先日に引き続き、ショウペンハウエルの『読書について』を読んでいます。
本書には「思索」「著作と文体」「読書について」の3篇が収録されておりますが、今回はその2つめ。ページ数にして100ページほどのボリュームとなる、「著作と文体」を読みました。前回の記事同様、要約と合わせて感じたことをまとめています。
要約:思索なき著作に価値はなく、「文体」は主張の所有から生まれる
文章を書く人間の傾向を見ると、2つのタイプに分けることができる。ひとつは、価値ある事柄を伝達するべく文章に向き合い、書く者。もうひとつは、金銭を得ることを前提として書く者。
前者は「思索」ありきのものとして文章を描き出すが、後者は「金銭」や「評価」といった外部要因が深く関わってくる。ゆえに、その行為に対して文字数や周囲の目といった縛りが適応されることで、その文章の大半は明確さ、明瞭さに欠けているもであると見て疑いがない。
また、これとは別に、3つのタイプに分類して考えることもできる。
- 考えずに書く:自分の記憶や思い出、あるいは他人の著書を利用して書く者
- 書きながら考える:文章を書くために、物事を考える者
- 思索を終えてから執筆する:既に考えぬかれた事柄を文章化する者
大多数の人間は1、2に当てはまるが、彼らによって生み出された文章は読むに値しない。評価されるべき著作とは、自らの内から湧き出でたテーマを考え抜き、その過程で得られた「思索」を宿していなければならない。
ゆえに、使い古されたテーマに対して偉大なる先人の言葉をいたずらに引用し、ろくな思索を経ていない自説を展開するような本は無価値である。我々はなるべくその分野の創始者の著作を読むべきであり、そのために古書の有用性が認められる。翻って、新刊書の9割は読む価値がない。
ところで、世間的に評価の高い本は2つの基準によってその価値が認められている。その本の著者が思索の対象とした「素材」が優れているか、素材に対して付加された著者の「思索」が優れているか、そのいずれかだ。
言い換えれば、新しく重大なテーマを取り上げた本であるか、もしくは凡庸なテーマながらも価値ある意見・言説を読者に提供する著作であるか、という違いである。誰にでも親しみやすい素材を取り上げれば取り上げるほど、普遍的なテーマであればあるほどに優れた頭脳と思索が必要とされるため、読むに値する本を著すのは難しい。
では、「文体」とは何だろう。
「文体」とは、その人が「どのように」考えたのかを示す独自性を持つものであり、書き手の思索自体に備わっている固有の性質である。その人が「何を」考えているかという“素材”に目を向けずとも、その文章に自然と表出している思想の形、固有の型を指し示すものだ。
文章を書くにあたっては、とかく多くの情報を詰め込み、創意に富んだ表現を用いようとする。しかし、大切なのは普通の言葉で非凡なことを言うことだ。
まず何よりも自分の「主張」を所有し、不要なものを排除することで現れた明瞭簡潔な文章が読者の目に触れ、彼らに著者の思索がはっきりと理解されてこそ、それは優れた「文体」たると言えるだろう。
読むに値する「著作」とは
本書に収録されている3篇のうち、半分以上ものボリュームを占めているこの文章、「著作と文体」。一口に言えば、“濫造され続ける悪書の持つ問題点について、その書き手たる「著者」の外と内、2つの要素から批判する”内容と言えるだろうか。
その中でも特に強い論調で批判されているのが、当時のドイツ論壇。ドイツ文学に関しては全くの門外漢ゆえ、その部分は先の要約でも省略しましたので、悪しからず。ただ、節々に登場する“ドイツ”を“日本”に置き換えても割と通じそうに感じたのは、きっと自分だけではないと思う。
さて、ショウペンハウエル先生によれば、「著作家の9割はクソだ」とのこと。間違いなく当時以上に乱雑かつ悪質な文章を書き殴りまくり、それを自らの“著作”であるとしてドヤ顔でアクセスを稼ぐ“ブロガー”なる存在が跋扈している現代の惨状を彼が見たら、憤死してしまうんじゃないかと不安になるレベルでございます。
先の要約では、「考えずに書く」「書きながら考える」「思索を終えてから執筆する」という3つの著者のタイプがあるとまとめたが、自らが常に問題視している「素材」を取り上げ、それを自分の言葉だけで語ることのできる人がどれだけいるだろうか。
良くも悪くも、現代は「書く」行為のハードルが下がりすぎた。義務教育過程を修了している大多数の人間は自由に文章を描き出すことができるし、それを全世界に公開する場所として“インターネット”なるものも用意されている。そこら中に話題となるテーマ・素材は用意されており、いつでもどこでも、どんなことに対してでも気軽に物申すことが可能となった。
ずっとその恩恵に預かり続けている自分としては、それが決して悪いものだとは思わない。それだけ気軽になった現在も昨今のバイラルメディア批判の論調を見る限り、今なおコンテンツたる文章は、作者からも読者からもその価値を認められている。
ただ、著者が当時のドイツ国内の惨状を見て激怒していた以上に、現代においては適切に「思索」できる著者は限られるようになってしまったことは間違いないと思う。大学教育・論文作成過程からして、自分の意見よりも他者の主張の「扱い方」を重視しているように見えるので。
まず何よりも、自らの「文体」を獲得せよ
文体は精神のもつ顔つきである。それは肉体に備わる顔つき以上に、間違いようのない確かなものである。他人の文体を模倣するのは、仮面をつけるに等しい。仮面はいかに美しくても、たちまちそのつまらなさにやりきれなくなる。生気が通じていないためである。
世間一般に溢れている「文章論」を目にする限り、まず他者の模倣から入ることは、ひとつの方法論として広く通用するものだと考えられている。自分の好きな、尊敬する著者の文章を真似し「型」を学び、その後に自らの独自性を獲得していくという流れ。“守破離”とも。
しかし、本書で記されている「文体」については、全面的に著者に同意したい。ここで語られる「文体」とは、文章構成や語尾、表現技法などとは一線を画するものであり、その人の「思索」を文章に写し出す「性質」のことである。自分には、そう読めた。
それは、ある意見を発信するにあたってその過程で、“「いかに、どのように」”思考し、思索したかという内容物の問題。“何について語られているか”という素材や作家論はどうでもよく、その人の持つ思想の形を示すもの。ゆえに他者の模倣は毒にしかならず、周りからすれば“醜悪この上ない顔”にしか見えない。
この「文体」に関する言説は非常におもしろく、一種の「あるある」ネタとも受け取れるため、自嘲的にニヤニヤしながら読み進めておりました。読者の反応を気にするがゆえの“思想の隠蔽の努力”や、明らかに意味や成り立ちを理解せずに使っている横文字の存在など。ブログはもちろん、小論文やレポートなど、何にでも当てはまりそうだ。
このブログでも「文章術」に関する記事や本の感想は何度かまとめてきましたが、本書で語られている「文体」はそれ以前の、大前提となる根幹の部分であるように読めました。前回「思索」について、“インプット・アウトプットを考える以前の問題”と書いたけれど、それに通じるようにも見える。
時間短縮のためか、最近は何かを学ぶにあたってもとかく表現技法の方法論に頼りがち。しかし、実際はそれが表面的なハリボテに過ぎないことに、いい加減に気付くべきなのかもしれない。逆に言えば、最も重要な手法は古書によって語り尽くされているため、今や語れる方法論は、それら物事の一番外側にしか残っていないのかもしれないけれど。
すぐれた文体たるための第一規則は、主張すべきものを所有することである。
大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。