ブログを「メディア」と捉え、何かしらの目的を持って運営していくのは今やひとつの王道になった気がする。でもその一方で、そこで紋切り型の強い言葉を並べて「発信」していくのは疲れるし、そもそも複数人で運営されているウェブメディアに敵うはずもないと思う。
— けいろー (@Y_Yoshimune) 2016年4月7日
この辺の話を、ちょろっと。
「わかりやすさ」が重要視される、ネットコンテンツ
自分の意見をはっきりと言葉にできる人、ある物事について論理的に話すことのできる人は、(皮肉でも何でもなく)本当に心の底からすごいと思う。
トークイベントの登壇者、社員の前で話す企業のお偉いさん、テレビ番組のコメンテーター、ラジオパーソナリティーなどなど。さらには、ツイキャスやニコ生、ブログやTwitterといった、数々の個人ユーザーの中にも、日頃から持論を展開して支持を集めている人は少なくない。
そんな人たちを見ると、「すげーなー」と素直に感嘆すると同時に、あまりに自分が「意見」や「主張」を持っていないことに否が応でも気付かされ……ちょっとだけ、凹む。
僕はこうして日常的にブログを書いているけれど、それでも記事内容の「質」や「完成度」を見るならば、自分などはまったく優れていないという自覚がある。文章はやたらと冗長だし、何を言いたいのか判然としない記事も少なくないし、そもそも独りよがりだ。
文章が個性的でおもしろい人。ウィットに富んだ、皮肉やユーモアを交えた文章が魅力的な人。論理と文章構成力に秀でており、誰が読んでもわかりやすい文を書く人。最新の話題を端的にまとめて紹介する人。イラストや写真など、視覚的な楽しさを提供する人。
おそらく、インターネット上の文章コンテンツにおいて「魅力」となるのは、そういった能力だ。そもそも、基本的に “スキマ時間” に消費されることが前提であるネットコンテンツにおいては、それらのわかりやすい「魅力」が重要視されて当然。冗長な文章なぞ、ノイズでしかない。
記事タイトルを読むだけで内容が伝わる、明快さ。文章の主張・論旨がはっきりと明示されている、明瞭さ。誰が見てもすんなりと読み進めることのできる、可読性。――その他諸々。
特に最近は、「ブログで副収入を!」「ネットでセルフブランディング!」「ソーシャルメディアを駆使して成功を掴みとろう!」といった文脈でのネット利用も当然となり、それら「目的」のための大前提として、「わかりやすさ」は必須要件となっている……のかもしれない。
主張やテーマが曖昧なコンテンツは、ツッコみづらい
しかし一方で、ふと我に返ってみれば、それは「ネットメディア」として運用する場合の話だと思わなくもない。ブログもすっかり「個人メディア」として定着したように感じる今日この頃、それもひとつの王道なので、何ら間違いではないとは思いまする。
有益な情報を発信し、場合によっては広告収入などの対価を得る。それが然るべき人から認められれば、有名メディアへの参加や、書籍化の声がかかるかもしれない。実際、自分が「すげえ!」と感じている周囲のブロガーさんはみんな、次々に活動を広げているという事実もある。
はっきりとした主張やテーマをはじめとした、「わかりやすい」コンテンツは注目されやすい。「こうだ!」と書けば、「それな」と共感してくれた人が、「こんなおもしろい記事があったよ!」とSNS上で拡散してくれるかもしれない。
加えて、主張がはっきりしていれば、読者から見て反対意見も書きやすい。「それは違うよ!」と端的なコメントを寄せて共有するも良し、自身のブログでもって、 “言及” という形で取り上げて持論を展開するも良し。賛否両論あれど、わかりやすいコンテンツには、 “ツッコみ” やすい。
対して、内容が「どっちつかず」になってしまっているコンテンツは、読者からしても反応に困る。「自分はこう思ったけど、こういう意見もあるし、そういえばこんな考え方もあるよね!」なんて、あっちゃこっちゃに目線を振られては、「お、おう……」と曖昧な読後感しか持てない。
一口に言えば、ツッコみづらい。読み終えても腑に落ちる部分がなく、どうも判然としない気持ちのまま。「賛成!」も「反対!」も「おもしろい!」も感じられないため、SNSでどうこうコメントを残そうとも思わない。独りよがりの自分語りが拡散されにくいのも、そりゃあ当然だ。
等身大の自分を書き散らす、「個人の日記」として
僕はもう、ブログを書き始めてから3年くらい経つけれど、自分のブログがまさに “それ” だと思っている。独りよがりの自分語り。「わかりやすさ」なんて、二の次です。
日頃、ニュースを見ていて、あるいは日常生活の中で「おっ?」と思うことがあったら、テーマも結論も決めず、とりあえずパソコンに向かってキーボードを叩き始める。途中、それとなく着地点は思い浮かぶものの、基本は構成も何も決めない、脳内ダダ漏れ文章がデフォルトだ。
本の感想やグルメネタなど、前提として「テーマ」が明らかな話題に関しては、さすがにちょいちょい考えてはいるものの……。それでも、基本的には無思考&好き勝手、ただ、思うがままありのままに文章を書き連ねる、日記スタイルでございます。
他方で周囲を覗うと、たくさんのブロガーさんが、わかりやすい&おもしろい記事を書いている。それを見て「ワシもああやったほうがいいのかしらん……」なんて、やきもきすることもなくはない。明確な目的を持ち、それを達成するべく試行錯誤を繰り返す様子は、時に眩しくも映る。
けれど、そもそも、である。自分がこの10数年、見る・聞く・読む側として、 “インターネット” の世界で楽しんできたのは、至極「個人的な話」が多かったようにも思う。こんなことをやってみた。おもしろそうな店を見つけた。このゲームがクソおもしろい――などなど。
最近はオウンドメディアだのプロブロガーだのと盛況ではありますが、「ブログ」の本質は「日記」だと思う。毒にも薬にもならない、路傍のいちユーザーの出来事や意見や感想を書き連ね記録した、 “ウェブログ” こと、個人の日記。どうでもいい人には、どうでもいい話。
「どうでもいい」が基本なので、広く注目されるようなことはほとんどないし、 “副収入でガッポガッポ” も難しい。まず第一段階として、「人に読まれる」ことすら困難だという問題もある。
でもその点は、昨今のSNSの普及もあり、お互いに気の合う人を見つけやすくなっている面はあると思う。似たような境遇の人や、ニッチな趣味を持つ同好の士など。そういった人同士の「日記」なら、お互いに楽しく読むことができるし、それもネットの魅力のひとつなのではないかと。
多数派や流行に乗っかり、数字を重視したメディア運営をするのはおもしろいし、そちらのほうが大きな需要を抱えていることは間違いない。しかし一方では、もともとのブログの一要素でもあった、「個人的な話」にもニッチながら需要があり、全くの無価値だとは思わない。
結局のところ、これは「ブログ運営」における、方向性の違いの話でしかない。それゆえに――開き直りというか、言い訳がましくすらあるけれど――、たとえ、どっちつかずの脳内ダダ漏れ文章だって、必ずしも意味がないとは言い切れない。だから、好き勝手に書いてもいいと思うんだ。
収益化やセルフブランディング、何かしらの「成功」を目標にしたブログ運営は魅力的だし、自分のブログにも、その要素は少なからず含まれている。だけど、常に周囲に迎合するのも疲れるし、自分を持ち上げ、成功体験ばかりを書くのも、自家中毒に陥ってしまうリスクがある。
退職経験に無職生活、他人には全く無関係な、転勤族としての自分の話。――振り返ってみると、このブログで多く読まれてきたのは、そういった「個人的な話」だった。面と向かって話を聞いても、それらをおもしろいと話してくれる人が多かった。自分ですら忘れていた記事を口に出して挙げられ、赤面することだってあった。
このブログは、僕の “失敗” と “日記” 、独りよがりで自分勝手で、「個人的な話」で成り立っている。そこにいるのは、普段は意識もしない「等身大の自分」のひとつの形であり、言語化することによって可視化される、自分の一面だと思っている。
もちろん、ネット上に曝す以上、かなり取り繕っている部分があるのも間違いないけれど……それでも、あれこれと自分の脳内をガバガバと書き連ねられるブログはおもしろいし、そういった人のブログを読むのが、何よりも楽しい。なればこそ、これからも僕は、 “個人的” でありたい。
なので、やっぱり僕は、ブログは「個人の日記」くらいのスタンスで続けていくのが気楽でいいんじゃないかなーと思いまする。一部で共有されている方法論によって、ブログの画一化が進んでいることもあり、逆に元来の「書きたい」人が描き出す、「個人的な話」が注目されやすくなる……かも?(適当)
— けいろー (@Y_Yoshimune) 2016年4月7日