人・メディア・コンピュータの関係性は今後どうなる?『魔法の世紀』感想


 「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」*1という言葉がある。

 まさにこの瞬間に現代を生きている僕ら──技術が段階的に発展していく様子を目の当たりにしてきた現代人──にはあまりピンとこないような気もするけれど……どうでしょうか。

 少年時代にファンタジー小説やゲームに親しんできた世代からすれば、そもそも「魔法」と聞いて思い浮かべるものには結構な偏りがあるような気もする。空飛ぶ箒とか、MPを消費して炎を出すとか、魔方陣を書いて物質に働きかけるとか、杖を振って守護霊を呼び出すとか。

 それは、MPやマナといった “ふしぎなちから” を消費すれば自然と発現するもの。あるいは、呪文・杖・陣といった媒介物を用いて行使するもの。少なくともそのような魔法が存在する “その世界” ではそれが当然であり、物理法則がどうのとか仕組みが理解できないなどというツッコミは野暮でしかない。

 しかし一方で、僕らが過ごす “この世界” について考えてみるとどうだろう。

 日常的に利用している道具や機械について、「どのような仕組みで動いているか」を理解しているかどうか。まさに今、目の前にあるスマホやパソコンの画面ひとつとっても、その仕組みを自分の言葉で正確に説明できる人が、はたしてどれだけいるのだろうか。

 遠く離れた人と会話ができるのも、記録した映像を見れるのも、手元の小さな機械ひとつで情報伝達ができたり現在地がわかったり記録ができたりすることも、すべて「そういうものだから」と自然に受け入れてしまっている自分がいる。そうやって考えてみると、仕組みもわからないまま「使い方を知っている」というだけで自由自在に使えるそれらは、まるで「魔法」のようにも見えてくる。

 実業家やメディアアーティストといった複数の顔を持つ研究者・落合陽一@ochyaiさんによれば、魔法の最大の特徴は「無意識性」にあるのだそうです。

 その原理を人々に意識させることなく、空気のように生活に溶け込んでいる身近な存在。ならば、常に僕らの側にあって生活を便利にしてくれるスマートフォンは、現代における「魔法の杖」のようなものなのかもしれない。

 本書『魔法の世紀』は、「映像の世紀」を経てやってくる未来の世界がどのようなものであるかを、テクノロジー・メディア・デザイン・アートといった多彩な切り口から紐解く内容となっています。それなりに専門的でありながら難しすぎない、読みごたえのある1冊でした。

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画面の中の世界が、現実の風景と交差する時

 「魔法の世紀」とは、「映像の世紀」においてイメージの中で起こっていた出来事が、物質の世界へ踏み出していく時代なのです。

(落合陽一著『魔法の世紀』Kindle版 位置No.154より)

 IoTや3Dプリンタの普及に代表されるように、それまではディスプレイ上で眺めるだけだった情報が現実世界へと “染み出し” つつある昨今。本書によれば、今やコンピュータ技術は精密機械の箱の中で完結するものではなく、着実に現実世界と同一化しつつあるのだそう。

 ──と言われても、ぶっちゃけあまり実感がわかない人も多いんじゃないかと思う。日常的に3Dプリンタを使う機会もなければ、コンピュータと関わる仕事をしているわけでもない。スマホやPCのいちユーザーに過ぎない僕のような人間からしても、自分とは特に関係のない話のようにも聞こえる。

 考えてみれば、最も身近なコンピュータであるスマートフォンだって、結局のところは連絡手段や情報収集の道具に過ぎない。それ以外の用途としても、ゲームやTwitterを楽しむくらいが関の山。それが「現実に染み出す」と言われても、いまいちピンとこないのです。

 でも同時に、手元のディスプレイに映る世界が「外」へとつながる感覚にまったくの心当たりがないわけでもない。この約2年ほどでその感覚はすでに身近なものになっている。当初は社会現象になり、人を屋外へと向かわせ、今なお現実を確実に拡張しているアプリ──そう、『ポケモンGO』です。

 それまではゲームに登場するモンスターに過ぎなかったポケモンたちが、『ポケモンGO』では現実世界に現れる。外に出て、街や公園を歩き、ARモードを使えば、まるで本当に彼らがそこにいるかのように感じられる。ただ、いつもARモードを使っている人は少ないようだけれど。

 ARのみならず、『ポケモンGO』の存在がプレイヤーの現実での行動を喚起している点もそうだ。アプリがリリースされた当初、街がレアポケモンを探して歩きまわる人たちで溢れかえった光景はまだ記憶に新しい。今となっては、レイドバトルのために人が集まる光景はすっかり日常のものとなっている。

 ゲームの仕様としてたくさん歩くことを推奨したり、地域や期間を限定したポケモンを出現させたり。さらに『ポケモンGO』はプレイヤー同士の交流にも結びついており、その場に居合わせたプレイヤーと会話をするだけでなく、情報交換や一緒に遊ぶための地域コミュニティも誕生している*2

 ゲームの存在によって街中の景色が変わっただけでなく、人間同士の面と向かっての交流をも生み出しているという事実。それは、コンピュータやインターネットの中だけで完結していた情報のやり取りや交流が、 “現実に染み出し” つつある実例であると言えるのではないかしら。

 ふと思いつきで『ポケモンGO』を話に出してしまったけれど、『魔法の世紀』発売当時はまだアプリがリリースされておらず、本書のトピックとは無関係ですので念のため。

人間とコンピュータの関係はどうなる?

 いちアプリの話はさておき、複数の切り口からコンピュータと人間の関係性を紐解いていく本書は非常に刺激的で、むちゃくちゃおもしろく読むことができた。前半では「メディア」としてのコンピュータの成り立ちから順を追って説明しており、門外漢にやさしい構成になっている点もありがたい。

 コンピュータの歴史を振り返る章は、つい先日読んだばかりの『VRは脳をどう変えるか?』ともつながる部分があり、興味深く読めた。研究対象としての枠を飛び出したバーチャルリアリティが脚光を浴びているまさに今、改めてその足跡を振り返る必要性を感じる。

 メディアアートについて取り上げた章は、芸術とは縁のない自分にとってはとにかく新鮮。権威を持つ美術館や歴史が育んできた「文脈のゲーム」に対して、近年は鑑賞者に強く働きかける──感情を動かし、心を震わせ、夢中にさせる──作品を中心とした「原理のゲーム」が台頭してきているという指摘。

 この傾向は「アート」というよりも「メディア」の分野で年々見られるようになっている印象があったけれど、それ以前に「アート」も「メディア」の一種であるという基本的な部分も再確認。なんとなく遠い存在に感じられていた「メディアアート」にも興味がわいた。

 読了後に振り返ってみると、この「文脈のゲーム」と「原理のゲーム」の対比に始まり、本書では2つの対象を比較する構図が数多く見られることがわかる。コンテンツとプラットフォーム、芸術と技術、デザイナーとエンジニア、空間と時間、静と動、自然と人間。

 そして最後は、「映像の世紀」「魔法の世紀」の対比に還元される。

 上に挙げた2つの対象が、歴史上ではどのような立ち位置にあり、時に反発し、時に混ざり合い、結果としてどんな現状があり、今後はどうなっていくのか──。各項目で丁寧に紐解き説明しているため、その分野の知識がなくとも理解しやすく、ふんふんと頷きながらおもしろく読むことができた。

 何事においても複数の要素が絡み、現実と虚構、物質と人間が同一化しつつある現代。良くも悪くも情報と物質がカオスの渦に飲まれつつある時代において、従来の価値観を前提にした発想は効力を持たなくなるかもしれない。足し算ではなく掛け算を。問題解決よりも問題提起を。人間を中心に考えるのではなく、コンピュータを自分たちと並び立つ存在として捉え、共生するための考え方が重要になってくる。

 そして、これから来るかもしれない「魔法の世紀」において、コンピュータには持ち得ないものとして人間が与えるべきは、「楽しむ心」であるという。テクニカルな主題を経て最終的に帰結するのが、根源的な「楽しい」という感情。それがまっこと印象的に感じられた、読みごたえのある1冊でした。

 

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*1:参考:クラークの三法則 - Wikipedia

*2:以上のような特徴は『ポケモンGO』以前、同じくNiantic社のアプリ『Ingress』の時点で実現していたものでもあります。