「転勤族」の子供として育つということ|4つの小学校に通った僕の話


※「転勤族の特徴はこうだ!」という話ではなく、徹頭徹尾、主観的な自分語りです。

 

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引っ越しの多かった小学生時代

 僕の家庭はいわゆる「転勤族」だった。1年に1回以上は引っ越すレベルで常に飛び回っているものではなかったけれど、一般的な家庭と比べれば引っ越しの回数は多かったように思う。

 北は北海道、南は東海地方まで。それよりも西に住んだことはないので、「日本全国、いろんな土地のことを知ってるぜ!」なんてことはとても言えない。それに、ほとんどが関東圏だったこともあるし。

 とは言え、小学生時代はなかなかにハードなものだった。6年間で通った小学校は、4校。その中で関わってきた人間を数えようとすれば、かなりの人数になるんじゃないかと思う。──今となっては、顔と名前を思い出せる人はその一部になるけれど。

 試しに、ちょっと思い出そうとしてみた。通っていた学校ごとに、特に仲のよかった友達──各校、5人ずつ以上は顔と名前を思い浮かべられそうだ(顔はうろ覚えだけど、雰囲気的なもので)。担任の先生は、顔と名前のどちらかしか思い出せない人もいるけれど、何となく覚えている。その人がどういった性格をしていて、どのような話をしたのかも。

 

 それはさておき。

 

 常に「転校生」であった僕には、ひとつの大きな悩みがあった。それが、引っ越しのたびに人間関係がリセットされ、新しい人間関係を築くことに四苦八苦することになるという問題です。

 転校生と言えば、漫画やアニメではしばしば物語を動かすキーパーソンとして描かれる。もちろん現実では、通学路の曲がり角で食パンをくわえた美少女とぶつかり、「あーっ! さっき、私のスカート覗いた奴ー!」なんて展開はありません。そもそも小学生である。

 毎回の職員室登校から始まり、担任との対面、そしてクラスでの自己紹介とイベントが続く転校初日は、いつもガチガチで緊張しっぱなしだった。──友達はすぐにできるかな。変な奴だと思われないかな。いい人ばかりだといいな──。そんなことが、頭の中でぐるぐると回っていた。

 

 でもそこは、さすがは優等生で通っていた、幼い日の純粋な僕ちゃん。

 

 「はじめまして! ◯◯県から来ました! けいろーといいます! サッカーと本とゲームが好きです! よろしくお願いします!!」と、元気いっぱいにご挨拶。変な失敗をしたことはなかったんじゃないかと思う。……忘れているだけかもしれないけれど。

 そして受け入れてくれるクラスメイトたちも、同じく幼い小学生。

 どの学校に行っても、先生が「みんなー! なかよくしましょうねー!」とお決まりの台詞でクラスをまとめていたので、溶けこむのは難しくなかった。休み時間になれば、お決まりの「どこから来たのー?」「サッカー好きなのー?」「今はどこに住んでるのー?」といった質問タイムもあるので。

 ただし、6年生の時に転入した学校だけはどこか「よそ者お断り」感があって、少し戸惑った覚えがある。思春期に入るか入らないかという年齢によるものなのか、はたまた、その学校と地域に特有の閉鎖性によるものだったのか……それはわからないものの。

 ともかく、どこに行っても「転校生」というキャラがついて回っていた、少年時代の自分。このことは、その成長過程に並々ならぬ影響を与えていたと断言できる。

 それによって「よかった」と感じることも多いけれど、一方では、変な方向に歪んでしまったような面もあるかもしれない。どこに行っても同調圧力で満たされている、「小学校の教室」という独特な空間。そこに異質な「転校生」として飛び込むことは、両極端な結果をもたらすと思うのです。

 

「転校生」という「キャラ」の強さ

 「転勤族だったんだぜ!」という話を友達にすると、たまにこう言われることがある。

 

「転勤族って、いろいろなところへ行っていろいろな人と話すから、コミュニケーション能力が高そうだよねー! 楽しそうだし、いいなー!」 

 

 僕の考えでは、これは間違った認識だと思う。ぶっちゃけ、転校生にはコミュニケーション力など必要ない。むしろ転校生だからこそ、コミュ力がなくてもやっていける。

 というのも単純な話、「引っ越してきた」というそれだけで、「転校生」というキャラクターを獲得しているから。スタートの時点ですでに自らの立ち位置が確定されている転校生は、周囲よりも目立ち、少なからず「気にかけてもらえる」存在なんですよね。

 また、転校生には「経験」という大きな武器もある。同じ土地に住み、同じように育って、同じような生活を続けているその地域の小学生とは異なり、彼ら彼女らの知らない生活と経験をしてきている転校生。そんな僕らは一種の「イレギュラー」として、ほぼ間違いなく興味関心の対象となる。

 

 前述の「質問タイム」が、その第一段階。イレギュラーである僕らにとっては、ここで「うまくやる」ことの重要性がむちゃくちゃ高い。

 どんな質問にも愛想良く答え、誰とでも仲良くし、クラスに溶けこもうとさえすれば、周囲もそれに答えてくれる。彼らと自分の間に「仲間意識」さえ芽生えてしまえば、とりあえずの立ち位置は確保することができる。滑り出しは完璧だ。

 でも逆に、機嫌が悪そうだったり相手の話を無視したりと、「感じが悪い」ように捉えられてしまったら、さあ大変。

 よそ者である僕らは、「第一印象」がすべてを決めてしまうことをよく知っている。少しでも悪く思われ、いじめに発展してしまえば、もう取り返しがつかない。幼い子供1人の力でクラスメイト数十人の心象を軌道修正するなんて、無理ゲーにも程がある。失敗=終わりを意味していると言っても過言ではない。

 それに「転校生」というキャラも、数ヶ月も経てば慣れるもの。その間にクラスに溶けこんで自分のキャラを確立しなければ、スクールカーストの下位に属することとなり、いじめられるリスクが高まる。いち早く周囲に同調し、自分固有のキャラを獲得しつつ、クラス内での立ち位置を確保しなくてはならない。

 自分の場合、小学校の6年間は常に「真面目」に値する評価を先生から頂戴し、勉強もできる優等生だったので、その点はうまくやっていた……と思う。運動は苦手だったものの、休み時間には自分から積極的にクラスメイトを誘って校庭に飛び出すことで、ハブられることを回避していた。自らを中心に据え、リーダー的な存在として “立ち振る舞う” ことで、うまいこと自身の立ち位置を確保していた感じ。

 

 以上のような事情もあり、転勤族の子供として育った人は、コミュ力はともかく、他と比べて協調性が高い印象が強い。──僕らにとって、小学校の教室は戦場なのです。

 近頃は「小中学生が『キャラ』を演じることに疲弊している」という議論もよく聞くようになったけれど、転校生が感じる重圧はそれ以上のものだと思う。さまざまな環境を飛びまわり、常に「キャラを演じ」続ける必要があるという経験は、アイデンティティの形成に大きな影響を与えるものなんじゃなかろうか。

 

複数の「仮面」を使い分ける

 小学4年生の時、担任の先生にこんなことを言われた。

 

「けいろーくんは、真面目だったり、ひょうきん者だったり、泣き虫だったり、たくさんの『仮面』を持っているよねー」

 

 それを聞いた当時の僕は、「なんかよくわかんないけど、たぶんほめられているんだな! うん!」と受け取ったように記憶している。──仮面とか、なんかかっこいいじゃん。「複数の仮面を持つ男」……いやぁ、ほれぼれするぜ!

 この言葉はいまだに強く印象に残っていて、現在に至るまで忘れたことがなかった。ずっとそれが不思議だったのだけれど──今となって考えてみれば、これは自分の本質を的確に突いたものだったんじゃないかと思うのです。

 

 新しい環境で生活を始めるとき、人間関係を形成するにあたっては、まず何よりも「協調」することが急務となる。何度も書いているように、溶けこむこと。空気を読むこと。そして、そのコミュニティにおけるローカルマナーや習慣を覚えること。

 その際に自分の立ち位置を確保し、居場所を作るのに最適な方法が、「そこにいないキャラ」「そこで求められるキャラ」を演じることだと僕は考えています。実際、今に至るまでずっとそうしてきたので。

 みんなをまとめる人がいなければリーダーを、真面目くんが多いコミュニティではお調子者を、ひょうきん者ばかりのグループではツッコミ役を、毒舌の受け皿がいなければいじられキャラを、それぞれの場面に応じて “演じて” きました。

 あらゆる学校やコミュニティにおいて、その中ではどのような役回りがあり、コミュニケーションが行われているかを観察してみると、そこにはある種のルールというか、テンプレートに沿って人間関係が成立していることがわかる。

 異分子としてそこに飛びこむ際には、まずはその関係性を把握することから始めて、そこにいない必要なキャラを導き出す。そのうえで、そのキャラを “演じる” ことによって、自身の立ち位置を確保する。──そんな作業を、幼い自分は無意識にずっと続けてきたように思う。

 

 とは言っても、小学生のコミュニティでそんなに複数のキャラを使い分ける必要はないわけで……。基本的には「真面目な優等生」、たまに「ひょうきんなお調子者」のキャラをちょい出しすることで、自分のキャラを確立していた格好。ある種のギャップ萌えですね。人生のモテ期は小学生の頃に使い果たしました。

 ただし、この手の複数の「キャラ」を演じ分ける立ち回りには、当然ながらリスクもある。転校生にとっては良い立ち回り方かもしれないけれど、これを続けていると……いつかどこかで、ほぼ間違いなくこのような悩みを抱くことになる。

 

 「あれ? 僕っていったい、どんな人間だったっけ?」

 

 これは、自己紹介で話す「真面目」や「大人しい」といったような、言葉にできる性格とは別のもの。自身が口にする「自分」と他人が評価する「自分」のギャップに気づき、訳がわからなくなって、必要以上に「他人から見た自分」を気にしすぎるようになってしまう。

 その結果、「自分」がわからなくなる。

 もちろん、この話は何も「転校生」に限ったものではないと思います。これはきっと、子供時代を複数の環境で過ごしてきて、周囲に合わせることを無意識に実践し、いつも「良い子」であり続けるために「演じ続けてきた」人の共通認識なんじゃないかしら。

 それを端的に言い表したのが、先ほどの複数の「仮面」を持つということ。これを指摘してくれたのは当時の担任──まだ20代の若い女の先生でした。今、どんな先生になっているのかな……。

 

自分は「特別」という意識

 前半に書いた、6年生の時に転入した学校。
 そこで僕は、いじめの対象になりました。

 

 ──転校初日から違和感はあったんですよね。それまでどおりの自己紹介をしても、反応が芳しくない。誰も話しかけてこないばかりか、こちらから話しかけても反応が鈍い。6年生にもなれば「みんななかよく!」なんて声に反発するのもわかるけれど、それにしても、その学校の「よそ者お断り」感は異常だった。

 ゲームやサッカーの話題を駆使して、なんとかクラスにそこそこ溶けこめるようにはなった。しかし2学期も終盤に差し掛かった頃、なんというか……「やらかして」しまい、徐々にいじめられるようになった。……具体的な話は、特定が怖いのでしませんが。

 実際問題として、そのきっかけは自分の頑固さが招いたことであり、ほぼ自業自得としか言えないアホなものだった。そして同時に、そこでようやっと「自分が『特別』だと思い込んでいた」ことに気づかされたんですよね。

 

 前にも書いたように、転校生は「転校生」というだけで特殊性を帯びている。ゆえに、周囲にうまく溶けこみつつも、どこかで「周囲とは違う」自分に酔っていたのだと思います。経験豊富だし、周囲が知らないことを知っているし、手紙をやり取りする友達が各地にいる。

 まるで、マンガの主人公みたいじゃないか──なんて。

 幼い頃の特殊性は、それだけで自尊心・自己肯定感を満たすアイデンティティとなる。けれど、「転校生」なんて何の益も珍しさもない要素にアイデンティティを見出した結果、痛い目を見た──それが、当時の僕ちゃんの姿だったわけです。

 小学生のうちに気がつけたのはよかったけれど、しばらくは何が何だかわからなくなり、酷い中学時代を過ごすことになりました。懲役3年、さらにそれが今も尾を引いていると考えると……あまりにも手痛すぎる印象もあるけれど。

 

人間関係とか、距離感とか

 そんな少年時代を過ごした自分の意識にしばしば上がるのが、人と人、人と物などの「距離感」について。出会いと別れが身近すぎる少年時代を送った結果、周囲と比べると、なんとなく「人間関係」の見方がゆがんでいるように思えてならないんですよね……。

 現在の人間関係について言えば、人並み以上に固執している一面はあると思う。この歳になって、ようやく、せっかく長く付き合える友達ができたのだから、それは大切にしていきたい。いざこざがあれば全力で仲裁に入るし、悩んでいるなら相談に乗りたい。本当に心からそう考えている……はずです。

 でも他方では、「ひとり」が楽だと感じることも多い。家族や友達、身近なしがらみから解き放たれて、ひとりぼっちでぶらぶらと旅をしたり、どっかの山奥に引きこもりたいと思うこともある。転勤族に特有の「自分には『ふるさと』がない」という問題が、この考えにつながっているのかもしれない。

 

 自分の身近な人に対して、どこまで関わっていいのか。どこまで踏みこんでいいのか──。そんなことを、ずっとずっと考えてきた。

 人それぞれに心地の良い距離感があって、でもそれを無視して踏みこみたいと思うことが稀にあるけれど……やっぱりできなくて。仲良くなりたい人がいても、相手が自分に抱いている評価を気にして……やっぱり何もできなくて。

 神経質だったり、無関心だったり、女々しかったり。この歳になっても結局、僕には「自分」がわからない。だからこそ、友達や異性との付き合い方、距離感もわからないまま。……え? 告白? 1回しかしたことないよーだ! しかも中途半端に不発。

 周囲からの評価も常にまちまちで、「『僕』という人間は、はたして本当に実体として観測されているんだろうか?」なんてアホなことまで考え始める始末。……あ、これはネタですよ、はい。でも、思春期の経験やら関係性やら、いろいろなものをこじらせてしまった結果が、現在の「これ」なのでしょう。

 

 うだうだと書いているとまとまりそうにないので、今日はこのあたりで。転勤族とか関係なく、小さな頃の経験やトラウマをこじらせるのはよろしくないっすね……。

 

 

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