改めて考えてみると、「独り言」って不思議だよなあ、思う。
本来は他者に向けられるはずの「言葉」を、誰に対して発するでもなく、ただ口に出す。それを受けて答える人はいないため、存在するのは発せられた一瞬のみ。誰が耳にするでもなく、誰に拾われるでもなく、途端に消えてしまう、泡沫のような言の葉。
もちろん、その場には「独り言」を発する “独り” がいるのだけれど。その人が何を考えて言葉を発したのかは知れず、きっと、本人すらもわかっていないこともままあるんじゃないかしら。たまたまポロッと零れ落ちただけで、何の意味もない、次の日には存在すら忘れられているような。
独り言はどこから来たのか。
独り言は何者か。
独り言はどこへ行くのか。
見知らぬ誰かの独り言、よく知る友人の独り言
正直なところ、「独り言」についてポジティブな印象を持っている人って結構、少数派なんじゃないかと思ってる。──なんかブツブツ言ってる変な人がいる、大声で悪態をついていて見苦しい、気でも違っているんじゃないだろうか、などなど。
雑踏で耳にする「独り言」の多くは異質に受け取られ、時に嫌悪感すらもたらすもの。「相手不在の会話」はなんとなく聞いていて気持ちが悪く、耳を塞ぎたくなるという人もいるのでは。狭い空間、特に電車内での電話使用とか、性質的には似ているかも。
外で耳にする、他人の発する「独り言」の大半は、耳障りなもの。誰だかわからないまったくの他人が、誰かに話しているのか話していないのかの判別もつかないまま、言葉を発している。こわい。関わりたくない。「ママー、あの人、誰と喋ってるのー?」「見ちゃいけません!」
しかし一方で、気の知れた間柄の友人であれば、たとえ「独り言」をブツクサと呟いていようが、あまり気にならない。「あー、また何かイラついてるなー」とか、「おもしろかったマンガでも思い出してるんだろうなー」とか、なんとなく想像がつくから。
おそらく発話者側も、それをわかって呟いているんじゃないかと。要するに、お互いがお互いに相手の「背景」を知っているため、それが何をもって発せられた「独り言」なのかがわかり、変なモヤモヤをもたらしづらいから。意味がわからなくても、知った仲なので聞き流せる。
そこで発せられた「独り言」は、「不特定個人の意味不明な呟き」ではなく、「意味がわからずともよく知る特定個人の呟き」だ。内容如何によっては「なんぞ?」と問いただすこともできるし、聞いてほしいときはそんな雰囲気を醸し出しているケースが多いはず。
いわゆる「構ってちゃん」として見れば、面倒に感じる、不愉快さをもたらすだけの呟きかもしれない。けれど、問答無用で忌避感を覚えるような「どっかの誰かの独り言」とは、明らかに性質が異なるんじゃないかなー、と思います。そこには、既知の関係性があるのだから。
一人キャッチボールと、どくしんぐらし
たびたび耳にする一説によれば、「ひとり暮らしをしている人は『独り言』が多い」のだという。──どうだろう。少なくとも自分の場合、会社寮時代は「独り言」が増えていたような記憶がある。「やべー」「だりー」「あばばー」「どうすっかなー」とか、その程度だけど。
視点を変えれば、一人で手を動かすよりも、一人で口を動かす機会が増えたようにも見える。休日の予定を考えるにしても、紙とペンを持ってあーだこーだと書き殴るより、口に出して「次はあーしてこーして〜〜」と言い聞かせるように話していたような覚えがあります。こわい。
じゃあ実家暮らしの場合はどうなのかと言えば、そういった類の「呟き」はあまり出てこない。自分が家に一人のときですら何かを声に出すことはなく、出てきて鼻歌とかその程度。\トゥットゥルー♪/
どうして実家だと「独り言」が減るのかと考えてみると、やっぱり「話す相手がいるから」なんじゃないかと。別に独りでブツクサ呟く必要性もないし、ついでに、そういったはっきりしない言葉を嫌う同居人もおりますゆえ。
そもそも行き場の不明の呟きをポロッと零せば、周りに人がいたときに「(……ん?これは反応すべきなのか?)」と考えさせる手間を与えてしまう。それならば、最初っから特定個人に対して問いかけたほうが確実だ。「腹減った」じゃなくて、「今日のゴハンはなーにー? 手伝うー?」のほうが、コミュニケートっぽい。
──と考えると、ひとり暮らしにおける「独り言」は何だったのかというと、やっぱり「自分と話す」ような意味合いを持っていたのかなーと。字面だけ見ると病んでいるように見えなくもないけれど……アレっすよ。身体の外で行われる「自問自答」的なもの。
言うなれば、壁に向かってボールを投げては捕り、投げては捕りをせっせと繰り返す、一人キャッチボール。脳内シミュレーションだけですべてを完結させるには無理があり、ともすれば話し方を忘れてしまいかねないので、その筋肉を鍛えるための「自主練」と言えるのではないかしら。
受信可能な「tweet」と、自分独りのためだけの「言葉」
他方で「独り言」「呟き」と言えば、今や広く普及しきった「Twitter」の存在も大きい。小鳥のさえずり──「tweet」としての文脈はすでに薄れ、他者と全力でコミュニケーションを図るようなツールになっている側面もありますが。
元来、Twitterの何がおもしろかったのかと言えば、その人にとっては何ら深い意味のない、個人の「呟き」であるはずのそれが他者に観測され、そこから交流が始まる点がひとつあったんじゃないかと思う。キャッチボールを始めるかは各々の自由だし、あえて空リプでキャッキャウフフするのも楽しくはあるけれど。
Twitterにおける「呟き」が「独り言」と異なるのは、それが(非公開設定にしないかぎりは)誰にでも観測可能な「言葉」であるため。その人が何かしらの意味を持って呟いたか否かは考慮されないように、受け手側もそれぞれが何らかの意味を受けたり、受けなかったりする。
それゆえに、Twitterの「呟き」は「ひとり暮らしの独り言」ではなく、どちらかと言えば前者の「不特定個人の意味不明な呟き」に近い。その “不特定” と “意味不明” を解消するためにアイコンやプロフィールがあり、フォローすることで特定個人としての “意味” が強まっていく。
でも一方では、他人と知人、有名人と一般人などが入り乱れ、さらにはその使い方も人それぞれであるために、Twitterでは日々なんやかんやと問題が発生しているという現状もある。それは時に面倒にも感じるけれど、それでもやっぱりやめられない。だって、楽しいんだもの。
人によって、タイムラインに映る風景はさまざま。なので一概には言えませんが、Twitterは「行き場のない言葉」の “行き場” になっているイメージが強い。なんとなしに呟いた言葉に誰かが “意味” を付与し、時に2者の間で交流が発生し、時に広く拡散されていく。
その拡散性と公共性ゆえに、単に「ネガティブなだけ」の言葉は避けるべきであるとも思います。先ほどの話に照らし合わせれば、要するに、街中で悪態をついているだけの人にはならないようにしたい、ということで。その点に気をつければ、 “意味” の生まれるTwitterはおもしろい。
──特にオチも考えずに書き始めたのでこの辺にしておきますが、このようにネット上の「呟き」が価値あるものとして認められている一方で、ふとした瞬間に零れ落ちた、自分だけの「独り言」も大切にしていきたいな、と思ったのであした。
その大多数は自分に向けられた「自問自答」でしかないのだろうけれど、そのなかには実は、「自答」できない「自問」も紛れているんじゃないかと思いまして。答えられない「ひとりごと」はきっと、無意識化からあふれ出した本質的な、自分 “独り” だけの “言葉” であり、 “事柄” だから。