せスパイラル」は “スパイラル” の文字が示すとおり、特定の関係性の中で善意がぐるぐると回って、循環的にみんなハッピー! になれるような考え方。
そして「恩送り」や「Pay it forward」は、自分が受けた恩を「恩返し」として相手に返すのではなく、第三者にまで波及させることで、人間関係の繋がりを線のごとく伸ばし、次から次へと渡していくような考え方。
それぞれ、このように説明できるんじゃないでしょうか。
形としては、前者は円状、後者は線状。
ただし後者の場合、一人が複数の線を善意として “送る” 可能性があり、気付かぬうちに巡り巡って、それこそ「情けは人の為ならず」のように自分に返ってくることもあり得る。そのため、俯瞰すれば、網目模様のようになっているかもしれない。そしてその網目は、円状に近いだろう、とも。
「恩送り」の一番のメリットは、それを意識的にでも無意識的にでも実践している人がいるかぎり、決して途切れることがないだろう点だと思います。
日常生活を見ている限りでも、それを自然にできている人はかなり多い。電車で席を譲るとか、落として散らばった荷物を拾うのを手伝ってあげるとか、ボランティア活動に参加するとか。そんなちょっとした「他人への手助け」は、当たり前のように見られるもの。
一時期、「絆」という言葉が話題になったことがありましたが、僕は少し、この言い回しに違和感を覚えていたんですよね。
「人と人との強い結びつき」「強固な人間関係」といった意味合いを持つがゆえに、どこか自己完結してしまっているような印象を受けるので。
「絆を大切にしよう」っていうのは、「既にある関係性を大事に保とう」と同義であって、 “そこにいない人” はどうもスルーしているように思えてしまう。もともとの「絆」を感じられていない人にとっては、 “蚊帳の外” にいる感じがかえって強調されてしまっているのではないか、と。
そんなこともあり、善意の連関を作ろうとするのであれば、内へこもって正の「循環」を作るよりは、外へ外へと「繋がり」を伸ばしていく方が、より広範囲に広まるし、長続きするんじゃないかと思います。
もちろん、身近なところから徐々に徐々に円を広げていこうとする「幸せスパイラル」の考え方も大切だと思いますが、両者の言葉のもたらす印象として。小毬ちゃんかわいい。