喜怒哀楽を大切に、ゴキゲンに生きる。『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』を読んだ


 「幸せ」ってなんだろう。

 ──という問いについては何度も考えている気がするし、むしろ2ヶ月前にもブログで書いていた。そのときの自分なりの答えは、「普段は口にしないうまいメシを、気心の知れた友人と一緒に飲み食いすること」である。

 ……うむ、あまりに最大瞬間風速──もとい “最大瞬間幸福” すぎて、まったく参考にならなそう。でもまあ、当時の自分にとってはそれが「幸せ」の形だったのでしょう。普段は自分ひとりの静かな時間が落ち着くものの、たまには誰かと話をしたくもなる。そこにうまいメシと酒があるとくりゃあ、そりゃあ満ち足りた気分にもなるだろう。

 しかし一方で、普遍的な意味での「幸せ」の所在は、いまだよくわからない

 別に、今の自分が不幸だとは思っていない。わずらわしい人間関係に辟易させながらも、それなりには日常を楽しく過ごせている。ありがたいことに仕事もあるし、何かあれば声をかけてくれる友人知人も(少しは)いるし、普通にメシを食って寝ることができている。しあわせ。

 現状維持でも充分に満たされており、それ以上何かを求めようとするのは強欲なんじゃないか──とも思わなくもない。でもやっぱり、 “それなりには” という枕詞が自然と付いてしまうくらいには、何かしらの物足りなさを感じていることも事実なのです。

 そこにあるのは、代わり映えのしない毎日とルーチンワークの繰り返し。少ない収入に焦燥感を覚え、夢に向かって働く同世代を見て眩しく感じることだってある。 “そこそこ満足している人生” を認めつつも、何かが物足りない。拭えない空虚さをどうにかしたい。そのようにも、考えてしまう。

 では、「そこそこじゃない人生」にたどりつくためには、どうしたらいいのだろう。その方法論をまとめているのが、『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』というこの本だ。

 オタク系イベントの司会やラジオパーソナリティとしておなじみのアナウンサー・吉田尚記@yoshidahisanoriさん*1と、予防医学研究者・石川善樹@ishikun3さんの2人による、ほどほどにゆるい対談本。タイトルのとおり、「科学」の視点から人生の問題に切りこむ1冊となっています。

 

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「朝ワクワクして目が覚めて、夜満ち足りた気持ちで眠れるか」

 本書を貫くキーワードのひとつに、「ワクワク」という表現がある。

 深刻になりすぎず、かと言って無感情かつ作業的にこなすのでもなく、ポジティブな感情でもって事に当たること。子供のような無邪気さでもって、ある活動を楽しむことができるかどうか。それがまず、「幸せ」を考えるにあたって大切になってくる。

 僕は「予防医学」──人がよりよく生きるためにどうすればいいのかを考える学問──を研究しているんですが、その究極のゴールは「朝ワクワクして目が覚めて、夜満ち足りた気持ちで眠れるか」なんです。

吉田尚記・石川善樹著『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』より

 何を当たり前のことを……と思われる人もいるかもしれませんが、大切なこと。今現在、毎朝のようにワクワクした気持ちで目覚められているか──と問うてみると、とてもそうとは言えない自分がいる。……お祭りやイベントでもあれば、話は別だけれど。

 振り返ってみれば、子供のころにはいろいろな「ワクワク」の種があった。遠足や運動会といった学校行事をはじめ、月曜には好きな科目があるとか、毎月1日は給食がカレーだとか。「楽しみ」になりえる多種多彩なイベントが、いくつも用意されていたように思う。

 もちろん、その反対には「プールの朝は憂鬱」「班行動が苦手」といったネガティブな感情もあった。それでも、好き嫌いのバランスは取れていたように思うし、「子供だから」という理由で無邪気でいられた部分もあったと記憶している。それこそ「おしりを出した子一等賞」じゃないけれど、ある程度のことは許されていたんじゃないかと。

 しかし、大人になるとそうもいかない。本書では、真夏に自転車で原宿まで来たところ、「こんな暑いのに何で?」と言われた吉田さんのエピソードが書かれていますが、まさしく。無条件に「すげえ!」と言われることはないし、それどころか「無駄」「無意味」などと批判されることもある。

 コスパが悪い、何の得にもならない、無意味で無価値な自己満足──。時には、そういった批判が必要な場合もある。でも、そういった声が無邪気さを阻害している側面もあるんじゃなかろうか。であるならば、そのワクワクを意識的に保ちつつ、無邪気さが認められる環境に自分の身を置くことが、「幸せ」を志向する切り口のひとつとなりそうだ。

 

多様性の海を楽しく泳ぐには「自分と向き合う力」が必要

 以上のような内容の雑談から始まり、本書では、複数の要素から「幸せ」について考えていく。

 ネガティブ感情の意味や感情コントロールの方法、「恐怖」の使い方など、「感情」を科学的に紐解く第2章。数学の意義や「考える」行為の本質、意思決定の総量など、「学び」のあれこれに触れる第3章。恋愛と結婚について科学的に論じた第4章。

 一見すると本題とはあまり関係のなさそうな、しかし後の話にもかかわってくるこれらの章を経て、第5~7章ではいよいよもって「幸せに生きる方法」に迫る。

 人って、つねに「幸せ」の先のばしをしているように思います。こういうもんが手に入れば幸せになるだろう、今の自分が満たされてないのはこれが足りないからだって、足りないものの埋め合わせをずっとやっている。でも、その先に残るのは虚しさだけなんじゃなかろうかと。自分はどういう人間でありたいんだろう、ということを意識して普段から考えていないと、どんなに成功や栄光を手にしても幸せにはなれない。

吉田尚記・石川善樹著『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』より

 結論に至る過程ではいくつかの論点と考え方が話題に挙がっているが、最終的には「自分の感情」に行き着く。己の感情を俯瞰して見ることができているか。自分の欲望の軸を把握しているか。必要に応じて感情を揺さぶりコントロールできるかどうか。

 大切なのは、自身の感情を省み、向き合うことで、「幸せ」を阻害する諸問題を取り除くこと。精神的な疲労やイライラといった感情の波がなくなれば、身近な幸福や楽しみに気づき、自覚しやすくなる。つまり「幸せ」になるためには、自分自身の心の有り様を理解しければならない──と。

 「幸せに生きること」には、実はみんなそんなに関心ないからだと思います。関心があるのは「今日という一日をとりあえずやり過ごすこと」。だから仕事のTo doリストはつくるけど、To Checkリストはつくらない。

吉田尚記・石川善樹著『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』より

 逆説的ではあるけれど、「自分にとっての『幸せ』がどういったものかをそもそも定義できなければ、それを自覚することは難しい」と言えるかもしれない。

 幸せになりたい、幸福に暮らしたいと願いながらも、そこには具体性がなかったり、意外と関心がなかったり。それでは、いつまで経っても幸福への道筋が明らかにならないからだ。

 だからこそ、まずは己の感情の行方を自覚し、認識する必要がある。自分は何に心を動かされるのか、何をおもしろいと感じ、どういったときに楽しくなれるのか。就職活動の自己分析ではないけれど、今一度、自身の軸を掘り下げて考えるきっかけともなりそうだ。

 元も子もないことを言ってしまえば「人それぞれ」という結論なのでしょうが……実際、それにも理由があると石川さんは話しています。

 本書で繰り返し語られている、「多様性」の大切さ。そのなかに「社会が複雑化したことで、『楽しみ』のバリエーションも豊かになりすぎてしまった」という指摘がある。100年以上も前であれば、年に数回の祭りが民衆にとって等しく「楽しみ」だったが、今は違う。楽しさを感じる活動は人によって異なり、その選択肢は無限にある。それゆえ、各々が自分にとっての「祭り」を見つけなくてはいけなくなっている──とのこと*2

 まずなによりも、自分の感情と向き合うこと。「最近どうよ?」と軽い気持ちからでも自問を始めることで、徐々に見えてくる気づきもあるのではないかしら。自分なら、もう1人のボクなら、リトル本田なら、YAZAWAならどうするか──。自問自答から始める、幸せ探し。

 このほかにも、

  • 何かを習慣化するのがうまい人は、感情のコントロールが美味い
  • 「なぜ」という問いは相手の視野を狭くする
  • 情報を違うコミュニティまで伝播させるときには「弱いつながり」が必要
  • 「新しさと受け入れやすさのバランス」がクリエイティビティの定義
  • 専門性で挑めば限界にぶつかる。しかし無知で挑めば限界はない

 といったさまざまな指摘もあり、最後までおもしろく読めました。

 普遍的な話題だけあって誰にでも勧められる1冊ではありますが、思いのほかクリエイター目線の考え方なども多く、ものづくりやチームプレイをしている人にとっても役立ちそう。いくつか自分なりに考えてみたい論点もあったので、後ほどまた別のところでまとめてみます。

 

 

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*1:よっぴーさんの著書はこちら→もおすすめです(感想:コミュ障が20年かけて会得した会話術『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』

*2:「その点、物事を極限にまで細かく分類して抽象化したうえで、各々が好き勝手に推しや性癖を自覚して楽しめている、オタクはすげえぜ!(意訳)」という吉田さんの指摘に笑った。たしかに。