僕がこのブログを立ち上げたのは、大学を卒業した年の12月末。仕事にもようやっと慣れてきて、徐々にではあるけれど時間の余裕ができた頃だった。
仕事にも人間関係にも「馴れ」が出てくると、安心する一方で反抗心も芽生えてくる。当時の、入社1年目のその瞬間に考えていたことや思いを記録するべく――それと、読書の動機付けとして本の感想を記録するべく――始めたのが、このブログでした。
そんなノリで始めたブログも気づけば2年が経過し、その間に会社を退職したり、個人事業主として開業したりと、いろいろありました。相変わらず、ブログ名のとおりに迷走している感じは否めないけれど、悪くない迷い具合だと思ってる。何より、ブログを書くのは楽しいし。
よくよく見たら、どうやら昨日の投稿が500記事目。飽き性の自分がよくもまあ続いたもんだと呆れつつ、思うことをつらつらと書いてみませう。
コミュニケーションが苦手なこじらせ男子の帰る場所
基本的に、自分は対人コミュニケーションが苦手な人間だ。オフ会などの場で会ったことのある人はわかると思いますが、典型的な人見知りというか、雑談できない人間というか、コミュ障というか。
複数人の飲み会では、端っこで大人しくしてるタイプ。立席パーティーとか、拷問以外の何物でもないっす。最近は慣れたので、ひたすら食うか飲むかしてるけれど。ピザうめえwww
何か特定の話題でもあらかじめ決められていれば、ちょっとは立ち回れる……かも。展開を予想して、先に「話す」要点を考えておくことができるので。
ただし、カッチカチに決めたら決めたで、逆に話せなくなる。雑談中には、知ったかぶりをしてはいけない、話を脱線をさせてはいけない。そんな強迫観念があったようにも思う。
あとは、何かしら役割や肩書きを背負っていれば、最低限はそのとおりに「演じる」ことはできる。これでも1年半、営業として働いていた・働けていたので。他に、1対1のサシ飲みとか。今はそうでもないと思うけれど、昔は聞き上手だったっぽい。ただし、「聴く」だけ。
そんな自分にとって「文章」は、己の考えを自由に発信することができる唯一の手段だった。長文メールも苦じゃなかったし、むしろ楽しんでやり取りをしていたくらい。過去に利用していたSNS(モバゲー、mixi)でも、やたらと日記が長く、好きで長文を書いていたような記憶もある。
そういう意味では、この「ブログ」も、間違いなくその延長線上にあるものだと思う。口下手でコミュニケーションが苦手な非モテ男の、ほどほどに開かれた自己表現の場所。立ち上げ当初から言い聞かせるように「好き勝手」という言葉を繰り返しているのも、そんな思いが根っこにあるからなんじゃないかしら。
インターネットでは「枠」を選択できる
インターネットは、「枠」がないからこそ、原理的には、個人が言葉を尽くして、概要だけじゃなく、その根拠まで説明できるだけの余白ができた。
しかし、一方では、誰でも好きなことを好きなだけを言えるからこそ、短時間で目を惹く手法が流行しているという面もある。
インターネット上には「枠」がないというか、「枠」を各々が選択する余地があるように見える。多彩なコンテンツを、多様な手段によって、自由な表現の形――「枠」で発信することができる(本来の文脈とは別に、一部分だけ切り取ってしまってすみません)。
「ブログはかくあるべし」というブログ論のたぐいが多方面から言及されやすいのも、「ブログ」の枠が非常に多岐に渡っていることによるのではないかと。単なる文量や文体の違いに留まらず、人によって目的も運営方法も大きく異なるので。
自分のための「個人の日記」があり、広告収入を得る「まとめブログ」があり、企業の関わる「オウンドメディア」があるのが、ブログの世界。同じ「ブログ」でありながら、営利目的か個人のログ目的か、まったく別の性質を持っている場合も珍しくない。過去に「日記」or「メディア」なんて二択を挙げたけれど、それすらも大雑把なものだと思います。
そのように自分で自由に「枠」を選択できるブログだからこそ、「ブログ」のほうを「自分の枠」に合わせることだってできるんじゃないかしら。「ブログ」の形式やお約束に自分を当てはめていくんじゃなくて、「自分」の表現方法や考え方のサイズにブログを最適化していく感じ。
ブログのことを「パーソナルメディア」や「自分メディア」なんて言ったりもするけれど、言い得て妙だと思います。テレビでもラジオでも新聞でもホームページでも、さらには定型化されたブログですらなく、「自分」の表現の場として形作られたメディア。
もちろん、「枠」がないゆえに仮想の人格を演じることだってできるし、ウェブという空間に言語化された自分は別人格とも言えるかもしれない。それらも含めて、確かにネットには “「枠」がない” と考えられます。ワクワクするね。枠だけに。
自分の「好き」を記録し続けることで生まれるもの
動画でも音声でもなく、「文字」として記録されるブログの強みは何だろう? と考えると、誰の目にも見える・読める「視認性」と、継続的に書くことでたまっていく「ストック型」のメディアである点がまず挙げられるんじゃないかと思う。
もちろん、動画や音声でも記録はできる。けれど、一個人の意見や思考を残すにはちょいとハードルが高いし、それを他人に印象深く伝えるには技術が必要となってくる。
先ほどのしっきーさんの記事でも「プレゼン」について述べられていましたが、まさしく。他に動画・音声による表現としては「音楽」や「PV」などがメッセージ性の強いものとしてありますが、いずれもやはり、作り上げるにはスキルが必要になってきますし。
その点「文字」というのは、得意不得意はあれど、誰の目にも触れやすい「記録」として認められているように思う。日本におけるTwitterやLINEの隆盛っぷりを見ても、文字コミュニケーションを好んでいる人は多いのではないかしら(ほかが弱い、というわけではなく)。
結局いくら「◯◯に興味がある、やりたい」という熱い思いを胸の内に秘めていてもそれが「どこか」、「誰か」に伝わらないと何も起きないかもしれない。待っていても周りが見抜いてくれたり、察知してくれたりしてくれるわけではない。(そういう場合も稀にあるかも知れないけれど。)そう考えると、自分の「好き」を自由に、好きなようにじっくりと時間をかけて発信できて、そして見てくれた人がそれを感じ取って声をかけてくれることがありえる「ブログ」の可能性って、今更だけれど意外とすごいのかもしれないなーとしみじみ思った今日この頃。
時間をかけて書き上げ、継続的に続けることでストックされた「ログ」は、どこかの誰かの目に留まるかもしれないし、留まらないかもしれない。けれど、どのようなニッチな分野にも「好き」な人はいるもので、知らず知らずのうちに誰かに読まれていた、なんてことは珍しくない。
「文字」として残るブログの何がありがたいって、僕のような「人見知りで対人コミュニケーションあばばばば!」な人間でも、何かをきっかけに声をかけてもらえる可能性があることだと思うんですよね。
こちらから「はーい!」と手を挙げなくても、興味を持った人が声をかけてくれる……かもしれない。何もかも受け身で立ち回る真面目系クズだって、チャンスを手にすることができる……かもしれない。いやね、どうしようもない人間だってことはわかってるつもりです。
振り返ってみればこの2年間、ブログ関係で、自分から積極的に「こうするぞ!」と動いたことはあまりなかったように思う。相談メールがくれば返信して、「会いませんか?」と連絡をもらったらホイホイ出向いて、「仕事やらない?」とお声がけいただいたら協力する形。
そのように、自分が「好き勝手」に書いているつもりのブログをどこかの誰かが読んでくださり、それをきっかけにつながりができて、あれこれ取り組み、協力することができるのは、とってもとっても楽しい。
迷惑をかけてるな、邪魔になってないかな、と感じることもあるけれど、「ブログ」によって広がった世界はかけがえのないものです。何より、自分に合った形の「枠」を選択し、試行錯誤しつつ文章を書くのは、やっぱり最高におもしろい。
しかし逆に、そのような等身大(に見える)自分を記録することによる弊害も考えられる。炎上とか。あるいは、この記事のように「コミュニケーションが苦手です!」などと声高に書いたことで、関心を持ってくれていた人が「あ、こいつねーわ」と見切りをつけているかもしれない。
でも結局、それは日常生活でも当たり前にあることだし、ブログによって得ることのできた機会の裏には、 “あったかもしれない” 機会がもっとたくさんあっても不思議じゃないと思う。そのへんはアレっすよ。えっと……機会均等? 等価交換? ……ダメだ、横文字が出てこないや。
何はともあれ、「学生」や「会社員」や「主婦」など、日常生活では自然と役割や肩書きを持たざるを得ないなか、それとは別の「枠」であり自己表現の場としての「ブログ」を続けることは、決して悪いものではないと思うのです。というか、楽しい。ただそれだけ。
それは別にブログである必要もなく、TwitterでもFacebookでも何だって良いのだけれど。でもやっぱりブログをやるなら、シンプルかつモダン、無料で始められる「はてなブログ」が良いですよね! ねっ!