「校正」という言葉がある。日常生活では無縁かもしれない、この言葉。普段の会話で口に出すことはないだろうし、ニュースで耳にする機会もあまりない。「こうせい」という音を聞いて多くの人がまず思い浮かべるのは、「公正」や「構成」なんじゃないかしら。じょしこうs
辞書によれば、校正とは「校正刷りと原稿を照合し、文字の誤り・体裁・色調などを正すこと」*1。主に出版や印刷に関わる場面で使われる表現であり、僕ら一般ピープルには無縁の言葉……のはずなのだけれど、最近はそうでもないイメージもある。
校正の作業が必要になるのは、何も商業出版の場だけではない。学生サークルの機関誌や、趣味で作る同人誌。誰もが少部数から印刷物を制作できるようになった現代では、多くの人が仕事や学業の傍らで校正に励んでいる。試しにTwitterで「校正」と検索してみても、編集者のみならず、大勢の人が作業に追われていることがわかるくらいですし。お疲れさまです。
そんな現状を見ると、一昔前と比べれば「校正」の存在は身近になりつつあるようにも感じる。とはいえ、それでも誰もが創作や情報発信に携わっているわけではない。校正なんて知っていようがなかろうが、日常生活には何の影響も及ばないのだ。その方法も考え方も、知る必要はない。
しかし一方で、「校正」が対象とする「言葉」とは、僕らは無縁ではいられない。
普段はあまり意識しないけれど、これほどまでに「言葉」が身近に感じられる時代は過去にもなかったんじゃなかろうか。──いや、社会で暮らしていれば、そりゃあ必然的に他者と関わることになるし、会話は人間の基本的な営みのひとつ。何を今更という話ではあるのだけれど。
そうではなく、ここで話題にしたいのは「文字」を使ったコミュニケーションの話。
もちろん、人間は遥か昔から日記をしたためていたし、誰かに手紙を送ったり、重要な決まり事を文字にして記録したりしていた。そういった意味では、文字によるコミュニケーションも会話と同様、至極当たり前の日常の行為のひとつと言える。
けれど、現代の「文字コミュニケーション」は、それだけにとどまらない。
改めて確認するまでもないけれど──現代にはインターネットがあり、手紙よりも頻繁に、文字を介したやり取りを他者と行っている。LINEやTwitterでの会話は言うに及ばず、こうして書いているブログだってそうだ。僕らは日頃から「文字」と無関係ではいられない。
ただし、その「文字」あるいは「言葉」も万能ではない。ひとたび誤った使い方をすれば、取り返しのつかない事態を引き起こしかねないものだ。軽い気持ちで呟いた言葉が炎上を引き起こし、誤変換が円滑なやり取りを阻害し、差別表現が相手の信頼を損なう。そのような行き違いは、ネット上でもそれ以外の場でも、実にありふれたものであるように感じる。
常日頃から当たり前に用いているコミュニケーション手段であり、当たり前にすれ違うことがある。だからこそ、いつも「言葉」と真摯に向き合い、その場その場に適した「文字」を使える人は、一目置かれやすいように見える。そのようなリテラシーを養うには、どうすればいいのだろう。
──とまあ前置きが長くなりましたが、そこで「校正」の視点が出てくるわけです。
本書『校正のこころ』は、長年にわたって校正者として携わってきた筆者が、その理論と「言葉」との付き合い方をまとめた1冊。
てっきり校正者を志す人向けの参考書なのかと思いきや、日常的に「文字」によるコミュニケーションや情報発信をしている人(ネット上を含む)全般にも勧められそうな、「言葉」を掘り下げる内容となっていました。興味本位で読んでみたら想像以上におもしろかったので、ざっくりと紹介をば。
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言葉を産み出す「推敲」と、言葉を育てる「校正」
改めて、校正とは「文字の誤り・体裁・色調などを正すこと」である。書いた文字を見直し、修正する──そう聞いて、「それってつまり『推敲』のことなのでは?」と考えた人も、もしかしたらいるかもしれない。
たしかに普段、自分自身が書いた文章を検討する際には、「推敲」と称して内容を見直すことが多い。辞書にも「詩文の字句を何度もねりなおすこと」*2とあり、どちらかと言えば「印刷された文字」を対象にしてるイメージが強い「校正」と比べても、「推敲」のほうがしっくりくる。
実際、本書前半の「校正」の解説を追いかけてみると、まさにそのような「印刷された文字」を対象としたものとして説明しているように読める。主に活字を対象とした校正について、その方法や考え方を紐解いていく内容だ。
たとえば、校正者の仕事は主に「引き合わせ」と「素読み」に分類できるが、それはただ誤字や脱字を修正するだけではない。目に見える表記ミスだけでなく、事実関係や前後の矛盾、論理の破綻や引用の引き写しミスなど、細かなところまで配慮して「正す」目線が欠かせないのだとか。
それも、「正す」だけでは不十分。その作品・文章を成り立たせる必然性があるのであれば、時には辞書の枠にとどまらない言葉──普通は誤りだとされる表現──を選んで「整える」ようなこともある。定められたルールに沿って機械的に判断するだけが校正者の仕事ではなく、言葉のひとつひとつに “いのち” があると考え、その変化に身を委ねることもあるのだそうだ。
そんな筆者の話を考慮すると、「校正」は「推敲」の要素をはらんでいるようにも見える。文章を産み出した「著者」ではないけれど、別の目線から言葉と文字を再検討し、整えてくれる助言者。編集者ほど口出しをすることはないにせよ、文章の「推敲」にも一役買っているような。
ところが、本書の後半まで読み進めたところ、「校正」と「推敲」は別のものとして書かれていることがわかった。正確には、「推敲」と「著者校正」*3の説明ではあるのだけれど、「推敲」と「校正」の比較として考えても納得できたので。
一口に言えば、推敲は文章を「産む」過程。著者が自分の想像力の赴くまま、忠実に言葉を選び、文を綴り、何度も読み返しては書きなおす段階。それは著者自らが産み落とした文章の連なりであり、この世に現れた「言葉」はむきだしの状態で、まだ著者の手元にある。
対して、著者校正は文章を「育てる」過程。校正者の手が入った「活字」としての言葉と対面し、それを1冊の本として完全な形にするべく新たに表現を創造し、「言葉」を育てる段階。それは、送り出した我が子と再会し、産みの親の立場から再教育するようなイメージ……かしら。
文章を「産む」ための推敲と、「育てる」過程としての校正。著者ひとりの孤独な作業である前者に対して、編集者と校正者の視点が加わった後者は共同作業。しかも「著者が新鮮な感覚で自身の文章と再会し再検討する」ことができるため、文章の質を高めるには必要不可欠な作業と言えそうだ。
ただ、ここでひとつの懸念が生まれる。以上の説明を鑑みると、文章を練りなおす「推敲」はできるにしても、他者の視点を必要とする「校正」は自分ひとりではできない。チームを前提としている校正の方法を知ったところで、ひとりで書いている僕らの参考にはならないじゃないか──と。
たしかに自分の主観だけでは、どこまでいっても推敲しかできないように見える。けれど、何も「チームで複数の視点で文章を検討する」ことが校正の本質というわけでもない。大切なのは「客観的に文章を読み、言葉を再検討する」こと。それが「校正」の目的であり、自身の語彙を尽くして文章を産み出す「推敲」との違いであり、本書に通底するテーマのひとつとなっている。
自身の文章を客観視する、具体的な方法については省略するとして──ともかく、校正の際には「言葉の客観化」が前提として重要になってくる。そして、筆者が論じている最も大きなテーマであるところの「校正のこころ」には、この客観化する力が欠かせないのだ。
“校正のこころ”を知ることで、「言葉」を再発見する
タイトルにもなっている「校正のこころ」とは、いったい何を指すのだろうか。本書冒頭では、以下のようにまとめられている。
校正のこころをもつことは、言葉を回復し再発見する力を宿すことです。その根本には、「積極的受け身」の態度があります。
(中略)
校正のこころの第一歩、それは、言葉を信じ、言葉に信じられることからはじまります。
(大西寿男著『校正のこころ 積極的受け身のすすめ』Kindle版 位置No.69より)
なんとなく曖昧な言いまわしだけれど、この部分を読むだけでも、校正が「機械的な修正作業だけを指すものではない」ことが伝わるのではないかと思う。このトピックは本文後半、かなりのページ数を割いて説明しているので、ぜひ実際に手に取って読んでいただきたい。
と言うのも、たった数千字の読書感想文でこれをずばり説明するのは難しく、それこそ「言葉」を軽視することになりかねないので……。一言でまとめるなら、「詳しくは本を読んでくれーー!」と丸投げせざるを得ないのです。我ながら文章表現力が拙くてすみません……。
ただ、繰り返しになりますが、本書は「校正」の理論や方法論に加えて、それ以上に広い意味での「言葉」を考える内容になっていることは明らかにしておきたい。校正者である筆者の校正論を紐解きつつも、彼自らの言葉でもって「言葉」との向き合い方を検討し、その在り方を考えている。
ゆえに本書は、校正者や編集者を志望する人のみならず、日頃から「言葉」を紡ぎ発信している人など幅広い層に勧められる。紙・電子を問わず創作活動に打ちこんでいる人はもちろん、自分のブログを持っている人や、Twitterを情報発信に使っている人の参考にもなるはずだ。
僕自身、こうして思うところがあるから感想文としてまとめているわけだし、本書を参照しつつ考えてみたいテーマがいくつかあった。「名づける言葉」と「物語る言葉」の分類はメディアごとの文体・表現の使い分けの参考になりそうだし、サブタイトルの「積極的受け身」なんて、自分がここ数年にわたって実践している考えたそのままだったので(校正の話ではないけれど)。
「校正のこころ」とは、よろこびを「よろこび」と名づけ、悲しみを「どんなに悲しいか」と物語る言葉を、自分に取り戻し、再発見し、客観化する力です。
(大西寿男著『校正のこころ 積極的受け身のすすめ』Kindle版 位置No.1,726より)
ひとつ言えるのは、「『言葉』には絶対的な正解がない」ということ。
必ずしも辞書の記述が正しいとは言えず、普通だったらおかしいと言われる表現こそが最適な場合もある。著者によって言語化された、本のページ上で読める「言葉」の背後にも数多くの「書かれなかった言葉」があり、苦悩の淵に沈んだ「生まれなかった言葉」があるはずなのだ。
よく言われるように、「何を書くか」ではなく「何を書かないか」が最も大切であり、それが何よりも難しい。主観と客観、読者目線と販売戦略、そして諸々の取捨選択。『校正のこころ』は、そういった「言葉」の周囲や背後にあるさまざまな要素を改めて整理し、考えるきっかけとしてくれる。
また、巻末に設けられているQ&Aコーナーでは、機関紙やブログを書いている人向けのアドバイスや、出版業界の現状と展望、おすすめの辞書などにも言及。ここはハウツー本のような切り口になっており、読めばきっと役立つはず。実際、どれも為になる内容だったので参考にしようと思います。
「校正」という仕事を知りたい人、「言葉」について改めて考えてみたい人におすすめの1冊です。