僕の頭の中には、「無意味マン」が住んでいる。何か新しいことを始めようとしたときや、書店で目に留まった本を買おうか悩んでいるとき、はたまた友人から遊びに誘われたときなどに、そいつは決まって僕にこう語りかけてくる。
「それって、意味があることなの?」
その声が聞こえてくるたびに、僕は脳内でこう答えるのだ。──何を仰りやがりますか。この世の中に無意味なことなんて、そうそうありゃしないってもんですよ──と。
そりゃあ準備もせずに新しいことを始めれば、痛い目を見るかもしれない。ろくに内容も確認せずに本を買って、あまりのつまらなさに後悔するかもしれない。友人と遊びに行っても楽しめないかもしれないし、もしかしたら急に壺を売りつけられられるかもしれない。……知り合いにそんな人はいないと思うけどね! たぶん!
もちろん言うまでもなく、このような不安のほとんどは杞憂に終わる。新しい活動は日々に彩りを与えてくれるし、勢いで買った本はおもしろく読めるし、友達とはキャッキャウフフと楽しく過ごすことができる。人生は、たくさんの「意味」で満ちあふれている。
それに、もし嫌なことがあったり失敗したりしたとしても──それがどうした、って話ですよ。失敗は、決して「無意味」なものじゃない。失敗は成功の──なーんて先人の言葉をわざわざ引用するまでもなく、他ならぬ自分自身の経験によって、僕はそれを知っている。何かを思い、考え、行動に移した時点で、そこには「意味」が宿る。……そうじゃありませんこと?
そもそも、そうやってケチを付けてくる「無意味マン」の声自体、ここ数年はほとんど聞くことがなくなった。
僕の脳内の無意味マンは今や隠居生活を送っているらしく、目下「無意味」という言葉を聞くとしたら、それは外部からの声であることが多い。それも僕個人に向けられるものではなく、どこかの誰かが誰かに対して「それって無意味じゃね?」と、SNSで投げかけているのが目に入る程度だ。
それらの声は他人事ではあるのだけれど……そんな無意味マンをSNSで目の当たりにするたびに、どうしてもこう感じてしまうんですよね。
「それって、余計なお世話なのでは?」と。
もしかしたら、無意味マン当人からすれば、それは親切心から出た言葉なのかもしれない。その人が過去に「無意味だ」という結論を得たからこそ、他の誰かに二の舞を演じさせないため、「無意味だからやめたほうがいいよ」とアドバイスしている説。ありえる。ってか僕もたまに言ってた。たぶん。
でもだからと言って、「なーんだ、無意味マン、いい奴じゃん」と安易に褒めるわけにはいかないとも思う。だって、「無意味じゃね?」だけでは何も伝わらないんだもの。
せめて、なぜそれが「無意味」なのか、 “無意味” の “意味” を具体的に説明してほしい。ただ単に個人的な感覚や経験で「無意味」だと決めつけているのだとしたら……その「無意味じゃね?」の一言にこそ “意味” があるのかと、僕は問いたい。
たいていの物事・事象・事柄には、何かしらの「意味」がある。なればこそ、それを無思考に「無意味」だと切って捨てることにこそ、意味はない。そのように考えれば、「無意味だ」という思考停止こそが、「無意味」であるように思えてくる。つまるところ、無意味マンの存在それ自体が「無意味」なのだ、と。
……いや、でも、本当にそうなのかしら?
「無意味だ」という指摘に意味がないのだとしたら、そこには「意味がない」という「意味」があるのでは? 禅問答のようではあるけれど、こうして見ると、何かに対して投げかけられた「無意味」の言葉にすら、発せられた時点で「意味」が生まれている、そのように見える。
ならば、「無意味」とはいったい──?
というか、そもそも「無意味」って悪いことなんだっけ? なんとなくネガティブなイメージの伴う言葉ではあるけれど、本当に「無意味」は悪なんだろうか。「意味あるの?」「無意味じゃね?」と投げかけられた言葉に対して、泰然と「意味はあるもん!」と反論するのは、はたして正しい態度なのかしら。
ある人からは「無意味なものなどない!」と存在を無視され、ある人の口からは「無意味じゃね?」とネガティブな意味合いで発せられる──。そんな、なんとも不憫な立ち位置にある「無意味」。この概念を、全力で前向きに捉えている本がありました。それがこの、『無意味のススメ』です。
意味がない瞬間には「無意味」という余白がある
「それって、無意味じゃね?」
何かにつけてこの手の言葉を投げかけられてきた経験のある人は、決して少なくないんじゃないかと思う。
やりたいことがあるなら「意味」を示せと。
特にメリットもないものに手を出すんじゃないと。
時間もお金も有限なんだから、コスパよく立ちまわれと。
無意味マンは、決まっていつも、そう言うのだ。
──ええ、まっこと正論でございましょうとも。でもそうやって、なんでもかんでも「意味」ありきで考えた果てには、何があるんだろう? 自己満足の趣味は無意味。社会貢献のできない仕事も無意味──。そうやって切り捨て続けた先にあるのは、「人生は無意味」という、存在の全否定なのでは……?
すべてを否定しようという勢いで「無意味」を叩きつける人は、どうして無意味マンになってしまったのか。なんでもコスパ基準で考える癖があるのか、物事に「意味」を見つけるのが苦手だからか。理由はいろいろと考えられるけれど……こういう見方もできるかもしれない。
それは、「世の中が無量大数の『意味』で成り立っている」から。
僕らは常日頃から膨大な量の情報──「意味」に囲まれて暮らしている。そのなかで人は、何に置いてもコスパやメリットを考えるようになり、多種多様な「意味」を生活の中で意識させられるようになり、やがて過剰な「意味」に疲れ切ってしまうことがある。その結果、自分にとっては「意味」を感じられないものを切り捨て──他の人にとっては「意味」があるかもしれないという可能性を汲み取ることもせず──無意味マンになってしまうのだ。
押し付けられる膨大な意味たちは、ときとして私に過剰なストレスをもたらす。
どうして「殺されてしまった子供の名前」を私は知らされなければならない?
どうして「正義感を振り回す他人の群れ」を私は眺めなければならない?
どうして「祖父母たちの戦争という物語」を私は噛み締めなければならない?
必要な意味もあるのかもしれないが……あふれる意味は、やはり私を苦しめる。
(川崎昌平著『無意味のススメ』P.20より)
目や耳へと絶え間なく流れ込んでくる「意味」を受け取り続けるのは……疲れる。街中ではどこを見ても広告が目に入るし、テレビをつければアナウンサーが伝えるニュースやデータが耳に入ってくる。そしてなんとなしにスマホでSNSを開けば、いつだってそこには、見知らぬ他人の激情が流れている。
もちろん、そのような情報──「意味」の多くは役に立つものだし、生活を豊かにしてくれるし、時には僕らを救ってくれる。それは間違いない。地図や路線情報によって効率的な移動が可能になり、書籍やインターネットは新たな知識を教えてくれる。どこかの誰かが語る物語は、僕らに楽しみや癒やしを与えてくれる。
「意味」なくして、人間は、現代社会では生きていけない。
しかし、そうは言っても──いくらなんでも、僕らの周囲には「意味」が多すぎる。当人が意識しているかどうかに関係なく、僕らは周囲からもたらされる「意味」に沿って行動し、時には行動させられている。自身の思想や嗜好とは無関係に、「意味」によって突き動かされていることがある。それもまた、否定できない事実だと言える。
道に迷うことが難しい。意味が私の進むべき先をあれこれと教えようとするから。
(川崎昌平著『無意味のススメ』P.12より)
意味の最大の罪は、私やあなたから、「間違える自由」を奪ったことにある。
(川崎昌平著『無意味のススメ』P.16より)
とはいえ、個人の行動すべてが「意味」によって規定されているというわけでもない。絶え間なく流れ込んでくる「意味」の連鎖の狭間にも、ふとした瞬間に余白のような時間が生まれることがある。
駅のホームで電車を待ちながら、なんとなく手元のスマホから目を離して、空を見上げた一瞬とか。帰り道、誰かに呼ばれたり気配を感じたりしたわけでもないのに、ふと後ろを振り返ってみた瞬間とか。食事中、突如としてお茶碗とお箸を目の前に置き、次の瞬間には、また何もなかったように食事を再開してみるとか。
意味がない瞬間。そこにはつまり、「無意味」がある。そのような「無意味」の余白が持つ価値を示している点が、この『無意味のススメ』という本の「意味」だと言えそうだ。
多彩な「意味」に囲まれ、自らも「意味」の塊と化している日常の中で、あえて「無意味」を志向し、誰が見ても意味のない瞬間を見つめ、不可解な時間を愛すること。そうすることによって、何か得られるものがあるのではないか──。本書では、そんな「無意味」の「意味」を掘り下げていく。
「無意味」と遊び、「意味」を再考する
「意味/無意味とはなんぞや」という問いについて、筆者の主張と思考を交えつつ、さまざまな切り口から掘り下げていく本書。テーマを聞くと若干の小難しさを感じなくもないものの、そこに込められたメッセージはシンプルだ。
それすなわち、「『無意味』で心を休めよう」と。
他人のつくった数多の「意味」からそっと目を離し、何からも自由な「無意味」を知覚する。そうすることによって、自分の意識をニュートラルな状態へと持っていこう、という主張。どこもかしこも「意味」であふれる世の中だからこそ、ちょっとした「無意味」は程よい息抜きとなり得る。
言うなればそれは、「デジタルデトックス」ならぬ「意味デトックス」のような。
労働のルーティンに無意味を挟んでみよう。
例えばクライアントから追加でそこそこムチャな仕様変更が伝えられたとする。あなたはその事実を社内で共有しなければならない……が、その前に、会社のエントランスで右太ももを持ち上げて、左腕を高く天井へと伸ばし、五秒間、バランスをキープしてみる。意味はない。でも、あなたの焦燥は少しだけ減る。
(川崎昌平著『無意味のススメ』P.146より)
たくさんの「意味」によって疲弊し、心を摩耗させられてしまう、その前に。「無意味」を考え、「無意味」を見、「無意味」を読み、「無意味」に触れ、「無意味」と遊ぶことのススメ。普段から「意味」に囲まれ、疲れ切ってしまっている人ほど、この考え方に救われる部分もあるのではないかしら。
そして、ひとたび自身をニュートラルな状態に導くことができれば、「無意味」の中から自分なりの「意味」を見出すことだってできる。
誰かによって定義され、有無を言わさず押し付けられる「意味」ではなく、自ら発見し、自分にとって意義のあるものとして感じられる、「意味」。自ずと知覚した「意味」であれば、それによって疲弊させられることもないはずだ。さまざまな「意味」を再考するとっかかりとして、「無意味」を見つめることには意味がある。
とはいえ、こう書くと、「結局は『無意味』にも『意味』があるんじゃないか!」とツッコむこともできてしまうのだけれど。この問題については本文でも繰り返し触れられており、でもそのうえで、「だからこそ、『無意味』を見つめることには『意味』がある」のだと、筆者は述べています。
無意味の効果を説く時点で、無意味には意味があると明言しているも同然であって、その意味では、本書はその原点から矛盾を抱えていることになる。この矛盾に対して、本書は、つまり私は、特に弁解をしようと思わなかった。実際、無意味には意味があるのである、あなたの生活を少しだけゆっくりとしたものに変え、その日常をちょっとだけ豊かにする可能性を持つという意味が。
(川崎昌平著『無意味のススメ』P.182より)
ぶっちゃけ、「この本の感想を書く」という行為にも「意味」が発生しているわけでして……真に「無意味」と向き合うのは、やはり困難なことなのかもしれない。本書を読み進める最中だって、それ自体が「意味」をもたらす「付箋」なんてものをペタペタ貼りながら読んでいたくらいですしおすし。
──というわけで、僕も開き直ることにしたわけです。
「どうせ『意味』が生まれてしまうなら、徹底的に好き勝手に書いてやるぜ!」と言わんばかりに、読みやすさや意味の有無も考えず、長々としたためたものが、この感想文となります。普段であればもうちょい短く簡潔にまとめるところを、自由気ままに思い浮かんだことを書き連ねてみた格好。
無駄に長くするつもりはなかったものの、意味がありそうだったりなさそうだったりする前置きに始まり、気づけば結構な文量になってしもーた。近頃は型通りに書きすぎていた感じもあったので──そこに「意味」があるかないかはさておき──良い息抜きになったようにも感じます。助かる。
さて、「無意味」についてあれやこれやと、筆者おなじみのイラストも交えて語られる本書は、当然ながら即効性のあるハウツー本のたぐいではありません。
でも、だからと言って「意味」がないかと問われれば……「そんなことは……ないよ?」と、一応は擁護しておすすめしたいくらいには好みの1冊でした。いや、だって、「意味がある!」と断言すれば本書を否定しているようでモヤモヤするし、「無意味だ!」と言い切るのも違うような気がするので。
徹頭徹尾「無意味」について語りつつ、でもやっぱり「意味」のある話をしている、せざるを得ない本書。それでも、そんななかにひとつだけ、「マジで意味がないやつだー!」と驚き、気づいた瞬間に笑ってしまった、極上の「無意味」がありました。
もちろんこれも、反応してしまった時点で「意味」が生まれてしまっているような気もするけれど……。でも、その瞬間に得られた爽快感こそが、「無意味」の効能を端的に表すものだったのかもしれない。ぜんぜん小難しく考える必要はなくて、こんなのでいいんだと、そう思わさせられました。
なーんだ、「無意味」って、すっごく楽しいじゃん。
意味を捨て、無意味を楽しみ、また、意味を生む。
その繰り返しが人生なのだとしたら、
そんなに素敵なこともないと私は思う。
(川崎昌平著『無意味のススメ』P.178より)