中野ブロードウェイはなぜ「魔窟」と呼ばれるのか?多数の関係者インタビューによって解き明かす本『中野ブロードウェイ物語』


自分にとって「中野ブロードウェイ」という建造物は、一言で表すなら「なんかよくわからん建物」だった。

大学生になって初めて訪れたときの第一印象は、「味のあるショッピングモール」だったと思う。子供の頃によく家族で行った池袋の東武百貨店や、新宿駅近辺の商業施設とは異なる、独特の雰囲気が漂う場所。「昭和」とか「サブカル」とか、自分の知らないにおいが色濃く感じられる空間だった。

天井は低いし、窓はないし、パッと見では何を売っているかわからないお店も多い。そして何より、エスカレーターである。2階に上がろうと思って何も考えずに乗ったら、いつの間にか3階にいる。混乱しつつも、学生時分の僕は「敵のスタンド攻撃か!?」なんて友人たちとキャッキャしていたような記憶がうっすらある。……いや、どうだろう。捏造された記憶かもしれない。

そんな、自分にとっては謎多き建物について書かれた本『中野ブロードウェイ物語』を読んだ。当時を知る関係者や住人、長年にわたって店舗を営んできた人、そして大槻ケンヂさんをはじめとする作家さんへのインタビューも交えながら、「中野ブロードウェイ」を紐解いていく1冊です。

 

十人十色の目線から語られる「中野ブロードウェイ」の物語

『中野ブロードウェイ物語』の筆者は、ノンフィクションライターの長谷川晶一さん。普段はスポーツ分野を得意としているライターさんらしく、著作リストを見ると野球関係の本が多い様子。それゆえに、野球本のなかに突如として現れる「中野ブロードウェイ」の文字は二度見せずにはいられない。突然のブロードウェイ。なんでや。

野球系のライターさんが、なぜ中野ブロードウェイに関する本を出しているのか。理由はシンプルで、筆者さんご自身が「住人として住み始めてしまうほどに中野ブロードウェイのことが好きだから」だ。つまり本書は、長年にわたって暮らしてきた「住人」の目線も持つライターが、関係者への取材も交えながら、この複雑怪奇な建物を解き明かしていく本である、とも言える。「テレビ番組で見たことがあるかも?」程度のイメージしか持っていない人でも、興味深く読める内容になっているのではないかしら。

しかし一方で、当時を知らない人からするとピンとこない話も多いかもしれない。というか僕自身、イメージしにくい部分がそこそこあった。いや、多分、自分と同世代でも、テレビを見ていた人ならそれなりに通じる部分もあるのでしょう。ただ、テレビっ子ではなかった平成生まれの自分には、「沢田研二」とか「青島幸男」とか言われても、そのすごさを汲み取ることが難しかったので*1

とはいえ、そういった「有名人も住んでいたブロードウェイ!」的な話は、あくまでも取っ掛かりに過ぎない。第一章では、この建物に店を構える個性派店主たちが、第二章では、テレビでもおなじみの御年88歳(2022年当時)の名物理事が、第五章では、まんだらけ創業者が、そして後半は作家やアーティストも登場し、さまざまな角度から「中野ブロードウェイ」という建物にスポットライトを当てつつ、その全容を紐解いていく構成になっている。

インタビューだけでも大勢が登場する本書だが、かと言って「中野ブロードウェイ関係者のインタビュー集」というわけでもない。むしろ十人十色の背景を持つ人々のお話は本筋の合間に挟むような形で、常にその目線は、中野ブロードウェイという建物――いや、中野ブロードウェイという「概念」に注がれている。多数の資料も参照するなど綿密な取材を経てまとめられていることがわかり、読んで字の如く、1つの「物語」としても楽しめるように感じた。

中野ブロードウェイはなぜ「魔窟」となったのか

多数の商業施設の誕生によって「代わり映えのしないビル」へと変貌した1970年代と、そこに登場した「まんだらけ」が風穴を開けた1980年代。1990年代のJ-POPブームと共に拡大し、その後のアイドルブームも共に駆け抜けるも、環境と情勢の変化によって撤退を余儀なくされた書店。

そのような中野ブロードウェイにまつわるカルチャー周辺の話がおもしろいのは言わずもがな、一方で個人的に興味深く読めたのが、第三章だった。「『魔窟』の生みの親」と題したこの章では、中野ブロードウェイ誕生の立役者である宮田慶三郎の半生が語られる。この宮田氏の歩んできた道のりが、波乱万丈でおもしろい。

1906年に北海道で生まれ、25歳で大学を卒業すると、歯科医として開業。その傍らで入れ歯用の特殊合金を開発する研究所を設立し、そこで作っていた歯科用の銀合金がやがて軍需用品として指名される。

第二次世界大戦が始まると富山県の研究所に所属し、1940年には東京工場の工場長を任され、そこで終戦を迎えることに。戦後はその工場を買収し、東洋工機株式会社の社長として研究活動を続ける。かと思いきや突如として方向転換し、日本大学の研究生となった宮田氏は、歯学の道に戻る。

54歳になった1960年には慶応大学から医学博士を授与されるが、その2年前、大脳生理学のシンポジウムで渡米した際に、コープ・アパーテルに招かれたことが大きな契機に。「コーポラティブハウス」なる集合住宅の存在を知って興味を持った彼は、そのままヨーロッパへ。デンマーク、ニース、パリ、ロンドン郊外、さらには香港といった世界各国の130あまりのアパートを見学し、関係者に話を聞いてまわる。

「わたしなりに残った生涯のすべてを、日本で考えうるもっとも合理的なアパートを作ることに注ぎこもうと決心」したという宮田氏は、1959年に不動産会社・東京コープ販売株式会社を設立。次々に都心部で高級分譲アパートを発表するなか、中野に目をつけて、それが中野ブロードウェイの誕生につながったのだとか。

もちろん彼一人の力で実現した計画だったではないものの、前述の「もっとも合理的なアパート」をつくるべく策士ぶりを発揮したという宮田氏の存在と、それが現在の「魔窟」と呼ばれる構造につながっているという話が、めちゃくちゃおもしろい。宮田氏とブロードウェイの「その後」はちょっとやるせないものではあったけれど、筆者の取材によって紐解かれたその半生は、本書のなかでも特に惹きつけられるものだった。

「よくわからん」に形を与えに行ってみよう

宮田慶三郎氏に限らず、この本に登場する人たちのエピソードはどれもこれもが唯一無二で刺激的だ。そういう意味では、「中野ブロードウェイ」という建物を紐解いた本であると同時に、十人十色の人生模様が交錯する本としても刺激的な1冊だったように思う。

大学時代、所属していたサークルの文芸誌を刷るためにたびたび足を運ぶも、結局「よくわからん」という認識が最後まで塗り替えられることはなく、卒業後は訪れる機会もなくなってしまったブロードウェイ。しかし今回、本書を読んでわかったことがある。

中野ブロードウェイは、やっぱりよくわからん。

けれど、その「よくわからん」がゆえに感じられる魅力があり、この場所で生まれたカルチャーがあり、55年という歴史の積み重ねがある。上階の住人、階下の店主、近辺に住む中野区民、通うほどにこの場所が好きなファン、“聖地”として憧れをいだく外国人、たまたま通りがかった人――。立場や時代、愛着の多寡など、見る人それぞれに異なる「中野ブロードウェイ像」がある。だからこそこの場所は興味深く、魅力的で、常に混沌とした状態のまま、「よくわからん」という独自性を保ち続けている。

本書を読むことで「中野ブロードウェイ」に対する解像度が高まった今こそ、改めてあの空間を訪れるタイミングなのかもしれない。今なら、過去の自分が感じた「よくわからん」をアップデートし、その「わからなさ」に形を与えられる。そんな気がする。

 

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*1:もちろん、名前と何をした人なのかくらいは聞き及んでいるのですが、本書に登場する多くの方が口々に「あのジュリーが!」「青島幸男が!」と語る、その熱量の理由が、恥ずかしながらピンとこなかったんですよね……。