どうして非モテに恋愛相談するの……?(震え声)
――世の中には2種類の人間がいる。
「相談をする人」と「相談をされる人」だ。
自分で言うのもアレだけれど、僕はどちらかと言えば「相談される人」の立場に置かれることが多かったように思う。
友人グループの中で何かがあると、「こういうことがあったんだけどどう思う〜?」とか「ムカつくよなー」とか、2人きりの時に声をかけられるタイプ。諍いがあると、高確率で仲裁に入っていた気がする。なぜだか知らないけれど、恋愛の愚痴から始まり、「どうすればいい?」なんて相談に発展するケースも頻繁にあった。
……いや、マジでなんで?
どうして非モテにその話するん……?(震え声)
しかも男友達のみならず、女友達からも相談されるってどういうこと? 男子校出身で経験も少ない陰キャオタクだよ?? ……え? 「話しやすいから」って? ……あ、うん、それは嬉しいし満更でもないけど……ん? 「もし相談したことが彼氏にバレても、変な勘繰りされなさそうだから」って……それはどういうことなんですかねこんちく!!*1
――などという、喜ぶべきなのか悲しむべきなのかわからない僕個人の感情はさておき。
そうやって相談を受けた日の夜は、自分でもあれこれ考えてしまうことが多い。――僕はしっかり話を聴けていただろうか。嫌な気分にさせていないかな。相手が望む受け答えができていたかな。話の中では悩みが解決できなかったとしても、せめて少しでも気分が楽になっていたらいいな――と。
正しい「相談の受け方」ってあるの?
「相談を受ける人」の立ちふるまいには、答えがない。
他の人はわからないけれど、僕はそう考えている。
「相手の話を遮らずに聴く」とか、「上から目線で助言しない」とか、そういうポイントはいくつかあるかもしれない。でも結局のところは、「人それぞれ」というありきたりで投げやりな結論に落ち着くんじゃないかと思っている。
だって、相談内容は千差万別だし、話をする相手だって十人十色なのだから。
ただ話を聴いてもらいたいだけの人もいれば、明確な「解」を求めて相談する人もいる。自分を鼓舞してほしい人もいれば、キツく叱ってもらいたい人もいる。お互いに言葉を交わすうちに着地点が変わることだってあるし、一概に「相談を受ける人はこうするべき!」とは言えないんじゃないかしら。
でも一方で、相談を受けるにあたって、何かしらの指針が欲しくなることもある。「相談を受けた自分が相手を救ってあげるんだ!」なんて、おこがましい理由からではなく。少しでも相手に寄り添えるよう、気持ちを汲んでちょっとでも楽になってもらえるよう、自分にできることはしたいと思う。だって、わざわざ僕なんかに声をかけて相談してくれたのだから。
ネットで人気の「人生相談」の連載から学ぶ
「相談を受ける人」としての立ちふるまいに悩んだ際に参考になるのが、その筋の「プロ」のやり方だ。
過去に大勢の悩みや疑問に答えてきた相談のプロが、どのように答えているのかを見てみる。ただし「こういう話の聴き方をしよう!」という「相談のハウツー」はあまり参考にならない。それよりは、「実際にどのように相談を受けているか」という相談の現場や回答を見たほうがいい。
もちろん、実際に「相談をしている/されている」現場を間近で見ることはできないのだけれど。それでも、「読み物」としてまとめられているものを読むだけでも参考になる点は多い。中でも自分が好きなのが、写真家・幡野広志(@hatanohiroshi)さんと、劇作家・鴻上尚史(@KOKAMIShoji)さんの連載だ。
SNSで話題になることも多いし、読んだことのある人も多いんじゃないかしら。近年、ネット上で公開されている「人生相談」系の読み物としては、この2つの連載が特に人気を集めているように見える。なんたって、どちらも書籍化されているくらいですしね。
お二人の答え方はまったくの別物だけれど、どちらも読んでいて「これは相談したくなるよな……」と 思わずにはいられない。その点では共通している。「たしかに仰るとおりかも」「その視点はなかった……!」「そうやって考えられるの、すごすぎでは!?」なんて思いながら、いつも興味深く拝読しております。
もちろん、必ずしも共感できる回答ばかりではありません。違う選択肢もあるんじゃないかと(圧倒的に少ないものの)感じることもある。けれど、「それぞれの相談者さんが抱える悩みに対する答え方」としては、常にどれもこれもが100%納得できるものなんですよね。
相手の悩みが、言葉通りではない可能性を検討する
特に読んでいてすごさを感じたのが、幡野さんも鴻上さんも相談者さんの気持ちに寄り添うのは当然として、「相手の家庭環境や人間関係まで想像を巡らせている」こと。簡単に書いているけれど、これってとてつもなくすごいことなんじゃないかしら……。
送られてきた短い文章を読み込み、相談者さんの背景を分析し、そのうえで文面には書かれていない問題の本質をも見抜いて、具体的な解決策を示していく――。ここまで考えながら相談に答えられる人が、はたしてどれだけいるのかと。そう考えずにはいられない。
とはいえ、想像した人間関係が見当違いのことだってあるかもしれない。ただ、仮に想定とは異なっていたとしても、相談に対する回答や提案まではおそらく見当違いになっていない点も、2人のすごいところだと思う。「もしかしたらあなたはこういう状況に置かれているかもしれない、そうでなかったとしても――」という形で、複数の切り口で「回答」しているからこそ為せる、一種の “業” なんじゃないかと思う。
「相手の悩みが文面どおりではない可能性を検討する」くらいなら、まだギリギリ自分にもできるかもしれない。けれど、そのうえで「悩みの本質を探り、相談者さんの環境や関係性にまで思考を巡らせ、具体的かつ現実的な解決策を提示する」なんてことは、なかなかできることじゃない。少なくとも僕には無理です。自分の経験の範疇でならばギリギリ……といったところかしら。
先ほど挙げた本『なんで僕に聞くんだろう。』のあとがきで、幡野さんは次のように書いています。
たとえそれがあきらかに実現不可能な夢であっても、実現不可能ということを本人は理解している。悩む人は悩みに具体的な答えがほしいのではなく、不安を理解し自分の答えを肯定してほしいのだ。
だから悩み相談でいちばん大切なことは、相手の答えを探ることだ。 答えは悩む言葉のなかに隠れている。悩み相談は相手を分析する作業だ。
男性がやりがちな「問題解決」だけでも、女性がやりがちな「共感」だけでも足りないのだ。この二つがうまくミックスされたものが悩み相談に必要だとおもっている。
(幡野広志著『なんで僕に聞くんだろう。』Kindle版 位置No.2,820より)
「問題解決」と「共感」の組み合わせ。
これが、「相談」の本質なのかもしれない。
そもそも「相談」が相手ありきのコミュニケーションである以上、どちらかが欠けていたら成り立たないのも当然なんですよね。淡々と機械的に解決策を示すばかりでは相談者さんも納得しにくいし、かと言ってうんうん頷くだけでは前に進めない。いや、「話を聞いてもらえた」だけで多少は楽になるだろうし、それで前に進める人もいるとは思うけれど。
寄り添い、背中を押すために、考える
――そんなことを考えていて、ふと思い出した。「そういえば自分も、過去にネット上で相談を受けていて、似たようなことを考えていたっけ」と。
きっかけは、過去に書いた「会社を辞めたよ!」のブログ記事。そちらの記事が検索上位に表示されていた時期があり、ブログを読んだ入社1〜3年くらいの若手社員さんから、「退職を考えているのだけれど相談に乗ってほしい」という連絡をいただくことが結構あったんですよね。
メールでやり取りをすることもある一方、実際に会ってお話を聴くこともあり、総勢50人ほどの相談に乗っていた過去の自分。当時の自分の思考が残っていないか探してみたところ、こんなことを書いていました。
お話に来てくださった方々は皆、一人ひとりが異なる悩みや問題を抱えていらっしゃるようでした。けれど一方では、そういった “自分のような見ず知らずの他人に相談し” にお声がけくださった皆さんなりの共通点というか、傾向のようなものも感じられたのです。
具体的には、多くの人が「結論ありきで相談に来ている」ように見えた点。
転職しようかどうしようか、するとしたらどのタイミングが良いか、仕事での不満や問題を解消するにはどうしようか、自分ができることは何か、できないことは何か、今後のキャリアプランをどうするか──など。
細分化すれば、まだいくつかの選択肢が脳内にあるだけで、実際にどう行動に移すかは決めかねているようでもありました。しかし、それら幾重にも枝分かれしている「問題」の、その大元となる部分は、すでに各々のなかで「結論」が出ている人が多いように感じたのです。
(50人近くの読者さんの退職相談を受けてきて感じたこと - ぐるりみち。)
――なーんだ、やるじゃん、過去の僕。
正直、幡野さんや鴻上さんのように答えられていたなんてことはないし、若造である自分の言葉に説得力があったとも思えないけれど。それでもこれを読むかぎりでは、少なくとも「寄り添う」ことくらいはできていたんじゃないかなと。そう感じました。
むしろ、相談してくださった方と同年代で、自分も同じ悩みを抱えていた時期があったからこそ、共感しながら話を聴けていたのかもしれない。だから、今の自分が同様の相談を受けたところで、同じように寄り添えるかどうかは怪しいんじゃないかと思う。
多くの人に寄り添う共感力と想像力、そして問題解決力を得るには、相手の事情を汲み取り言語化するための知識と経験が不可欠。
ありきたりかもしれないけれど、わかりやすく換言するなら、このような表現に落ち着くのかなと。幡野さんの『なんで僕に聞くんだろう。』を読みながら、改めてこんなことを考えた連休でした。
言葉で人の歩みを止めることも、背中を押すこともできるならば、できるかぎりぼくは背中を押す人でありたい。
(同著 Kindle版 位置No.2,836より)
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*1:実際のところは「人の色恋話を聴くのたーのしー!」という気持ちで楽しく聴いておりましたありがとうございます!