カスタマイズ可能な生活としての「上質な暮らし」を楽しむ


 朝。鳴り響く時計のアラーム音を叩き切り、同時に、枕元のペットボトルを手探りで見つけ出す。向かう先はベッドを降りて5歩、同じ室内の洗面所。手にした容器に水を入れ、部屋の反対側に鎮座する脚の短い簡易テーブルへ。

 机上の電気ケトル(980円)に水を注ぎ、コンセントをつないでスイッチオン。流れるように机の下から立方体の缶を取り出し(元はおみやげのクッキーが入ってた、配った後に回収)、中から袋詰の茶葉を取り出す。今朝は何を飲もうかな。

 

 手元にある茶葉は3種類。数ヶ月前に単身、レンタカーで弾丸旅行へ行った際に、笑顔が爽やかなおにーさんから購入したもの。「この野菜ぜーんぶ、さっき裏の畑でひっこぬいてきたばかりのものなんですよ〜」とはにかみながら振る舞っていた日本茶をいただき、即決した。

 煎茶、玉露、ほうじ茶など、栽培方法や製造工程、さらに摘む時期によっても多彩な種類が存在する、日本茶。それぞれ香りや味、風味が異なるのは当然のこと、水や温度によっても味わいが明らかに変わってくるのがおもしろい。水はともかく、温度調節は手軽にできて違いもはっきりとわかる。

 

 ここしばらくは目覚めが良くなかったため、沸騰させた状態のアッツアツのお湯を急須にブッ込み時間をかけて抽出、渋く濃ゆいお茶を飲んで活を入れるのが定番になっていた。しかし今朝は眠気もなく、悪くない気分。こんな日は、香り豊かなお茶を味わいすっきりしたいところ。

 缶の中から玉露を選択し、急須に目分量で茶葉を投入。ケトルがコポコポと音を立て始めたところで、沸騰したお湯を湯のみへ注ぐ。たっぷり40〜50秒ほど冷ましたお湯を急須へ。じっくり2分かけて抽出し、湯のみに注いだお茶をいただきます。さて、今日も一日がんばるぞい。

 

朝の習慣を「趣味」にする

 ――という生活を、会社員時代にはしておりました。いやー、電気ケトル様様ですよ。寮住まいということもあり、わざわざ共用スペースである台所まで行かなくても、自室で飲み食いを可能にしてくれたのは大きかった。周りが年上ばかりということで、気も使いますしね。

 

 当時を思い返してみると、仕事へ向かう前に “スイッチ” を入れるという意味で、毎朝の「お茶淹れ」は良い習慣になっていたように思う。動き出す前の単純作業としてお湯を沸かしつつ、そのコポコポ音を聞きながら茶葉を選択し、何を考えるでもなくボーっと待つ感じ。

 で、自分で注いだお茶を飲んでいるうちに覚醒してきて、その日のスケジュールをチェックしつつ、朝食の準備もする感じ。食後にも、ネットサーフィンをしつつもう一杯。程良い香りと旨み、あるいは渋みを楽しみつつ、優雅に過ごすサラリーマンの朝。まあ実際は、狭っ苦しい部屋の座布団の上であぐらをかいているわけですが。

 

 冒頭にもちょろっと書きましたが、お茶の良いところって、同じ種類でも温度や抽出時間によって味わいを自分なりに調節できる点にあると思うんですよね。

 何種類ものペットボトル飲料を冷蔵庫に突っ込んでおくよりはスペースを取らないし、自分の好みを探す楽しさもある。余裕のある週始めはすっきり系、香り&旨み重視で、体力と精神力が消耗した後の週末は、ガツンと気合を入れる激渋茶を飲んでいたような記憶も。

 

 さらに、時期によってさまざまな茶葉を味わい楽しむことのできる、季節性なんかもあったり。新茶は言うに及ばず、じっくりと熟成させた蔵出し茶のまろやかな深みは癖になる。

 こだわろうと思えばどこまでもこだわれるため、一種の「趣味」として自分なりに楽しんでいる人も少なからずいるのではないかしら。いわゆる茶道、茶の湯の世界とはまた別の、日常的に口にする「日本茶」の文化。

 

嗜好飲料の「こだわり」と「選択」、あるいは「上質な暮らし」

 こういった楽しみ方は、コーヒーや紅茶といった嗜好飲料、全般に共通するものだと思う。豆や茶葉などの〈素材〉、抽出の方法や時間といった〈淹れ方〉、さらにはそれを注ぐ茶器やカップなどの〈器具〉。

 その全てが自身の「選択」によって常に変化し、どの程度「こだわる」かによって、選択の幅もどこまでも広げることが可能。究極的には、自ら豆・茶葉を栽培し始めかねない。そこまで行ったら趣味嗜好どころか、自分で販売・講習などのビジネスができそうですよね……。

 

 

 そんなことを考えていて思い出しのが、ちょっと前に話題になっていた「上質な暮らし」の話。既にネタとしてツッコまれ尽くした感じはありますが。

 実際、元となったこの記事を読んでみると、 “自分でコーヒーを淹れる” 部分の下りが、冒頭に書いた日本茶云々とほぼ一致しているような気がしなくもない。……ってことは、アレか。当時の僕は、知らず知らずのうちに「上質な暮らし」を実践していたのか。わぁい! ――寝間着はパジャマじゃなくて甚平だし、カメラはコンデジだし、昼飯はコンビニ一択でしたが。

 

 サードウェーブなんたらのことはわからないけれど、「上質な暮らし」っていうのは要するに、「カスタマイズ可能な生活」のことなんじゃないかと当該記事を読んでいて思ったのだけれど、どうでしょう。

 常にコンビニ弁当やファストフードの世話になるのではなく、街角の個人の飲食店や、できたばかりのおしゃれカフェに気づいて入ってみる、あるいはそれらを使い分けることのできる、余裕のある暮らし。

 どこにでも売っているペットボトル飲料ではなく、淹れ方や種類、文化を調べて学ぶことのできる時間があり、単に消費するだけでなく、その行為全般を楽しみ、試行錯誤することのできる余裕がある人。そして、あえてその選択をする人。

 

 もちろん、そういった「こだわり」の「選択」をする分野は、人によって異なるとも思う。先ほどの記事がどこか「ネタ」っぽく、見方によっては滑稽に映るのも、それが理由なんじゃないかしら。「なんでもかんでもこだわりすぎだろ!」と。どんだけお金と時間に余裕あるねん。

 実際のところは、器具を揃えて自分で毎朝欠かさずコーヒーを淹れている人が常にジャージで過ごしていてもおかしくないし、いくつものファッション雑誌を定期購読してトレンドを追いかけている人が昼には牛丼チェーンをローテーションしていても不思議じゃない。

 

 ……と考えた結果、「上質な暮らし」をその身をもって体現している人物が思い浮かんだ。井之頭五郎*1である。

 

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久住 昌之、谷口ジロー『孤独のグルメ』(扶桑社)

 

 「食べたい時に食べる」をモットーとし、味にこだわりを持ちつつも、ファストフードや回転寿司も(あまり)敬遠せずに利用する。どんなときでも背広にネクタイ。周囲を観察する癖はあるが、決して迎合せず(食に関しては参考にする)、自由に生きている。

 嗜好に関して妥協はせず、こだわりが強いが、なるべく選択の幅は広く持っておこうという意識。そして選択の結果がどうであろうと、自分なりの楽しみをもって消費する。これを “上質” と言わずして、何と言おうか。

 

 ――つまり、「上質な暮らし」とは、『孤独のグルメ』のことだったんだよ!*2

 

 

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