小中学校の帰り道。
わざわざ時間をかけて、寄り道をしながら家を目指すのが好きだった。
ちょろっと公園に立ち寄り、ベンチにランドセル・鞄をほっぽり投げて、遊具でキャッキャウフフするような。友達の家に行くとか、他に遊ぶ予定がある場合は全力ダッシュで帰っていたけれど、それがないときはぶらぶらと。
自由気ままに、公園でくっちゃべりながら遊ぶとか、裏山に登って秘密基地っぽいものを作ってみるだとか。小学生のときは動きまわってたけれど、中学に入ってからは「立ち話」的なものが大半だったかな?
だけど、それも高校生くらいになるとなくなってしまった。というか、自分から避けるようになった気がする。大学でも、部室でダラダラと過ごしはしても、帰るときは1人でとっとこ帰っていた記憶が。他の友人はなるべく誰かと帰ろうとしていたけれど。
別に集団行動が嫌いなわけじゃないし、友達とどこかに遊びに行くのは楽しい。その道すがら、ぺちゃくちゃ喋りながら向かうのも興奮する。
でもなんでか、日常的に登下校を誰かと一緒にしようという気にはならなかったし、今でも飲み会後は、1人で電車に乗りたい気持ちが強い。どうしてだろう。
帰りの方向が同じ友人が少なかった?
小中学から高校に進学して変わったことと言えば、電車に乗って登校するようになったこと。自宅の最寄駅から20分ほど私鉄に乗って、そこからはスクールバスでさらに約30分。家から1時間弱といったところかしら。
そもそもの話として、登下校の道中が一緒の友人がいなかったことが大きいのかもしれない。学校からは複数方面のスクールバスが出ていたし、ターミナル駅には私鉄とJRが通っており、それぞれに上り下りと選択肢がたくさん。
そのようななか、「自分と帰りの方向が同じ」という人は少なかったはず。それゆえに、「高校3年間でぼっち行動に慣れた」という面はあるのかもしれない。
──べべべべつにさみしくねーし! せっかくモンハンを買ったのに、帰りに一緒にプレイする友達がいなくてすぐに飽きたなんてことねーし! やっぱりポケモンっすよ。うむ。
公共交通機関ではおとなしくしていたい?
また、公共交通機関を日常的に使うようになったことで、「『周囲の目』を気にするようになった」という面もあるように思う。
ファミレスでテンションが上がってバカ話をするようなことはあっても、話し声が少ない電車では周囲の視線が気になるもの。
やんちゃな男子高生だけあって、帰りの電車で楽しそうに盛り上がっているのを見ても、自分もそこまではっちゃける気にはなれなかった模様。それよりも、隅っこの席でiPodを聞きながら爆睡するのを好んでおりました。あ、ちゃんとカナル型+音量小さめですよ。
どちらかと言えばおとなしめの、教室では隅っこでカーテンにくるまって休み時間を過ごしているような人間だったので、いつでもどこでもひゃっはー! と騒げるようなキャラではなかったのです。
──もちろん、騒ぐときは騒ぐけれど。
だって、オトコノコだもの。
でも、そうやって遠慮なく騒げるのも学生のうちと考えてみると、もっとキャッキャウフフしても良かったようにも思う。
さすがに大学生になると、公共の場であの独特の「ウェーイ」なテンションは嫌われやすそうだし。高校生なら、まだ爽やかさと子供補正で許せそうな。程々ならば。
「自分の時間」を重要視するようになった?
そんな「ウェーイ」な大学に入ったことで、「行き帰りは1人のほうが落ち着く」という感覚がより高まったように思う。
サークルの活動中とか、飲み会の席で「ウェーイ」するのはいいんすよ。大好きっすよ。サークル活動ではちゃんとした名目があるし、飲み会では誰と誰が恋仲だとか修羅場だとか、他愛のない話で盛り上がることができた。
ただ、それが終わって「はい、解散!」となったあとには、そそくさと退散したくなる気持ちが強かったのです。
途中までは路線が同じ友人も何人かいたので、そこまではうだうだと話しながら帰ることも多いし、確かにその時間が心地良いときもあった。でも、それが逆に苦痛に感じることもあったのです。
飲み会後、解散までのぐだぐだタイムもあまり好きじゃないので、「2件目行くならはよ!」と急かしたくなるタイプ。端から見るとうざいのでしょうが。移動してから話せばええやん。
そんなときに「2件目はここだよー! 行くよー!」とちゃちゃっと決めて誘導できればいいのだけれど、「空気読めよ……」的な視線に貫かれるのが怖かったので、立ち回りがうまい、まとめ役の人をそれとなーく急かすくらいしかできない僕氏。……中途半端っすね、はい。
だけどなんというか、そこまでして一緒にいて「ウェーイ」しなくてもいいように感じていた。「はいおしまーい! おつかれー! じゃあの!」ときっちりさっぱり別れたい。
で、帰りの電車では自分のことをやりたい。読書だとかゲームだとかネットだとか。多分、当時は無意識に住み分けをしていたのだと思う。友人との雑談は雑談として、飲み会や学校、休日の遊びの場の中で完結させたかったんだろうな。
こうして見ると、単に性格の悪い、面倒な人間にしか見えない……というか、それは間違っていないのだけれど。でもでも、逆のパターンなら全然おっけーなんすよ。
つまり、待ち合わせなどで待たされる場合。誰かが遅刻するだとか、予定が変わって時間ができてしまっただとか、そういう場合はいくらでも待てる。そっかー、じゃあ本読んで待ってるわー、と。
解散後のぐだぐだは苦手だけど、集合前のぐだぐだは大丈夫。誰かと一緒に待たされるにしても、まったりと雑談に興じることができる。解散後だと、早々に逃げ出したくなるのにね。なんでだろうね。
決して「すべての行動をきっちり区切って動きたい」というわけではないし、「なるべくおひとり様行動でいたい」というわけでもない。
ただ、飲み会にせよサークル活動にせよ、その場で一度「終わり」にするのであれば、その瞬間はきっちりと区切りたい。解散の合図が出たら、「じゃあの」とちゃっちゃと帰りたい。翌日に「機嫌悪かったの?」とツッコまれたけれど、ちゃうねん。そうしたかっただけやねん。
──少し話題が別方向に向かっていましたが、「行き帰りは1人のほうが落ち着く」という大学時代の感覚については、「学内の関係性は学内のものとして、そこで完結させておきたかった」のかもしれない。いつも同じ仲間とばかり顔を合わせていると、たまに離れたくなることがある──というか。
あとは「電車の中だと話しにくい」っていう側面もあったかもしれない。声のトーンにも気を遣うし、あまり込み入った話をするのも憚られる。それならば、部室や飲み会の場でしっぽりと話したい。遠慮なく。これはなんて言うんだろう……。潔癖症? コミュ症?
一言でまとめると、「他人の目を気にしすぎ」で収まるような気がしてきた。自意識過剰ェ……。