改まって考えてみると、「幸せ」って随分と曖昧な感覚だよなーと思う。……あれ? そんなことない?
別に、現在の自分が「不幸」だと思っているわけではありません。住む場所があり、なんとか暮らしていけるだけの稼ぎがあり、数は少ないけれど友達もいる。人並みの生活ができていて、趣味の活動をする時間もある。
……そんな状態を、まさか不幸だなんて!
でも同時に、「今この瞬間が、とてつもなく幸せ!」というわけでもないように感じる。
なんとなーく日々を消費し過ごしているような感覚で、「幸せひゃっほぅ!」とテンションが上がることは年に何回もないんじゃなかろうか。不幸ではないけれど、幸せかどうかを問われると……それも、どこか漠然としているような。「幸せ」って、意外と掴みどころがない……気がする。
そう考えると、「不幸」のほうがまだわかりやすい。脈絡なく突如として自分に降りかかる「不幸せ」は、理不尽で苦しくて、多くの場合で不可避のもの。
たとえば、事件に巻きこまれたとか、事故の被害に遭ったとか、大切なものをなくしてしまったとか、身近な人がいなくなってしまったとか。
予測不能の外的要因によって降りかかる不幸は、僕らをたやすく失意のどん底に落とし、すぐには立ち直れなくしてしまう。なかには「寝れば忘れる!」という人もいるかもしれないけれど、誰もがそうとは限らない。絶望と失意の度合いが大きければ大きいほど、傷を癒やすには時間がかかる。
でも同時に、 “外” からもたらされるのは、何も「不幸」に限った話でもない。外的要因によって得られる「幸せ」だって、いろいろある。
受験に合格したとか、昇進が決まったとか、恋人ができたとか。周囲の環境や人間関係が自分の望む方向へと動き、欲求が満たされた瞬間にこそ感じられる、幸福感。――こうして見ると、日常的に得られる「幸せ」はむしろ、外部由来のものが多そうですね。
ただ、「幸せ」については、 “外” からもたらされるだけでなく、 “内” からこみ上げてくる場合もあるんじゃないかと思う。
趣味の時間が楽しくて幸せ。うまいもん食って幸せ。寝る前に湯船に浸かっている瞬間が幸せ。思う存分に眠れる週末が幸せ――などなど。
趣味もうまいもんも “外” のものではあるけれど、それでも「不幸」とは明確に性質が異なるように思う。なぜって、これらの「幸せ」は予測不可能なものではなく、自分で選択した行動によってもたらされた結果だから。
つまり、外的要因に大きく左右される「不幸」をコントロールするのは難しい。でも、「幸せ」はそうでもない。……ふと、そのように思ったわけです。
であるならば、どうしても受け身になってしまう「不幸」に対抗する形で、能動的に「幸せ」をつくり出し自覚することができれば、楽しく日々を過ごすことが可能なのでは……?
自ら「幸せ」をつくり出す――なんて書くと、なんかヤバい薬やら催眠やらの領域に突入しそうな怖さがあるけれど、自覚的に幸福感を得ることは難しくないとも思うんですよね。自ずから「幸せ」を生み出し、自覚できるようになれば、人生を最高にハッピーでヒャッハーにできるはず。
で、どうして急にこんな話を始めたのかと言いますと。先日、そういった「幸せ」を、珍しく感じられる出来事があったんですよね。
我ながらチョロいとは思うけれど、思わず「あ~~~~! しあわせ~~~~!!」と、どこぞのウサギさんのように叫んでしまうくらい。
それが、メシである。お酒である。
より具体的に言えば、魚と日本酒。
具体名を挙げれば、喉黒と磯自慢。
ちょっと前に口にしたそれらが、なぜか無性に美味に感じられて、心底からハッピーな気持ちになったのでした。「うまい!」や「最高!」でなく、自然と「しあわせ~~~~!!」という感想が口をついて出てしまった感じ。我ながらびっくり。
実際、その瞬間は本当に気持ちよかったし、その後もしばらく幸福感が持続していたように思う。家に帰ってもニッコニコ。寝て起きてもニッコニコ。さすがにそのまま外出すると通報されそうなので、玄関を出た瞬間にスッ……(・_・)と真顔に戻りましたが。
……でも、飲み会はほかにもあるのに、どうしてその日だけ多幸感に満ち満ちていたのだろう?
理由はいくつか考えられるけれど、「普段は口にしないうまいもん」を「気心の知れた友人」と一緒に飲み食いしたことが大きかったのかなーと。
いや、だって、喉黒なんて初めて食べましたもん。お高いだけあって、めっっっっっっちゃくちゃおいしかった! それを、ひさしぶりに会った大学の友人と一緒にもぐもぐできたことで、「おいしい!」メーターを振り切り、「しあわせ!」のレベルまで達したのではないかと。
「うまいもん食って幸せを感じられるなんて、チョロい奴だな!」と思われるかもしれませんが……まあそのとおりっすよね、はい。しかしその一方で、自分がいつ、何に対して「幸せ」を感じるかというのは、その時々によって変わってくるんじゃないかとも思うんです。
自分について振り返ってみても──たとえば会社員時代だったら、「メシ」よりも「風呂」が幸せの源泉となっていたので。
毎週末、肉体労働で疲れ果てた体を癒やすべく、ド田舎から電車で1時間以上かけて通っていた、スーパー銭湯。その露天風呂──特に寝湯で寝転んで空を見上げる瞬間が、とてつもなく「幸せ」に感じられていたことを覚えています。風呂は命の洗濯よん☆
つまるところ、「自己完結」できることが「幸せ」の強みなんじゃないかと。
日常生活は忙しなく、人間関係はままならず、度し難い理不尽に見舞われながらも、「自分はこうすれば『幸せ』を感じられる」というものを持っておけば、毎日を楽しく過ごせるのではないかしら。
自分の「幸せ」の在処を言語化しておけば、いざという時の避難場所にもなりますし。不幸を感じたら、うまいもんを食う。風呂に入る。早寝する。酒を飲む……のは、逆効果の場合もあるのかな。いずれにせよ、「ワシの幸せはこれじゃ!」と言えるものがひとつはあったほうが良さそう。
そんなこんなで、自分がどういったときに「幸せ」を感じられるか、没頭できるほどに楽しめる活動は何かといった点を把握しておくことの大切さを、改めて感じたのでした。
なんともわかりにくい、しかも自己啓発っぽい話になっちゃったけれど、要するに「うまいもんはうめえ!」ということが言いたかっただけなのです。1人では晩酌すらあまりしないけれど、友人と飲む日本酒は最高においしい。そこにうまい肴があれば、言うことなし。
これから年末にかけて、「幸せ」を感じる機会を増やしていけたらいいな、っと。