前々から不思議に思っていたんだ。いわゆる萌えアニメや美少女ゲームに登場するキャラクターを指して、「こんな話し方をする女子、現実にはいないだろww」「オタクの妄想きめえww」とツッコむ人を。
たしかに、リアルであんな話し方をする人は(ほぼ)いない。聞き慣れないアニメ声に忌避感を覚えるのだっておかしくはないと思う。でも誰に迷惑をかけるでもなし、フィクションなんだから、別に「うぐぅ」とか「へけっ」とか「トゥットゥルー」とか言ったっていいじゃまいか。ζ’ヮ’)ζ うっうー!
そして何より、「話し方」について文句を言うなら、こう言いたい。
──おまえ、それ、亀仙人の前でも言えるの?
亀仙人に限った話ではない。ネテロ会長でも、老ジョセフでも、ダンブルドア先生でも、マスター・ヨーダでも、オーキド博士でもいい。一人称が「ワシ」で「~じゃ」と話し「ホッホッホ」と笑う老人を、あなたはリアルで何人も知っているのかと。少なくとも僕は知らない*1。年の瀬に現れる赤いジジイくらいしか。
さらに言えば、そのような「現実では耳にしない話し方をするキャラ」は老人だけにとどまらない。
「よくってよ!」と話すお嬢様、「アルヨ」と語尾につける中国人、「デュフフフww」と笑うオタク──はいるかもしれないが──などなど。美少女キャラを指して「話し方がおかしい」と指摘する彼らは、一方で、老人キャラやお嬢様キャラの口調についてはなぜか普通に許容してしまっているのだ。
どうして僕らは、日常では聞くことのない老人やお嬢様の話し方を、自然に受け入れることができているのだろう。それどころか、「そうじゃ、ワシが~」などというセリフを見聞きした途端、「あ、この話し手はおじいちゃん(おばあちゃん)だな」と想起させられてしまうのはなぜだろう。
今回読んだ『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』は、そのような「役割語」の機能や成り立ちを説明した1冊です。
「役割語」とは、先にも挙げた老人やお嬢様の口調など、特定のキャラクターと結びついた特徴的な言葉づかいのこと。主にマンガやアニメで見聞きする印象が強いけれど、僕らが普段使っている〈標準語〉とも関わりが深く、その歴史は江戸時代まで遡るのだとか……?
現実では話さない・聞かないのに、誰でも知ってる「バーチャル日本語」
本書の書き出しは、次のような「問題」から始まる。
次の1~8とア~クを結びつけなさい。
- そうよ、あたしが知ってるわ
- そうじゃ、わしが知っておる
- そや、わてが知っとるでえ
- そうじゃ、拙者が存じておる
- そうですわよ、わたくしが存じておりますわ
- そうあるよ、わたしが知ってるあるよ
- そうだよ、ぼくが知ってるのさ
- んだ、おら知ってるだ
ア. お武家様 イ. (ニセ)中国人 ウ. 老博士 エ. 女の子 オ. 田舎者 カ. 男の子 キ. お嬢様 ク. 関西人
どうでしょう。少なくとも日常的に日本語を話している人であれば、ほとんど迷うことはなかったのではないかしら。
……え? 「いまどき、 “知ってるのさ” なんて話す少年はいない」って? たしかにそうかもしれない。では、ほかの選択肢はどうでしょう。「んだ」と話す田舎者、「ですわよ」と話すお嬢様、「あるよ」と話す中国人──。どれもこれも、なかなかリアルでは耳にしない言葉づかいなのではないでしょうか。
しかし改めて考えてみると、まっこと不思議である。なんたって、これらの役割語を用いた話し方は「現実の日本語とは必ずしも一致しない」にもかかわらず、「どのような人が話しているかが一目瞭然である」のだから。実際に耳にする “現実の日本語” と一致するのは、関西弁をはじめとする方言くらいのものかと。
リアルでは聞かないし話さないのに、「常識」と言ってもいいほどに大勢の共通認識として共有されている言葉。本書のタイトルにある「ヴァーチャル日本語」は、そんな役割語を的確に言い換えた表現であるように感じた。現実の日本語とは別の、けれどたしかに存在する日本語。
でもそのように考えると、「そもそも “現実の日本語” ってどのようなものだっけ?」という疑問も同時に浮かんでくる。全国的に広く使われている、日常的な日本語表現といえば〈標準語〉だけれど、それはいったいどこから生まれたものなんだろう?
あまりに当たり前に使っているために普段は意識しない、でもだからこそ、考えれば考えるほどに新しい疑問がわき出てくる「ことば」の世界。本書は「役割語」をメインテーマに据えつつ、以上のような「日本語」の謎にも迫っていく内容となっています。
江戸時代を原点に、手塚治虫作品によって広がった〈老人語〉
本書がまず最初に取り上げるのは、漫画の世界ではおなじみの「博士」たちが話す〈博士語〉について。お茶の水博士*2、阿笠博士*3、オーキド博士*4などを例に挙げ、「ワシ」「~じゃ」「~ておる」といった特徴的な言いまわしをまとめている。
おもしろいのが、このような〈博士語〉をいわゆる〈標準語〉と比べてみると、日本の東西方言の比較と驚くほどによく重なるのだそうだ。
東日本では「~だ」となる断定表現は、西日本では「~じゃ」に。東日本では「~ている」となる進行表現は、西日本では「~ておる」に。西日本の表現はそのまま〈博士語〉の口調に当てはまる。つまり、すべての表現が一致するわけではないものの、〈博士語〉は現代の西日本の方言の特徴を持っていると言える。
ところが、漫画に登場する博士たち全員が西日本の出身とは限らない。さらに言えば、〈博士語〉を話さない博士もいる。
たとえば、先ほど挙げたお茶の水博士と同じく、『鉄腕アトム』に登場する天馬博士。見た目からして異なる特徴を持つ2人の博士は、お茶の水博士は頭頂部分が少し寂しげな白髪頭である一方、天馬博士は若々しい黒髪を持ち、しかも「〜じゃ」とは話さない。彼らの対比からは、「〈博士語〉を話す博士は、同時に老人的特徴を持っている」という事実が再確認できる。要するに、〈博士語〉は〈老人語〉の一種なのだ*5。
しかし冒頭でも触れたように、現実で〈老人語〉を話す老人にお目にかかることはない。そもそも歳をとったからと言って、あるタイミングで言葉づかいがまるっと変わるとは考えにくい。また、〈老人語〉はアニメや漫画ではよく用いられるものの、小説やドラマではあまり見聞きしない印象もある。
〈老人語〉の、そして〈博士語〉の原点はどこにあるのだろう。
本書では、手塚治虫の初期作品『火星博士』にはじまり、彼の中学時代の作品にも〈博士語〉が見て取れることを提示。その源泉として、手塚少年が読んでいた日本SFの祖・海野十三の小説と、少年雑誌『少年俱楽部』の存在があるのではないかと書いている。そのうえで、その少し前に流行した講談本シリーズ『立川文庫』にも〈博士語〉〈老人語〉との関連が見られることにも触れ、明治初年の戯作および歌舞伎、さらには江戸時代の滑稽本にまで遡るのだから驚きだ。
文中で言及されている最古の出展としては、1825年初演の歌舞伎『東海道四谷怪談』に〈老人語〉の表現を発見。そして最終的には、〈老人語〉の源泉は「18世紀後半から19世紀にかけての江戸における言語の状況」にあると、ひとまずは結論づけている。
──とまあ、まさか江戸時代にまで遡るとは思ってもいなかったので、この時点ですっかり夢中になって読んでいる自分がいた。
なぜ当時の創作物において〈老人語〉が役割語として定着することになったのか、江戸の街で話されていた「日本語」とはどういうものだったのか。具体的な理由は歴史的・言語史的な観点にも及ぶので、読みながら知的好奇心が満たされていくのを感じた。ニホンゴ、ムツカシイ。デモ、オモシロイネー。
ステレオタイプとしての役割語と、近代化のために作られた〈標準語〉
ここで冒頭の問い──「どうして僕らは、現実では見聞きしない特徴的な話し方を自然に受け入れることができているのだろう」──に戻ると、答えは思いのほかわかりやすいものだった。
一口に言えば、「役割語とは、幼少期にメディアによって形成される文化的ステレオタイプである」とのこと。子供向けの昔話・童話・絵本・漫画・アニメなど、その内容の妥当性を批判的に検討できない幼少時代に獲得する、ある種の固定観念である、ということらしい。
先に挙げた漫画などの例にもあるように、〈老人語〉に代表される役割語のほとんどは、創作物でのみ見受けられる限定的な表現だ。にもかかわらず日本語を話す人々のあいだで定着しているのは、それが多種多彩な「物語」においてひとつの共通語して機能している表現であり、子供のころから繰り返し読み聞かされてきたからであると、本書では説明している*6。
ただし、いくら純粋無垢な子供でも、「お話のなかでそうだったから、現実でもああやって話すんだな」と信じ切ることはない。周囲の大人が指摘するまでもなく、自分の母親が必ずしも「~だわ」とは話しておらず、おじいちゃんが「~じゃ」と口にしていないと確認することで、個々の知識は自ずと修正される。
しかし他方で、ひとたび形成されたステレオタイプは、大人になっても知識として残る。「これまでに読んだ作品の大多数でそうやって話していたから」という認識でもって、「~じゃ」と話すキャラクターは老人だと理解する。実際にそう話す老人は、リアルにはいないと知りながら。
そして、やがて自分が創作者側になったときには、同様の話し方を採用してしまうのだ。「物語」を介することで、表現は世代を超えて受け継がれていく。人の手で作られた仮想世界において共有され、人々のあいだを伝播し続けている言語。それが、 “ヴァーチャル” な日本語としての「役割語」の性質だと言える。
役割語は、私たち一人一人が現実に対して持っている観念であり、いわば「仮想現実」(ヴァーチャル・リアリティ)なのである。
(金水敏著『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』P.37より)
ただし、このような「仮想現実」として機能する言葉は、実は「物語」に登場するキャラクターの役割語に限った話ではないとも筆者は書いている。
マスメディアや教育によって、幼少期から必然的に刷りこまれてきた知識・概念としての話し方は、何も〈老人語〉や〈お嬢様ことば〉に限らない。当たり前に使われている言葉づかいでありながら、実のところは人工的に作られ、メディアによって普及した仮想現実的な言語──それが〈標準語〉だ。
以降の詳しい内容は本書を読んでいただきたいのですが、〈標準語〉が誕生する経緯は先ほどの「江戸語」の話とも重なり、むちゃくちゃおもしろく読めました。関連するトピックとして、
- 「書きことば」は誰も話さない言葉(特定の要素を持つ話者を想定させない言葉)である
- 物語のヒーローはなぜ〈標準語〉を話すのか
- 脇役はなぜ役割語を話すのか
といった切り口の分析も興味深かったです。
のじゃロリおじさんと、ペルソナとしての役割語
ところで、「ヴァーチャル」だの「~じゃ」だのといった単語から、最近話題のある人物の姿がイメージされた人もいるのではないかしら。
──そう、「バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん」ことねこます(@kemomimi_oukoku)さんです。
「狐耳のかわいい巫女装束の女の子が男性の声で『~なのじゃー』と話す」という属性モリモリの特徴を持つ、彼女──もとい彼。一見すると、役割語の観点では何をどう分析すればいいのか、困ったことになりそうなのじゃ。 “役割” とはいったい……。
しかし、そんな「のじゃロリ」属性を持つキャラクターをロールしている彼は、むしろ「役割語」を有効活用しているようにも受け取れる。
ねこますさんの口調は、基本的には〈標準語〉。ただし「のじゃロリ狐娘」としてのキャラを出すべく、思い出したように「~じゃ」という〈老人語〉的な語尾をつけることが多い(かわいい)。一人称は「わらわ」であり、これは武家の女性が自分をへりくだっていう〈女性語〉の一種なのだそうじゃ*7。
わらわは真面目な話、童貞なので…童貞の女の子として扱ってほしいのじゃ
— けもみみおーこく国営放送 (@kemomimi_oukoku) 2018年2月13日
そもそも、身体的にその属性を持たない人がある種のペルソナとして役割語を用いることは、今となっては珍しくない。いわゆるニューハーフと呼ばれる人たちが〈女性語〉を使うことに違和感はないし、〈男性語〉を用いる女性は少数派かもしれないが、まったくいないということもない。
というか、僕自身もそうです。基本的に一人称は〈男性語〉の「ぼく」だけれど*8、最近は〈老人語〉の「ワシ」をリアルで口にすることも増えた。書き言葉でも話し言葉でも、〈女性語〉の「~かしら」は前々から当たり前に使っている。ついでに、自分ではあまり意識していないのですが、家族や友人によると、それ以外にも多くの〈女性語〉を使っているらしいですわよ。……そうかのう?
ともかく、男であるねこますさんが〈姫ことば〉的な言葉づかいをしていたり、逆に女性が〈男性語〉を違和感なく使っているのを見聞きしたりと、近年は創作上の仮想世界以外でも、より幅広い場所で「役割語」が使われているようにも感じる。パッと具体例が思い浮かばないのでアレですが……ネット上の言葉づかいを見ても、性別を飛び越えて役割語が使われるシーンは増えつつあるのではないかしら*9。
社会における男女の役割が変化し、その差が縮まってきたとすれば、言葉の差異も縮まってきて当然ともいえる。その現象を、一概に「よい」とか「悪い」とか評価することはできない。言葉の男女差がなぜ生じ、どのように機能してきたか、という点に関する検証が充分なされていないからである。
(金水敏著『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』P.172より)
この傾向は、ますます強まりつつあるようにも見える。筆者が本書を執筆した当時(2002年)は〈女性語〉の衰微に若干の懸念を感じていたようですが、現状はどうだろう。男女を問わず〈女性語〉を用いる人がいて、偏見らしい偏見も見られにくく、〈女性語〉はむしろ生き生きと輝きだしているようにも感じる。
それどころか、 “ヴァーチャル” だったはずの役割語が今や形を持つようになり、現実にも使われる機会が増えつつあるようにすら映る今日この頃。女性が〈男性語〉を口にし、男性が〈女性語〉を使い、狐耳のかわいい女の子【inおじさん(自称)】が〈姫ことば〉を話しているくらいですしおすし。
ともすれば、冒頭では否定した「〈老人語〉を話すおじいちゃん」が出てきてもおかしくはないし、若者がそんな言葉づかいをするようになっても不思議ではない……のかもしれない。あらゆる「ことば」は創作やコミュニティのなかで生まれ、変化し、普及し、定着する傾向にあるのだから。
──とまあそんな感じで「役割語」の世界は想像以上に広く、あれこれと考えながら楽しく読むことができました。特に、〈標準語〉が作られた言語である云々は聞きかじっていたものの、詳しくは知らなかったので勉強になった。あとは「書きことば」の切り口とか。
ただ、研究領域としての役割語──日本語のステレオタイプ──を取り扱った資料・文献はまだ少ないらしく、一般書籍としては本書の筆者による著作がほとんど。他方で、巻末掲載の参考書籍や論文のなかには気になる資料がいくつかあったので、そちらも読んでみようとも思います。
そんなこんなでとてもおもしろく読めた、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』。広い意味での「ことば」に興味がある人や、趣味・仕事を問わず創作に携わっている人におすすめの本なのじゃ*10。
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*1:そのような方言がある地域に住まわれており、日常的に使っている人がいらっしゃったらすみません。
*2:手塚治虫『鉄腕アトム』より
*3:青山剛昌『名探偵コナン』より
*4:『ポケットモンスター』シリーズより
*5:近年の作品で言えば、〈博士語〉(=西日本の方言の特徴を持つ)を話すオーキド博士がポケモンの研究所を構えているのは “カントー” 地方であるのに、中部地方をモデルとするジョウト地方のウツギ博士は〈標準語〉を話している、という比較もできるかと。
*6:逆に考えると、10年前には耳にしていた「こんな話し方をする女子、現実にはいないだろww」という批判を近頃は聞かなくなったのは、アニメキャラの言葉づかいがそれなりに「共通認識」として広がりつつあるから……?
*8:「ぼく」や「きみ」といった言いまわしは、〈武家ことば〉に端を発する〈書生ことば〉の系譜にあるそうな。
*9:それこそ、VTuber界隈には多くそうな気もするけれど……どうなんじゃろ。ボクっ娘はメジャーよね(猫宮ひなたちゃんとか、ロボ子さんとか……好き……)。
*10:ちなみに、記事中では触れなかった〈女性語〉は伝統芸能や近代文学に端を発し、女学校がメディアとなって広く伝播したことが、〈アルヨことば〉はピジン化した日本語である一方、偏見的なステレオタイプにも結びついていたことなどが、本書では説明されています。コメントでいただいた指摘や批判の多くについては本文中で触れられておりますので、ぜひ手に取って読んでみてください。