見た目はおっさん! 中身は中学二年生! その名は……!
日常の場面で意外と人は“見ている”し、“見られている”
「他己分析」と書くと、なんだか就職活動チック。ちょっとした意識の高さを感じるワードだけれど、つまりは「他人からの評価」の話です。他者から見た、自分の印象。外見だろうが内面だろうが、自身を客観視するのは究極的には不可能らしい。
例えば僕の場合、初対面の相手からの評価や印象はほとんど決まっていて、「真面目そう」「文系男子」「年齢よりも老けて見える」「ただのオッサン」「目がきれい」といったものが大多数。……ぼくしってるよ! “真面目” は誰が相手でも使える便利な褒め言葉だって!
そりゃまあ、初対面で「ブwwサwwイwwクwww」なんてぶっ込んでくる人はなかなかいないでしょうし、角が立たない範囲で、それなりに正直な印象を話すのは基本でござる。
ただ、第一印象として向けられる “印象” に同様のものが多いのならば、多くの人には自分がそう見えていると言ってほぼ間違いなく、自分の風貌や身なりを客観視した結果とも言えるのではないかしら。
でも一方では共通しているように見える第一印象も、実は人によって「見方」が違っていることもあっておもしろい。
「真面目」の印象ひとつ取っても、その人の顔つきを見てのものか、挙動や声色を確認してか、周囲への配慮の所作を目の当たりにして判断するかでは異なる。
僕はさっぱりわからないけれど、知識がある人は、服装ひとつでその人のライフスタイルまでなんとなく見破ってしまうというからすごい。着こなしのみにとどまらず、服の手入れ具合やら何やら、判断の視点は複数あるそうな。服を着ているのに、丸裸にされているようでこわひ。
ほかにもカウンセラーさんだとか、心理学をかじった学生、日頃から接客・往診といった他者と触れ合う仕事に従事している人なんかは、独自の判断基準を持っているというイメージがある。こういった「人を見る視点」って、専門職のメリットとしてはあまり挙げられない気もするけれど。
それが極まると一種の「職業病」として、雑踏の中にあっても人間観察をしてしまうこともあるのかな。他方では「人間観察が趣味なんです!」なんて人もいるくらいだし、意識的だろうが無意識だろう、僕らは日頃から他人を “見て” いるし、 “見られて” いるのは間違いない。
身近な人間の「評価」ほど、ありがたいものはない
とは言え、見た目の印象だけで判断するのはやっぱり難しいもの。そもそも、見てくれだけで個人をあれこれと論じるのが失礼だという意見も当然ある。
「第一印象」は自然と胸に抱いてしまうもの。最初の記憶があるからこそ、その後の交流を経て変わっていく印象に一喜一憂もするし、「誰々が誰々のことをこう思っている」なんて話は盛り上がる。「それゆえに人間はおもしろいのだ」と、謎の人外目線っぽいことを言う人もいる。
しかし言うに及ばず、素直な「感想」は時として、人間関係を破壊しかねないタブーにもなる。ある人にとっての地雷やトラウマがどこに埋まっているかは外から見えず、「俺はそんな人間じゃねえ!」と逆上されることがあってもおかしくはない。
あまりに失礼な物言いをしないかぎり、直接的に個人を刺激するような「感想」は出てこないとも思うけれど、酔った勢いでポロッと……なんてケースもありえる。
そう考えると、付き合いが長い相手であっても「こいつはこういう人間だから」と断言し、知ったふうな口で “他人” を論じるのは避けたほうがいいようにも思える。「お前の勝手なイメージを押し付けるな!」っていう、アレ。
でも翻って最近は、むしろそういった「誰かが自分に抱いている印象」を知るのって、思いのほか大切なことであるようにも思うんですよね。「何を今更」とツッコむ方もいるかもしれませんが、改めてそう感じたので。
と言うのも、ある程度の年齢になると普段の人間関係は自然と限定されてくるし、自分に対してストレートな物言いをしてくれる人もどんどん減っていく一方なんじゃないかと。
学生時代の友人と会う機会は減り、仕事上の付き合いでは関係性の持続が重視されるために一線が引かれ、気づけば周りが年下だらけに。年齢差があれば年上相手に突っ込んだ発言ができないのは常だし、同世代でも「個人」について改めてどうこう語るような話はしないように思う。
――となれば、「おまえってアホだよなー」とか、「あからさまに相手を選んで態度を変えてるんじゃねーよ」とか、「あんたの作った味噌汁を毎朝飲みたい」とか、どストレートに自分を見て「評価」してくれる人の存在って、かけがえのないものなんじゃないだろうか。
そこで「おめーが俺の何を知ってるんだよww」と一笑に付すのは簡単だけれど、少なくとも、 “その人の目からは、自分がそう見えた” というのは事実。それが万人の評価ではないと知ったうえで、そういう “見られ方” をしていたことを認識し、顧みる時間は大切であるように思えた。
「風通しの良い職場」じゃないけれど、「風通しの良い間柄」とでも言いましょうか。互いを尊重しつつも好き勝手に「評価」しつつ、それを真に受けるかどうかはともかくとして、まずは受け入れ咀嚼できる心の持ちようでいられる関係性。――なかなか難しいとも思いますが。
「ツッコミ過多」のインターネットを利用する
そういった個人の評価、歯に衣着せない物言いを考えていると思い出されるのは、インターネットの存在。
なかなか面と向かっては「おまえはこういう奴だ」と言えない、言われない身近な関係性と比べて、やり過ぎな勢いであまりに好き勝手に「評価」されてしまうのが、ネットの世界。
ツイッターで気に入らない発言を罵倒し、ニコ生でつまんないネタにコメントし、嫌いな芸能人のブログを炎上させる。ネットで、会話で、飲み会で、目立つ言動にはツッコミの総攻撃。自分では何もしないけれど、他人や世の中の出来事には上から目線で批評、批難――。一般人がプチ評論家、プチマスコミと化した現代。それが「一億総ツッコミ時代」だ。
ネットで飛び交う過激な “ツッコミ” が問題視されるのは、そこに「相手を尊重する」というコミュニケーションにおける大前提が欠けているためであるように思う。……というか、一方的に言いたいことを言っているだけのものに関しては、そもそも “コミュニケーション” ではないのかも。
文面でのやり取りとは言え、強い言葉でもって「お前の考えはおかしい」と批判されれば自分が全否定されたかのような気分になるし、反発したくなるのも仕方がない。
先の「他人からの評価」は、顔の見える身近な人間からの言葉だからこそ受け入れる価値のあるものであり、ネット上ではそれが通用しないようにも見える。いちいち受け入れてたら、精神が摩耗してしまいかねない。
しかし、それすらも「コミュニケーション」と考えて受容することによって、どうしようもない見当違いのツッコミですら、プラスに変えることもできるんじゃないかと個人的には思うのです。
代表的な見方としては、「文章の解釈」の問題として。ひとつの話題に対して徹頭徹尾、全く同じ意見がずらっと並ぶことはまずありえない。
賛否両論なら、それぞれがどういった “解釈” によって是非を問うたか。賛否のいずれか一方が多いなら、そのなかでどういった視点から意見を述べているか。コメント欄に現れてくるそれら「読み方」を比較し、分析し、自分の文章において伝わったこと、伝わらなかったことを洗い出して、次に生かすこともできるのではないかしら。
もしくは、文章を書く前の段階で読んだ「他人からの評価」を想定し、それも織り込んだうえで執筆している人なんかもいるはず。
意図的に炎上を起こしているだとか、特定の政治的な主張を継続して発信しているだとか。そういったネット上のインフルエンサーは、自分に向けられた「評価」を早い段階で見極め利用していることから、ある意味ではほかの誰よりも「他人からの評価」を重視しているようにも見えます。……それが良いか悪いかは、また別問題として。
――っと、ネットやブログの話にこれ以上つなげると収拾がつかなくなりそうなので、このあたりで。
一言でまとめるなら、「『自分はこんな人間だ!』という自己評価、自意識は大切だけれど、同じく『お前はこんなヤツだ!』と “評価” してくれる他者の存在も大切、ありがたいことも多いよね」という話でした。たぶん。きっと。おそらく。