2025年の目標は、「もっと本を読む」「そのための時間を意識的に確保する」です。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 自分の言葉でつくるオタク文章術
一口に言えば、オタク向けの文章読本。もうちょい補足すると、「推しへの愛を語りたいが諸々の理由でうまくできないオタクに向けて、『表現』の方法と楽しさを指南する本」。いずれにせよ「文章術のハウツー本」であることは間違いないのだけれど、文章にとどまらない「表現」の方法を取り扱っている。それが、この本だ。
この手の本は探せばいくらでもあるものの、なんというか……本書はものすごく「今」っぽい。【令和最新版】の文言を冠してしまって良いと思う(悪い意味でなく)。特に普段からSNSを使っている人にとっては実用性が抜群に高く、得られるものも多いんじゃないかしら。
というのも、本書はただ単に「文章の書き方」を教えてくれるのではなく、「推し」という存在を通して、あらゆる場面で使える「言語化」の効用を整理してくれているのだ。「推しの魅力を発信できて楽しい!」では終わらず、「それを言語化することで、あなた自身にもメリットがありますよ」と説いている。このように。
推しの魅力を伝えるのって、すごくすごく素敵なことです。自分の好きなものを語ることは、結果的に自分を語ることでもあります。
冷静に自分の好みを言語化することで、自分についての理解も深まる。それでいて、他者について語っているのだから、自分じゃない他者にもベクトルが向いている。すると、他者の魅力や美点に気づく力も身につきます。
せっかく出会えた好きなものや人について語ることは、自分の人生の素晴らしさについて語ることでもある。私は真剣にそう考えています。
(三宅香帆『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 自分の言葉でつくるオタク文章術』P.46より)
この本を読んで改めて思うのは、「オタクは、もっともっと語っていい」ということだ。
ライブの感想や作品に対する愛を、もっと自由に垂れ流してほしい。配信のコメント欄では問題視されがちな「隙あらば自分語り」だって、個人のSNSやブログ、Podcastなら、どれだけやったって構わない。「自分には語彙力がないから」などと言わず、きっとどこかの誰かが必要としているだろう“あなた”の声を、もっとぶちまけてほしい。
本書は、その「声」の出し方を教えてくれる指南書となりうる1冊だ。今、この文章を読んでいるあなたにこそおすすめしたい。
(※今は新書版が書店でよく売れているようです↓)
教養としての俳句
「俳句の味わい方」を平易な文章で説明した、初心者向けの入門書。
難解な表現はなく、専門知識が必要とされるような部分もなく、本当に何も知らない人でもスルスルと読み進められる。「俳句って、五七五のアレだよね?」「川柳とは何が違うの?」という人でもぜんぜんOK。むしろ何も知らない人ほど「それも俳句なんだ!?」という驚きがあり、興味深く読めるはずだ。
一口に「俳句の味わい方」と言ってもさまざまだが、本書は「教養」を切り口にしているのがポイントだと言える。俳句を通じて、どのように自然の情景を捉えるか。俳句では、どのように生活の営みが切り取られているのか――。本書では、日々の暮らしや人生を見つめ直すこと、そうして「私」のあり方を捉え直すことを「教養」だとしている。
現代にまで残る名句を参照しつつ、まずは俳句の歴史から順を追って説明。その上で、特に「写生」や「季語」を大きなトピックとして解説を加えることで、俳句ならではの味わい方を教えてくれる。俳句の入門書として、最初におすすめしたい1冊だ。
俳句ミーツ短歌
同じく、初心者向けの俳句の本。だが、「短歌」も一緒に取り扱っているのが本書の特徴だ。
一言で説明するなら、俳句と短歌、2つの世界の楽しさを覗き見できる案内書。「そもそも短歌って何?」「俳句と川柳って何が違うの?」という前提と基礎知識から丁寧に説明してくれるので、一応は「入門書」に数えられる本のはずだ。
『万葉集』や『古今和歌集』の時代まで遡り、現代に至るまでの種々様々な「歌」が登場。その系譜と変遷、表現技法や味わい方まで教えてくれるので、読む前と読んだ後とで、自分が「歌」を捉える際の解像度が明らかに変わっていることがわかる。
ただし本書は、筆者が主宰する俳誌の連載企画をもとに加筆した内容らしいので、内容はそれなりに専門的。じっくり読もうとすると、それなりに時間がかかるかもしれない。自分の場合、メモをとりながら読んだところ、読了まで5時間はかかった。いい感じの読みごたえではあったものの。
本書『俳句ミーツ短歌』は、俳句や短歌の様々な側面を紹介することで、また、俳句と短歌の接点と違い(あ、俳句ミーツ短歌!)を紹介することで、誰でも俳句や短歌について「わかった気になれる」一冊である。「わかった気になれる」というのは、専門の学者と渡り合うのは無理にしても、それ以外の人たち相手には大いに語れるくらいの盛りだくさんな内容が、わかりやすく詰め込まれている、という意味である。
(堀田季何『俳句ミーツ短歌』P.3より)
「はじめに」にも書かれているように、本書の効用はずばり、「わかった気になれる」ことにある。
読了後に改めて振り返ってみても、実際この通りの内容だったように思う。専門的な知識が身についたかどうかはさておき、「俳句」と「短歌」というそれぞれの文化のざっくりとした違いと変遷、魅力や楽しみ方を、なんとなく「こういうものなんだな」とわかった気分になれている。
あるいは、俳句や短歌について「自分の興味関心がどこにあるのか」を判別する、リトマス紙のような役割を果たしてくれるかもしれない。本書通して2つの「歌」の特色を知り、さまざまな歌人・俳人の作品を詠むなかで、自然と「あっ、これ好き」と出会うことができる。その点は、取り扱う分野が幅広い本書ならではの魅力と言えそうだ。
ちなみに自分の場合、本書を読み終わって以来、正岡子規の生涯と人生観が気になって仕方がない。何かおすすめの本があったら教えてください。
三行で撃つ
本書曰く、「生きる」とは、文章を書くことである。ライターとは、生きる人のことである。感性を研ぎ澄ませ、無理して、努力して、おもしろがる人のことである。
本書曰く、「文章を書く」とは、品格のある人間になることである。表現者になることである。文章は人そのものであり、表現者とは、おもしろい人のことである。
自分が大好きな本に、「物書きは人生を二度経験する」という言葉がある。そして、今回読んだ『三行で撃つ』にも、その指摘と通じるものがあった。
はたして、最近の自分は、人生を二度経験することができていただろうか。一度だけで満足しちゃっていたんじゃなかろうか。「書く」ことによって、「生きる」を実践できていただろうか――。そんなことを、改めて考えた。
あとがきの直前に、このような一文がある。
文章を書くとは、迷路を創ることである。
(近藤康太郎 著『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』P.311より)
長年にわたって続けてきた、気づいたら続いてしまっていた、迷路づくり。小学生時代に原稿用紙の上で始めた迷路づくりは、いつの間にかパソコンの画面上で行うようになり、やがてそれが仕事になり、自分の人生のメインロードにまでなってしまった。
とはいえ、迷路づくりに正解はない。たまにはその紙をひっくり返してみて、道なき道を刻んでみてもいいのかもしれない。それはさながら、複雑怪奇な地下迷宮のように。入るたびに構造が変わる、ダンジョンのように。
さあ、迷路づくりを、始めよう。