読みました。ポジティブな「おもしろい!」を作り出すのは、ネガティブな感情「不満」を始めとする、ネガティブな感情をどのように扱うかという問題について。
「不満」と「怒り」の向かう場所
日常生活における「不満」や「怒り」といったネガティブな感情が生み出される場面を考えると、どうも吐き出されて終わり、な印象が強い。
人混みで肩をぶつけられて「ふざけんじゃねえ!」と。
トイレの個室が満室で「ふ、ざけ…ん……じゃ…ねぇ……」と。
コミケで並んだ壁サークルが完売して「ふざけんじゃねえ……(´;ω;`)」と。
そして、またそれを繰り返す。
不満や怒りをその身で味わって、文句を言って、それで終わり、ではもったいない。特に最近は、ちょっとした店員さんのミスに怒り狂うクレーマーを見かけたり、ネットの話題について平気で罵詈雑言を並べ立てたり、負の感情が殊更に目立つように感じる。
失敗や理不尽に対して、声を上げることは必要だと思います。しかし、無駄に大声で批判することで、また、そもそも批判ですらない罵声を上げ続けることで、問題の本質が覆い隠されてしまっている場合も、少なからずあるのではないかしら。
不満をもたらす「ギャップ」
「不満」や「怒り」といった感情の根っこにあるのは、「ズレ」や「差異」、「ギャップ」といったものだと思う。あるいは、「自分の思い通りにいかない」こと。
自分のイメージしていたものと、実際のものが違った。想定とは異なり、予定通りにいかなくなってしまった。もっとうまくできそうなのに、できなかった。物足りない。MOTTAINAI。
最近だと、こんなツイートが話題になっていましたね。
写真と全然違うものが出てきた pic.twitter.com/2RCgisAuhH
— Toshiki Satō (@deadheadsat) 2014, 6月 29
まさに「理想」と「現実」の対比であり、その反応を見ても、ある人は怒り、ある人は文句たらたらになっていた模様。大半の人は、「ねーよwww」とネタとして笑っていたようにも思いますが。物足りないってレベルじゃねーぞ!
この件の場合は、どうすればいいだろう。こんなもんだよね、と納得するか。店員さんを呼びつけて「ふざけんじゃねえ!これだからブラック企業は云々かんぬん!」なんてくどくど言うか。
でもそれならば、「随分と写真と違うようだけど、どういうことかなー?(にっこり)」とか何とか言って、改めて別の皿を出してもらうなり、注文をキャンセルするなりした方が良いように感じる。「仕様です」と言われたら、また違った対応になるとは思いますが。
「不満」→「疑問」→「アイデア」
「不満」や「怒り」といったネガティブな感情を抱いたとき、それにどのように対応するか。吐き出すだけで終わるよりは、その「対策」を自分なりに考えてみる方が有意義だし、おもしろいんじゃないかと。
遡れば、「素手じゃ威力が足りねえ!」という不満から打製石器が生まれたのだろうし、「なに喋ってるか分からねえ!」から特定地域内に共通言語ができたはず。触れられない存在に触れるため、おっπマウスパッドは生み出されたのです……え? 違う?
道具でもサービスでも何でも、その多くは「不満」を解消するために考えられ、形となってきたことは間違いないと思う。「ふざけんじゃねえ!」を「こうすればいいんじゃね?」へと変えるアイデア。
そして、その「不満」と「アイデア」を結びつけるものが、「どうすればこの不満をなくし、快適に過ごすことができるのだろう?」という「疑問」なのではないかしら。
買い物をしたとき、袋に貼られるセロテープが剥がしづらい。不満だ。
では、どうすれば簡単に剥がせるようになる?
⇒テープに折り目をつける。テープ意外の手段を考える。
毎朝、満員電車に乗って行くのは疲れる。不満だ。
では、どうすれば満員電車を避けられる?
⇒通勤時間を早める。会社近くに引っ越す。在宅でできる仕事をする。
そんな感じで、自身の「不満」とその理由を確認し、自らに「疑問」として問いかけること。それを改善するためには、どうすればいい?どのような対策が必要?
そうすることで、考える余地ができる。不満を不満のままにせず、「どうする?」を導き出そうとする思考過程。それを経て、解決策という「アイデア」が生まれてくるのではないかと思います。
「べき」論を避けるための問いかけ
こんなことは、言われるまでもない、当たり前のものかもしれません。ただ、日々の生活に忙殺されて、小さな「不満」をそのままにしている人は、意外と多いんじゃないかと。そのくらいなら我慢できるし、まあいっか、と。
それもひとつの考え方かと思いますが、本当は嫌なことを「まあいいや」と放置していると、小さなことでも溜まりに溜まって、後で対処できなく恐れもある。
忙しい人ほど、そんなことに気を回す余裕はないとは思いますが、折にふれて「考える」時間を持つことは、ルーチン化しがちな生活に刺激をもたらす意味でも、大切であるように感じます。
また、「不満」の対処法として、あえて「疑問」という言葉を使ったことについて。ネガティブな感情は確かに強い衝動を引き起こすものですが、それをどうにかしようとすると、どうも安易な「べき論」に走ってしまうこともあるんじゃないかと思いまして。
例えば、他人の意見に賛同できない場合などに湧き上がる「不満」、もにょもにょ感は、時に極端にネガティブな感情として醸成されがちです。
「あの人の主張はおかしい!」という不満を持ったとき、「それは絶対に間違っているから、こうするべき!」と決めつけてしまうのは、他の可能性を潰すもったいないことだと思う。そこに論理があればまだ良いけれど、「気に入らないからこうしろ!」では、お話になりません。
自分の主張を持つことは大切。けれど、あまりそれひとつに注力しすぎると、視野狭窄に陥ってしまうこともある。「べき論」は、その典型かと。
「こうした方がいいんじゃない?」が、「こうするべき」になって、「こうしなければならない」となり、最後には「こうしろ!」になる。強い言葉を使っていると、どうも他のものが目に入らなくなってしまうように思います。できるだけ、それは避けたいところ。
そうならないためには、別の可能性、選択肢を選ぶ余地を残しておくこと。「不満」への対策を考えるにあたって、ひとつの「べき」にとらわれるのではなく、「本当にこれが正しいの?」「他の考え方もあるのでは?」といった「疑問」をどこかに抱き続ける。
ぶっちゃけ、端から見れば「あなたの主張はなんなの?ブレブレなの?コウモリなの?」といった優柔不断っ子に見えるだろうし、常にいろいろな可能性を考え続けるのは、ひっじょーにかったるい。
だけど、せっかく「不満」という問題点を見つけることができたのだから、それをより良くするため、最善手を考えようとするのは、決して悪いことではないんじゃないかしら。ネガティブな感情は、こねくり回せば回すほどポジティブになるかもって、ばっちゃが言ってた!
心には常に「?」を。
人生、試行錯誤の繰り返し。