思いやりと、善意の押しつけと、コントロールできない他人(と自分)


子供の頃から、RPGをプレイするのが好きだった。

RPGの主人公の多くは、何らかの使命や目的を持っている。魔王を倒す宿命を持つ勇者だったり、気弱ながら人一倍の勇気と優しさを持つ少年だったり、秘密組織で活躍するイケメンの若手エースだったり。

彼らは決して近所の裏山で段ボール滑りなんてしないし、そのまま勢いよく木に激突して半泣きで家に帰るようなこともない。毎日のようにチャリンコを乗りまわして、調子に乗って手放し運転をした結果コケて小指の骨を折るようなこともしない。……さてはこいつ、アホだな!?

そんなアホなガキンチョだった自分とはまったく似つかない、RPGの主人公たち。それでも、手元のコントローラーで操作したとおりに動くゲームの中の彼らを見ていると、本当にそれが「ぼく」自身なんじゃないかと思えてくることがあった。……というのは、さすがに言い過ぎかしら。

実際、遊んでいるゲームの主人公に感情移入して、心を揺さぶられることは珍しくなかった。少年テリーとしてミレーユと再会したときには、自分にも生き別れの姉がいるんじゃないかと錯覚した。聖剣使いとして共に旅した少女と妖精族の子供は、古くからの友達のように感じられた。そして、パパスが死んだときには「ぬわーっ!」と叫んだ。

自分で動かすからこそ、そこに自身の姿を重ねて考えてしまう。主人公になりきることで異世界の物語を自分事のように体験し、劇中のイベントに心を震わせ、喜怒哀楽の感情を抱いてしまう。そう考えると、ゲームのみならずあらゆる「物語」は、他者への共感力を養ってくれる──と言ってもいいのかもしれない。

友達が泣いて悲しんでいるのを見ると、自分も悲しくなる。その理由に強く共感して、心を痛め、もらい泣きしてしまうこともある。だからこそ「どうにかしてあげたい」と考えるようにもなる。

逆に、友達が楽しそうに笑っているのを見ると、自分も嬉しくなる。楽しいことは誰かと共有したくなるし、たとえ理由を聞かなくても、意味もわからず釣られて笑ってしまうことすらある。

「どうにかしてあげたい」に代表されるように、「共感」の力は、自身に感情表現以外の行動を促すことがある。がんばっている人を見ると、応援したくなる。苦しんでいる人を見ると、手助けをしたくなる。周囲に迷惑をかけている人を見ると、それをやめさせたくなる──というように。

そこで自分を突き動かしているのは、おそらくは「優しさ」や「正義感」と呼ばれるもの。それらは別に批判されるようなものではないし、共感と感情の赴くままに動けばいい。そうすることで現状が良くなるのなら、誰かのためになるのなら、ためらう必要は一切ない。

 

──でもやっぱり、そんな単純な話でもないんですよね。

 

応援は「邪魔だ」と拒絶され、その人を思っての手助けは「余計なお世話だ」と一蹴され、正義感は「そんなの頼んでいない」と空回り。個人の感情をきっかけにした「誰かのため」の行為は、見方を変えれば「善意の押し付け」でしかなく、必ずしも正しいとは限らない。

行き過ぎた共感は、相手を置き去りにしてしまう。「おおなんてことだ! 彼は今、間違いなく悲しみの淵にいる! 私が助けてあげなければ!」とどれだけ決意をみなぎらせようと、相手からすれば別に大きな問題ではなく、「え? 疲れて寝てただけだよ?」とケロッとしている──なんてことがあってもおかしくはない。

「あの人は今きっとこういう状態だから、私がこうしてあげないと!」という思い込みは、時として相手を逆に傷つける。そんなことは求めていない。ウザったくてありゃしない。むしろ傷を抉られて辛いだけだからやめてほしい──。

そもそも話を聞かなければ、相手の気持ちなんてわからないのにね。

相手に共感し、その気持ちを推し量ろうとする心構えは大切。けれど、そこで相手の気持ちを勝手に決めつけ、ありもしない感情に共感して、自分の思いどおりにコントロールしようとしてはいけない。「きっとこう思っている」という決めつけは、その人の心と体を分離させてしまいかねない。

それはあまりにも空虚すぎるし、きっと誰も幸せにならないから。向き合う相手は、RPGのキャラクターではないのだから。自分の自由にコントロールできるものではなく、「はい」と「いいえ」の2択で決められるものでもなく、どれだけ強く共感しようとも、自分とは何もかもが異なる、生きた人間なのだから。

でも他方では、自分自身の気持ちも大切にしてあげてほしい、とも思う。

何かに共感することで抱いた感情は、間違いなくその人自身のものだから。それを無理に押さえつけて苦痛を感じる必要はないし、考えたことや思ったことは口にしていい。もしもそれが相手の望むようなものでなかったのなら──その場合は、修正してお互いに納得するような形にする必要はあるものの。

特に、精神的に不安定なときや自信を喪失してしまったとき、あるいは外部から何らかの強制力が働いたときには、無意識に自分の感情を偽ってしまうこともある。泣きたいはずなのに笑うしかない。楽しいのに感情が追いつかない。怒りたいのに声が出ない──。

自分というキャラクターを操作できるのは、自分だけ。にもかかわらず、まるでバグったかのように自分を動かせなくなったときには、要注意。心と体が分離し、頭に浮かぶ思考と胸に抱く感情の、どれが自分のものなのかわからなくなってしまう。それはやがて、無気力な諦観に結びつきかねない。

だからこそ、自分の意思に反した行動を取ってはいけないし、軽々しく信念を曲げてはいけないと思う。もちろん、他人とのコミュニケーションにおいては妥協や諦めが必要になることもあるけれど……そのあたりは、なんとかしてうまくバランスを保ちたいところ。

 

もし、上からの強制や周囲に流されるまま、己の意思を失ってしまうことがあったら。──そんなときは、ベッドを抜け出し、部屋の中心で左手を胸に突き刺し、ドクドクと脈打つ赤々とした♡を頭上に高く掲げ、そのまま鳥カゴにでもぶちこんでしまえ*1

 

人を動かす 文庫版

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*1:※某ゲームのアレ。