何者にもなれない“凡人”だからこそ、ライターになれた


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何者にもなれない“凡人”だからこそ、ライターになれた

 2012年にノリと勢いで開設し、2013年に本格的に更新を始めたこのブログ。

 自分としてはそんなに年月が経ったようには思えないし、僕自身も何かが大きく変わったとは思えない。

 それでも何年か前に書いた過去の記事を読んでみると、現在の自分とは違った考えや感情が記されていて、なんとも不思議な……むずがゆい気分になることがある。気づいていないだけで自分自身も変化しつつあるのか、文章の書き方が変わってきたからか、はたまたその両方か──。

 いずれにせよ、5年以上にもわたってブログを書いていると、それ自体がまるで独立した「人格」ですらあるかのように思えてくるのです。その日その時の自分の姿を記録してきただけの「個人の日記」に過ぎないはずのブログが、その「個人」の現在の姿や思惑とは別に機能しているような。そう感じられる。

 ブログが独り歩きを始めることが悪いという話ではありません。むしろ、口下手な自分にとってはありがたい。うまく喋れない僕の代わりに、僕のことを伝えてくれるから。「けいろー」という人間のパーソナリティを饒舌に説明してくれるこのブログは、ある種の仮想人格のようなもの──なのかもしれない。

 ただし、昔の記事ほど取り留めのない思考や感情がだだ漏れになっているため、良いところも悪いところも引っくるめて、僕という人間が自然と「伝わってしまう」内容になっている、とも。恥ずかしい……でも不思議と気持ちいい……。あああああ承認欲求が満たされちゃううううううう

ダンボー ポメラ

 そうやって独り歩きを始めたブログは、やがて「勝手に仕事を運んできてくれる」ようにもなった。書いた記事が編集者さんの目に留まり、執筆依頼をはじめとした仕事に結びつくようになったのです。──というか、そんなことがあったからこそ、現在の僕はライターとして活動しているわけでもありまして。

 特別な技術や知識を持っているわけでなければ、ネット上で影響力があるわけでもない自分。そんな僕が書くのは、凡庸で取り柄のない、特徴もなければおもしろみもない文章。

 はたして、そんなものに意味があるのか──とずっと考えていたのですが、意外にもまったくの「無価値」というわけでもないらしいんですよね。平凡な日記であり、一般人が書く “感想” であるがために、それを読みたい・知りたいと感じている層も、少なからずこの世の中にはいるようなのです。

 だから、「ブログ」は平々凡々だっていい。
 むしろ、ありふれた内容だからこそ、いい。

 最新の情報やトレンドを無理に発信し続ける必要はなく、意識高くビジネスや社会について論じようとする必要もない。ただただ好き勝手に書き綴られた「個人の感想」が、どこかの誰かにとっての価値となることがある。そもそもインターネットって、割とそんな感じの場所だった……よね?

 別に、無個性だっていいじゃないか。平凡でありふれた言葉だからこそ、大勢に伝わることがある。それに、もしぜんぜん読まれなかったとしても、気にすることはありません。等身大で飾り気のない言葉は、同じような思いや考えを持っているどこかの誰かに、きっと共感をもって受け入れられるはず。

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 そして、塵も積もれば何とやら。無個性だと思って書き続けた文章も、数を積み重ねればそれ自体が「個性」になる。

 淡々と黙々と、でも楽しんで手を動かし続けてきたこと、それまで積み重ねてきた過程のすべてが、「わたし」であり「ぼく」になる。お金にならなくたって、友達ができなくたって、過去の自分といつでも対話できるようになる。いつかの己を懐かしみ、拙さに赤面し、なに言ってんだこいつと爆笑できる。

 それが、楽しい。

 そうして過去の自分を省みることで、現在の自身の「個性」に気づけることがあるんですよね。だから今、もし少しでも「書く」ことに興味を持っている人がいるのなら、ぜひとも「書く」ことをおすすめしたいし、続けてみてほしいな──と思います。

 ──なーんてことを、やままさんの『凡人の星になる』を読み終えたあとに考えました。献本ありがとうございました!(ダイマ)

 

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