2時間で読める文化人類学の入門書!『はみだしの人類学 ともに生きる方法』感想


『はみだしの人類学 ともに生きる方法』を読んだ。――前々から気にはなっていたのです。本やPodcastで見聞きする機会の増えていた、「文化人類学」なる分野の存在は。

民俗学は大学でちょっとだけ齧ったことがあったものの、文化人類学はほぼノータッチ。でも最近、Podcast『a scope』の文化人類学回*1で「なるほどおもしれえ〜!」などと興奮したり、同じくPodcast『コクヨ野外学習センター』*2をつまみ聞きしたり、ほかにも関連する話題をネット上で目にしていたりと、ここ1〜2年は特に興味をひかれていた分野だったんですよね。

そんな折、Twitterでおすすめしていただいたのが本書だったわけでございます。

NHK出版の「学びのきほん」シリーズから出ている本ということで、読みやすさと理解のしやすさは折り紙つき。「文化人類学なんもわからん」という自分でも楽しく読むことができ、さらに最後には「このブログとも通じる話じゃん!」と共通点を(勝手に)見出すなど、まっこと興味深い1冊でございました。

 

「つながり」によって「分断」が可視化された?

まずおもしろく感じたのが、本書のキーワードでもある「つながり」「はみだし」について。

しばしば大切なものとして語られている、「つながり」や「絆」といった言葉。でも一方で、個人的には「むしろ “つながりすぎた” せいで問題が噴出しているのが今なのでは?」と感じていた部分もあったんですよね。昨今のSNSがそうであるように。それまでは接点のなかった人や集団同士が「つながる」ことによって、問題が可視化されることになった。その規模が大きくなり、やがて「分断」として捉えられるようになったのではないかと。

しかしいざ本書を読み始めてみると、まさに自分が感じていたことが書かれていてびっくり。上記の疑問に答えるような形で、「つながり」という言葉を噛み砕いて説明してくれていたのです。

「分断」は、かならずしも「つながり」が失われた状態ではない。激しく対立し、分断しているように見えるのは、むしろ両者がつながっているからかもしれない。そう考えると、世の中が少し違って見えるはずです。

(松村圭一郎 著『はみだしの人類学 ともに生きる方法』Kindle版 位置No.174より)

一見すると真逆の言葉であるにもかかわらず、なぜ「つながり」によって「分断」が可視化されてしまうのか。筆者はまず、人との関わりや集団への所属によって生まれる「つながり」には、以下の2つの働きがあると指摘します。

  • 存在の輪郭を強化する働き
  • 存在の輪郭が溶けるような働き

「存在の輪郭を強化する働き」は、ピンとくる。

たとえば、「子供」は親なしでは「子供」でいられず、「親」は子供なしでは「親」でいられない。対立・対応する要素を持つ存在との関係があるからこそ、人は「子供」や「親」といったカテゴリーに分類され、周囲からもそのような存在として認識される。

「〇〇人」という分類だってそうだ。もしも地球にひとつの国しかなかったら、「日本人」という存在は成り立たない。「自分たちとは異なる存在」がいるからこそ、自分たちの固有性が際立つ。そうである人と、そうではない人。双方に違いを見出すことで初めて境界線が引かれ、お互いの輪郭が強調される。もちろん、時としてそれは争いの種になり、分断を加速させることもあるけれど。

では一方で、「存在の輪郭が溶けるような働き」とはどういうものなのだろう。

違う側面から「当たり前」に光を当てることで、問いを立てる

そもそも文化人類学は、「人類文化の多様性のなかから、西洋社会が考えもしなかった別の選択肢を見出す学問」として注目され、19世紀末〜20世紀前半にかけて発展してきた。しかし同時にそれは、「植民地支配の道具」でもあったと筆者は指摘する。かつての文化人類学は、近代国家が未開の土地を調査し、有効活用するための手段だったのだそうだ。

しかし1970〜80年代になると、西洋と非西洋、近代と前近代といった、二項対立的な捉え方が批判にさらされることになる。文化人類学の研究は、調査対象である「かれら」に特異性を見出すことによって、「わたしたち」が「優れた西洋」であることを、自分たちの優位性を強調するための手段となってはいないだろうか――と。

この批判によって、文化人類学は大きな曲がり角を迎えることになる。

「異文化」を通じて自分たちのことを理解(輪郭を強調)しようとするのではなく、「異文化」と「自文化」とのつながり方を考える研究へ。「近代社会と未開社会には大きな溝がある!」と両者の差異を強調するのではなく、「両者はまったく別物だと断言できるのか? 見方を変えれば共通点や普遍性があるのでは?」と境界線の引き方や差異を疑うようになったのだそうだ。

先ほどの「つながり」の2つの働きが、まさにこれだ。差異を見出す比較によって輪郭を強調するのではなく、境界線の引き方を変えてみたり、境界線を越えてなお共有される側面に注目したりしてみる。この後者の考え方が、2つ目の「存在の輪郭が溶けるような働き」に当てはまる格好だ。

そのうえで本書は、この境界線を越えて「はみだす」ことによって生まれる交わりに注目。相互につながりつつも差異にあふれた「わたし」や「わたしたち」が、ともに生きるためにはどうすればいいか。常に「異文化」という他者と向き合ってきた文化人類学の考え方を参照しつつ、本書ではその方法を紐解いていく。

一般的には「当たり前」だと認識されている言葉や概念について、違う側面から光を当てることによって、問いを立てる。文化人類学はもともと、このように新たな視点を提示する学問として誕生したのだそうです。

(同書 Kindle版 位置No.197より)

2時間程度でサクッと読める入門書

読んでいておもしろかったのが、この本自体が「文化人類学」的な構造を持っているようにも感じられたこと。

「文化人類学について知りたい!」と本書を手にとって読み始めた人に対して、まずは身近で想像のしやすい「つながり」の話からスタート。世界史を参照しつつ、文化人類学がどのように発展してきたのかを説明する。また、筆者自身の具体的なエピソードにもスポットを当てて紹介することで、「文化人類学」の大枠を自然と捉えられる内容になっている。

前半部分がそのような内容になっていた一方で、後半に入ると一気に焦点を絞り、「ほんとうの『わたし』とはなんだろう?」と読者一人ひとりに対しても問いかけていく。「日本人」や「家族」といった身近な事例を多用するようになり、他者との関係や境界を自分ごととして捉えながら考えていく。つまり、読み進めるなかで自然と「はみだす」体験ができる。そんな構成になっていたように感じたんですよね*3

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から「はみだす」動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。

(同書 Kindle版 位置No.778より)

そのうえで終盤、第4章のまとめ部分の話がいろいろと心当たりのある内容で、はちゃめちゃに共感してしまったのが個人的ハイライト。

人類学者・インゴルドの著書『ラインズ』から、「直線と曲線」についての話が引用されているのですが……これって、アレじゃん。このブログのタイトルのあれこれとつながってくるやつじゃん。前々から「寄り道上等、回り道は楽しいよ!」などとこのブログでは書いていたし、なんなら現状の自分を指して「寄り道しまくった結果がこれだよ!」とも言える。こちらの本も読みたくなったし、文化人類学に対して勝手に親近感も覚えてしまう始末でございます。安直なので。はい。

あくまでも「きほん」をまとめた入門書的な本ではあるものの、得るものはめちゃくちゃ多かった『はみだしの人類学』。2時間程度でサクッと読了できるなので、文化人類学に興味がある人はもちろん、そうでない人にもおすすめしたい1冊です。巻末には読者の目的別のブックガイドが掲載されているのも嬉しい。

 

余談

冒頭で「Twitterでおすすめしてもらって読んだ」と説明しましたが、その流れで読書会(勉強会)にも参加させていただきました。YouTubeにアーカイブが残っているので、興味のある方がいらっしゃいましたら!

関連記事

*1:#09 文化人類学で、あなたの価値観は根底から覆る(ゲスト:飯嶋秀治さん) - a scope ~リベラルアーツで世界を視る目が変わる~ | Podcast on Spotify

*2:コクヨ野外学習センター | Podcast on Spotify

*3:本題からはそれるので今回は言及しませんが、前々から気になっていた「分人」の考え方が登場していて、「やっぱり読まなきゃ……!」という気持ちになりました。読みます。