無駄に動ける身軽な「ぼっち」に僕はなりたい


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 ――「ぼっち」とは、いったいなんだろう。

 ここでは従来的な「ぼっち」の話ではなく、「単独行動」や「おひとりさま」に近い「ひとり◯◯」の好きな人、という意味での「ぼっち」について考えてみようと思います。

 

「ぼっち」だっていいじゃないか

 「ぼっち」というと、なんだかネガティブな、社会的弱者としてのイメージが思い浮かぶ。けれど、そんな無理して他人と付き合う必要はないし、社会的、精神的、金銭的に自立しているのであれば、なんら責められる謂れはないとも思うのです。

 とはいえ、あまりに周囲との壁を高く築きあげ、自分の世界にこもってしまうと、物理的にも引きこもってしまうのではないか――という懸念はある。「この四畳半が私の世界のすべて」と隔絶された空間で過ごすのも魅力的ではあるけれど、いつか精神的にやられそうで怖い。

 だからこそ、自分のやりたいことは遠慮なく実践できるように、趣味や興味関心には素直な「動けるぼっち」に、僕はなりたい。おひとりさま行動に躊躇いなく、身軽に、鞄ひとつでどこへでも飛んでいけるような、無駄に動きまわれるぼっち。スーパーぼっち。

 

 だからと言って、複数人での行動を否定するわけではありません。

 

 友人とバカ騒ぎしながら飲むお酒はおいしいし、一緒に旅行へ行って、遠くの土地でキャッキャウフフするのも悪くはない。けれど、単身でふらっと入ったバーでまったりと過ごすのも好きだし、自由気ままな一人旅でリフレッシュするのだって楽しい。

 義務教育時代の集団生活に慣れていると――なかでも、常にどこかのグループの輪に入り続けていると――忘れがちですが、親しいから、同じ集団に属しているからといって、別に無理にずっと一緒に過ごす必要性は、まったくない。

 見たいテレビ番組があるなら帰っていいし、会社の飲み会に参加するのは義務じゃない。仲間と時間を共にするのは、あくまで選択肢のひとつであって、強制されるものではない。ただ、ある程度の「付き合い」は持たないと、場合によっては集団から排除されかねないので、面倒ではあるけれど。

 

「一人だって楽しい時間は過ごせるし、むしろ一人でいちゃいけないなんて価値観がもう気持ち悪い」

 

単独行動を躊躇わない

 集団行動に慣れていると、何か興味のあるイベントやお店が目に留まったとき、自分一人でそこへ向かうには躊躇してしまうことがしばしばある。

 「せっかくだし、みんなで行ったほうが楽しいんじゃないか」「一人で行って後悔するのも嫌だし、暇そうな友達の予定を聞いてまた後日……」などと。でもそのように考えた場合、結局は行かないパターンが多いんじゃないかとも思うのだけど……どうでしょう。

 

 それならば、少しでも興味関心を感じて、何かビビっとくるものがあるのであれば、勢いのままに行動してしまうことをおすすめしたい。金銭的に厳しいのであれば検討するけれど、時間のあるときに行ってしまわないと、結局はなあなあになって何もせずに終わってしまう。

 そんなのはもったいない。思うところがあるのなら、何はなくとも試してみればいいのです。それで実際に楽しめたのであれば、次回は友人を誘う理由にだってなりますし。たとえ思ったとおりのものでなくとも、それはある種の “経験” として、次に活かすことだってできる。

 

 要するに、単独行動を「実験」として捉えてみる形。「なんかよくわからないけど、おもしろそうなものがある!」と見つけたら、とりあえず自分一人で試してみる。それが「良かった」ら友達にも勧めることができるし、「そうでもなかった」なら今後は避けるべき経験、知識となる。

 単独行動を躊躇わなければ、「次」につなげることができる。それを自分だけの秘密の場所にしてもいいし、次回は友人と訪れて、違った楽しみ方をするのもいい。何かを「試す」のに集団である必要はなく、思い切ってぼっちで突っ込んでみるのも悪くはないのではないかしら。

 

時間を共有するか、新鮮さを提供するか

 一方で、集団行動がなぜ楽しいかといえば、その時その場所その瞬間を、親しい仲間と「共有」しているからだと言える。その経験すべてを、その場にいなかった人に伝えることは難しい。写真だろうが動画だろうが、そんなことがあったという「情報」としてしか伝わらない。

 物事を誰かを「共有」することは、たしかにかけがえのない楽しい経験だ。けれど、いつでも常に同じ相手と一緒に行動していては、徐々にマンネリ感が現れてくる。同じメンバーで同じことをしているばかりで、なんとなく物足りず、新鮮さが薄れてきてしまうように思う。

 

 そんなとき、普段は一人で動きまわっている身軽な「ぼっち」が、意外に重宝されるんですよね。過去に一人で行動したときの経験は、つまりまだ誰とも「共有」されていないことを意味する。なので、それを選択肢のひとつとして、集団に提供することができる。

 マンネリ感を打ち破るために「こんなのどうよ?」と提案できる人は、集団においてはそれなりに重要な存在だ。単純に知識が豊富な人でも代替可能ではあるものの、それが「経験」に裏打ちされたものであれば、信頼性はより高まるように思う。

 情報を提供する「ぼっち」からすれば、その経験をするのは2回目、3回目になるかもしれないが、単独行動とは違う楽しみ方で友人と時間の「共有」ができるため、1粒で2度おいしい。過去の経験からおすすめを推してもいいし、別の視点から新しい試みをしてみるのもいい。

 

 とはいえ、そもそもそういった「経験」が「ぼっち」由来のものである必要もない。多様なコミュニティに属し、多彩な経験を積んでいるリア充でも当然、同様の提案ができるでしょうし。

 ただ、フットワークの軽い「ぼっち」として好き勝手に動きまわっていれば、自然と経験も積まれていく。集団行動でないぶん、一人で時間をどのようにでも使えるという利点もある。積極的に「ぼっち」の経験を積み重ねていくことで、仲の良いグループに貢献することにつながる。

 

さらに上の「プロぼっち」を目指すには

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 振り返ってみると、友達と一緒にいるとその内輪だけで完結してしまい、それ以外の他人と交流する機会が得られないことも少なくない。けれど、単独行動の際は、自分さえ望めば同じく一人の人に話しかけて、親しくなることもできるかもしれない。

 特に一人旅なんかだと、その機会は割と作りやすい。明らかに旅人っぽい人に「どこから来たんですかー?」と話しかければ、たいていは快く答えてくれる。互いに情報交換もできるし、しばしのあいだ、行動を共にするような場合だってある。

 

 そのような経験は、最初のころはハードルが高いが、非常に刺激的であることは間違いない。旅先のつながりからさらに人間関係が広がるようなこともあり得るし、なにより、純粋に楽しい。ぼっちはぼっちなりに、そのような挑戦をしてみるのも悪くはない。

 一人旅を例に出したけれど、別に旅に限った話でもない。ふらっと入ったバーで飲んでいたおじちゃんと仲良くなるかもしれないし、何かのイベントで隣に座った人と交流することだってある。さらには、まったく知らない他人から、寿司を奢られることだってある。

 

 孤高のぼっちとして、気ままにふらふらと歩きまわるのは最高に楽しい。けれど、ずっと一人でいることに対して飽きが来てもおかしくはないし、そんなときには、目に留まった「ぼっち」仲間と交流を試みるのは良い経験になると思う。

 慣れないとなかなか難しい……いや、慣れたところで、そもそも人見知りな自分はいつも難しく感じているけれど。究極的には、ぼっちでありながらゆるいつながりをその場で作れるような、「プロぼっち」を目指したいところ。何事も経験でござる。無理そうだったら、やめればいいのだ。

 

 

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