ぐるりみち。

平成生まれのフリーライターのブログ。本・映画・マンガ・アニメの各種レビューに、旅行・グルメ・街歩き日記など。

感情をコトコトと煮るように過ごしている

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 感情をコトコトと煮るように過ごしている。
 そんな気がする。

 近頃はすっかり人と会う機会も減り、家にこもってパソコンに向かう日々。あるいは喫茶店でメモを取りながら本を読むか、カメラ片手に写真を撮りながら東京の街々を巡るか──。ひとりぼっちで歩く冬の都心は物寂しいようにも思えて、それでもどこか、あたたかい。

 ありがたいことに夏頃から継続して書評の依頼をいただいているため、本を読む時間は増えた。普段は手に取らないジャンルの本を読むのは、思いのほか新鮮で刺激的。稀に内容の薄いビジネス書を手に取って、「どうやって紹介してくれようか……」と悩むことはあるけれど。それはそれでやりがいがあって楽しい。

 主題を読み取り、その本ならではの特徴と魅力を整理し、それを読者さんにも伝わるよう言語化してまとめる。そんな作業を繰り返していたら──なぜだか、小学生時代にせっせと作っていた壁新聞を思い出した。当時は新聞の紙面のスペースを、現在は原稿の文字数を考慮しながら、制限のあるなかで情報をまとめる作業は好きだ。そこに自身の主張がないとしても、それも一種の「表現」であることに変わりはないから。

 でも一方では、感情よりも論理を、感想よりも情報を中心に据えたコンテンツと向き合う機会が増えたからか、なんとなく感性が衰えつつあるような感覚もあった。

 物事を斜に構えて見てしまうというか、関心が持てないというか……。最近のトレンドやネットの炎上を追いかけようとしても、「どうしようもないよなあ」と諦観した視線で眺めてしまうような。──まあそういうのもあるよね。大変だね。どうにかしたいよね。……でも、しゃーないやん?

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 振り返ってみれば、昨年末から年初にかけての時期に、自分の中で何かがズレてしまっていたのかなーと思う。人間関係で酷いことがあって、じいちゃんが亡くなって、他にもなんやかんやあって。

 かと言って、ショッキングな出来事によって病んでしまったわけではないし、思考停止してすべてを諦めてしまったわけでもない……とも思う。僕はいたって冷静でござる。たぶん。当時の日記やメモ帳に書き散らした言葉を読んでも、客観的に自分を顧みれているように感じるし、特に荒れていたという記憶もないので。

 いや、それどころか、むしろ当時の自分は「冷静すぎる」ようにすら映る。我ながら気持ち悪く感じるほどに。メモ帳に向かって感情をぶちまけつつも、それをどこか客観的に眺めているような。自分のことなのに、自分の問題として捉えていないような……そんな薄ら寒さがあった。

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 思うに、当時の自分はむしろ必死に「考える」ために、感情を「保留する」ようにしていたんじゃないかしら。──年末年始のログを眺めていて、そんなことを考えた。

 時として対立する言葉として扱われることもある「論理」と「感情」だけれど、同時に、両者は共存する存在であるとも思うんですよね。──ほら、文章やプレゼンや会話術のハウツー本とかでもよく書かれてるじゃないですか。「人に何かを伝えるには、論理と感情のバランスが大切」って。

 ただし、ある物事について徹底的に掘り下げて考えるにあたっては、主観的な「感情」は往々にして邪魔になる場合があるとも思うのです。

 一口に「感情」と言ってもいろいろあるけれど、その多くは一方通行だから。怒りなら怒りの、悲しみなら悲しみの方向へ突き進むばかりで、強すぎる感情を抱えながら論理的に考えるのは難しい。もちろん感情を起点としてロジカルに思考を深めたり、逆に論理を起点に考えることでエモーショナルな気づきを得られたりすることもあるのは間違いない。ただ、それには双方のバランスが均衡していないと難しい。

 だからこそ、年末年始にかけての自分は、当時抱えていたモヤモヤと絶望の原因と対策を考えるために、感情をひとまず保留状態していたんじゃないか──と思う。「この話は置いといて」とジェスチャーで示すように、感情的な自分自身を横に “置いて” いた格好。

 その甲斐もあって、問題となっていたモヤモヤについては1年かけてなんとか解消できた……はず。三十路を前にアホみたいなことに時間をかけているような気もするけれど。……でもまあ、そもそも人としての基本スペックが劣る身としては、1年で噛み砕けたのは上々なんじゃなかろうか。──うん、そういうことにしておこう。自己肯定、たいせつ。

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 で、先ほどの “なんとなく感性が衰えつつあるような感覚” は、おそらくはそのような現状もあって感じていたものなんじゃないかと思ったわけです。常に感情を押し殺していたわけではないものの、横にどけて保留していたことによって、感性とか気分とか、エモーションの部分がここ最近は減退していた感じ。

 そんな只中で感情を完全には殺さずにいられたのは多分、それまでの習慣があったからだと思ってる。たまにはお昼にうまいもんを食べるとか、東京の街を歩きながら写真を撮るとかいった、日中のあれこれ。どれも自分ひとりで楽しめる活動だからこそ、自由気ままに動いて癒やされていたんじゃないかしら。

 そして、やっぱりというか何と言うか、僕にとっては何よりも「コンテンツ」の存在が大きかった。小説・映画・アニメ・ゲーム・マンガといった媒体に関係なく、あらゆる「物語」に救われていたという実感がある。今も昔もそれは変わらないけれど、前述のような事情があった2018年は、特にその感覚が強かった。

 実際、我ながらドン引きするほどに今年は泣いた気がするのよね……。もともと涙腺はそんなに強くないほうだと思うけれど、それにしても泣きすぎである。ままならない現実の問題で感情を置き去りにしていたぶん、虚構やネットの世界でやたらと感情を動かされていた印象。歳をとったから……ではない、たぶん。

 某ゲームに感動したかと思えば絶望のドン底に叩き落とされ、あまりにもドンピシャすぎる思春期の関係性を描いたアニメに尊みの涙を流しながら昇天し、未来を感じさせる仮想世界のパフォーマンス交流に感激し、興味本位で観に行った映画で終演後はトイレに引きこもらざるを得なくなるほどに嗚咽した。……あとは某企画にて、嬉しさが極まって溢れた温かく優しい涙に、思わずもらい泣きして鼻血が出た。

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 それまでずっと置き去りにしていた現実の感情に対して、数々の物語とコンテンツによってもたらされてきた感情の数々。それを逃さないよう自分の中に取り入れつつ、せっかく生まれた想いが冷めてしまわないよう保存し、温めながら過ごしてきた。──2018年は、そんな1年だったように感じる。

 そして今は、コトコトと煮込むように温めてきたそれを、この年末にもう一度味わえたらいいな、と思っている。ブログでざっくりとまとめるのもいいし、もしもそれを同じように好きな人がいるのなら、一緒にもぐもぐしながら語らいたい。2019年はわっほいわっほいと、感情的に生きるために。

 

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