自分を「正当化」し、他人を「不当化」する言葉、意味あるの?


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 ネットでもリアルでも、個人同士での言い争いにおいては、反論を許さない強い言葉がたまに聞こえてくる。自分の優位性を証明し、相手の欠点を明確に指摘するもの……のように見えるけれど、その実、なんら論理的ではなく、単に反撃させないためだけの言葉。 

 相手を言い負かすことが目的なのであれば、非情に有効な物言いかもしれない。というか、基本的にはそういう場面でしか使われていないようにも思う。議論や話し合いの場で使っても、「論点はそこじゃないだろう」と突っ込まれかねない、思考停止ワード

 そんな、理屈や個人の思想をふっ飛ばして、自分を「正当化」したり、他人を「不当化」したりする……と思われる、「これってマジックワードじゃね?」と考えられる言い回しを挙げてみた。妥当かどうは分かりませんが。

 

※「不当化」という表現に若干の違和感がありますが、ここでは「正当化」の反対ということで。

 

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自分を「正当化」する言葉

「お客様は神様です」

 さすがに耳にする機会は減ったように思うけれど、一時期は主にクレーマーの方々によって乱用されていた、「お客様は神様」という言葉。問答無用で自分を「正当化」しようとする、便利な物言いかと。

 もちろん、態度の悪い店員だっているし、期待して入ったお店で思った以上のサービスが得られず、不満たらたらで帰ることだってあるかもしれない。けれど、それならば、もう来なければいいだけの話であって。

 お金を払っているからといって、なんでもかんでも要求していいわけではない。消費者として支払った「お金」の対価が、提供される「サービス」なのであり、それ以上を求めるのは、ただの欲張りさん。もし釣り合っていないと感じたのなら、今後h利用しなければいいだけだと思います。

 

 一応、お約束の解説をば。

 三波春夫にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。客席にいらっしゃるお客様とステージに立つ演者、という形の中から生まれたフレーズです。三波が言う「お客様」は、商店や飲食店などのお客様のことではないのです。

(中略)

 俗に言う“クレーマー”の恰好の言いわけ、言い分になってしまっているようです。元の意味とかけ離れた使われ方ですから私が言う段ではありませんけれど、大体クレーマーたるや、「お客様」と「様」を付けて呼んで貰えるような人たちではないと思います。サービスする側を 見下すような人たちには、様は付かないでしょう。

 三波春夫の舞台を観るために客席に座る方々の姿は、『三波の歌を楽しもう、ショウを観てリフレッシュしよう』と、きちんと聴いてくださった「お客様」だったのです。

「お客様は神様です」について

 

 文句があるのなら、自分の口でその理由を、はっきりと。書いてあることと実際のサービスが違うのなら、「あれれ〜?おっかしいぞ〜?」と指摘すればいいのです。別にそこで「我は神である」なんて自己紹介をする必要はないし、布教活動は他所でやってください。

 

「表現の自由」

 最近、ネット上の議論でよく見られる言葉。それ自体は、憲法で規定されたもので、等しく認められた権利なのだけれど。

日本国憲法第21条

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

表現の自由 - Wikipedia

 

 でも「自由」だからと言って、何を書いても、言ってもいいわけではなく。それを見て、聞いて、不快になる人が多数いることが想定されるのであれば、ある程度の配慮は必要だ。

 例えば、性的マイノリティや、一連のデモ活動、“それ自体は”、もちろん認められるべきものだ。問題なのは、「認められているから」という理由で、何をやってもいいと勘違いしている人がいることだと思う。そんな人たちが、自分を正当化するために「表現の自由」を盾にしている印象。

 

 具体的には、ヘイトスピーチなど。ネットでもマスメディアでも散々に突っ込まれているけれど、実際に耳にしてみると、本当にあれは酷い。都心の街中でスピーカーを使い、平気で罵詈雑言を撒き散らしていることにびっくりした。

 あれを聞いて、「確かにその通りだ!」と賛同する通行人がどれだけいるんだろう。そもそも耳にして気持ちの良い言葉ではないし、周囲のヤジに対しては、満面の笑みで中指を立ててくる。ぶっちゃけ、何がしたいのか全く分からない。

 誰か、何かに対する嫌悪感や悪口を心の中で思うには自由だけど、それを周囲に対して突き立てる行為を「表現の自由」と称するのには、疑問しか感じない。包丁を自宅で料理に使うのは結構ですが、街中に持ち出して振り回すのはやめてほしいです。

 

他人を「不当化」する言葉

「偽善者」

 このブログでも何度か言及しているけれど、他人に向ける「偽善」という言葉は、理屈をすっ飛ばして相手を否定、レッテル貼りする、思考停止ワードだと思う。

 

 

 自分のことを「偽善」と言うのであれば、まだわかる。謙遜としての意味に聞こえるので。

 もしくは、「本当は良く思っていないのに、良い子ぶっちゃう」とか、「ワルの俺が、またこんな良いことをしてしまったぜ…」という姿勢について、「偽善」と呼ぶのなら。そうは言っても、相手にとっては紛れもない「善行」であるような場合もあるでしょうし。

 けれど、相手の行動理念や、周囲の事情とは全く無関係に、自分の主観だけで他人の行動を「偽善」と決めつけてしまうのは、レッテル貼り以外の何物でもないかと。そもそも善悪なんて考えていない行動である場合も多いだろうし、それで救われている人だっているかもしれない。

 

 他方では、本人が良かれと思ってやった結果、迷惑をかけただけだった、みたいな行為を「偽善」と称する場合も往々にしてある。

 結果的には何も生み出さなかったとしても、その行為までも「偽善」として切り捨ててしまうのは、もったいない。そんなときは、問題点や改善点を指摘してあげればいいだけの話じゃないかと思う。

 

「◯◯世代」「これだから△△は」

 こちらも最近は減ってきたように思うけれど、特定の年齢層を「◯◯世代」と括って、まるで悪口であるかのように吹聴するパターン。というか、主に「ゆとり」ですね、はい。私のことです。

 世代論そのものが全く無意味だとは思わない。時代背景や社会情勢などから、特定の年齢層の“多くに当てはまるかもしれない”共通点を見出すことは、そこにある問題点を提示し、解決へ導くことに繋がる可能性もある。

 けれど、メディアで取り上げられる「世代論」と言えば、こういう性格で、こういう育ち方をしたから、こういうことができない、といった、論理もへったくれもないセンシティブなだけの物言いだ。なんなの?同年代の人はみんな同じように育ったと思うの?

 

 世代に限らず、特定層をあるジャンルにカテゴライズして、批判する手法はよく見られる。「オタクはキモい」「田舎者は世間知らず」「これだからハゲは」などなど。

 一部にはネタ的な意味合いも混ざっているとはいえ、何の因果関係もなく、曖昧なカテゴライズで他者批判がされている。で、しかもそれで納得してしまう人がいるから恐ろしい。海で無駄にはしゃいでドン引きされてたら、「あいつ埼玉人だから…」「ああ…なるほど…」ってなに納得してんのよ!海無し県で悪いか!

 

 納得する人がいるということは、それだけで判断され、「不当化」がされていることに他ならない。理屈ではなく、感覚で決めつけられているので、否定するのも難しい。そういう意味で、世代論を始めとするレッテル貼りの言葉は、思考停止ワードの一角と言えると思う。

 

「便利な言葉」に逃げないように

 自分を「正当化」する言葉も、他人を「不当化」する言葉も、どちらも一言で謎の説得力をもたらす「便利な言葉」だ。よく考えてみれば、理屈も妥当性もないはずなのに、語感の強さで押し切られてしまっているような印象を覚えるもの。

 単純に相手を言い負かしたいのなら、それで言い負かせられるような相手なら、確かに有効な言葉かもしれない。けれど、それで得られるものなんて、一時の満足感くらいのものなんじゃないかしら。

 

 変に自分を正当化しようとすれば、言い訳のように聞こえてしまうし、無理に相手を批判しようとすれば、ただの悪口になってしまう。

 そうならないため、自分の言葉に説得力を持たせるためにも、それらの思考停止ワードはなるべく使わず、自分の言葉で説明できるようになりたい。ここまでに書いたことも、見方によっては一種のレッテル貼りとも受け取れるので、難しそうだけれど。

 ほかにもさまざまな「正当化」あるいは「不当化」の言葉があると考えられますが、どうでしょうか。

 

 

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