“インターネットが普及したことによって、人と人が繋がりやすくなった” とは、よく耳にする言説だ。時間や場所、立場や年齢などに関係なく、まったく無関係の人間同士をつなぐことができる。「実際に会ってみる」なんてことも、今やすっかり当たり前。
しかし、インターネットが本当になんでもかんでも「伝える」ことのできる媒体かと問われると、疑問を抱く人は多いんじゃないかしら。SNSで友達と話をしていて、ふと違和感を覚えたり、誤解されたり。そのような経験がある人は、結構いるのでは。
そもそもの大前提として、インターネットは「伝わらない」メディアであると思う。人と人とを「つなげる」力は持っているかもしれないが、情報も感情も余すことなくすべてを「伝える」ような万能性は、そこにはない。……リアルでのコミュニケーション同様に。
そんな、インターネットの「伝わらなさ」について。
無機質な〈情報〉と主観に基づく〈感情〉
インターネット上でやり取りされているものを分類すると、大きく2つに分けられるんじゃないかと思う。
ひとつは、無機質な〈情報〉。個人あるいは集団など、人の感情や意志ができるだけ削ぎ落とされた、単純明快な情報。「誰が、どこで、どうした」程度のもの。
例えるなら、NHKのニュースが近いかもしれない。アナウンサーやリポーター個人の主義主張にはほぼ触れず、出来事や事件などの〈情報〉だけを淡々と伝えるスタイル。もちろん、放送の前には伝える報道の選別が行われているので、まったく恣意性がないとは言い切れない。
もうひとつは、主観に基づく〈感情〉。出来事や事件に関して、特定個人あるいは不特定集団の意志や主張が付与されたもの。前述の「誰が、どこで、どうした」に加えて、「私(私たち)はこう思った(考えた)」という意見が付いてくる。
便宜上、〈感情〉と書いたけれど、これは別に「嬉しい」「悔しい」などに限ったものではない。「賛成」「反対」「こう思う」「こう感じた」といった、個人の思想・主張が反映された、広い意味での〈意見〉〈印象〉として。誰かの主観が入った意見を、ここでは〈感情〉とする。
例に挙げた「報道」に関しては、伝えるニュースの順番や取り扱い方、それ以前に「報道するorしない」といった選択が前提として行われているため、〈感情〉が完全にゼロの〈情報〉は、実際のところはないのかもしれない。
ただ、アナウンサーに編集者に新聞筆者など、個人の意見ができるだけ削ぎ落とされているように見えるもの、出来事について記しているだけの報道に関しては、そのソースも参照した上で、 “ほぼ” 無機質な〈情報〉と認められてもいいと思う。
〈情報〉に付与される〈感情〉の重要性
マスメディアの報道に限らず、何らかの〈情報〉を伝えるにあたって、そこに誰かの〈感情〉=〈意見〉が伴っているかどうかは、かなり重要な問題となってくる。
なぜならば、〈感情〉=〈意見〉が伴っているか否か、それがどのように示されているかによって、情報の受け取り手が抱く印象は大きく変わってくるからだ。一例として、世間を賑わせた「STAP細胞」について、日本とアメリカの報道の違いを示した以下の記事を読んでみよう。
このようにSTAP細胞の発見は、ほかにも米国のたくさんのメディアで報道されていますが、どのニュースの論点も大きくは「何が新しい発見なのか」「発見の何が画期的なのか」「何が問題点なのか」、そして「将来的にどう応用されていくのか」という4点に絞られていると思います。
一方、今回、日本の多くのニュースでは、小保方博士の年齢、性別や彼女の女性としての魅力を報道していました。これらの情報が、STAP細胞を報道するために非常に重要な情報であるとマスメディアが判断したのだとすると、その背景には日本の文化、特に男女の違いを強調する文化、つまり男女の格差があるのだと考えられます。
こちらでは日米の報道の差異について、社会的背景や文化背景、科学に対する関心の差が理由だとされています――が、それはまた別の問題なので、ここでは突っ込みません。
問題としたいのは、それぞれの報道に付与された〈感情〉、意見や印象といったもの。もしもこの報道に関して、余計な情報を一切合切そぎ落とすとしたら、次のような内容になると思う。
理化学研究所は、発生・再生科学総合研究センターの小保方晴子・研究ユニットリーダーらが「STAP細胞」を発見したことを報告した。これは、細胞にストレスを与えて体細胞を初期化することで、すべての細胞に分化できる全く新しい細胞だと、博士らは説明している。
初期の報道が見当たらなかったので、適当にざっくりとまとめてみました。違和感があるかもしれないけれど、「どこの、誰が、何を、どうした」程度の、最低限の情報。もう少し詳細を報道しようとすれば、それが「どういうものか」といった内容も含まれてくるかと。
で、そこにどのような〈感情〉が付与されたかと言えば、件の「リケジョ」「割烹着」などの報道だ。具体的な研究内容、その発見がもたらすものについて論じられた米国の報道に対して、国内では、「若手女性研究者」という属性を持った特定個人に焦点が当てられた。
〈感情〉というよりは、〈印象〉といった方がこのケースでは正しいかもしれない。視聴者、読者に対して、よりセンセーショナルなニュースとするために付与されたイメージ。 その結果、「もっと女性研究者が増えて欲しい」「こんなかわいい理系女子がいるのか」という感想も見られた。
言うなれば、無機質な〈情報〉に対して〈感情〉を付け加えることによって、情報の消費者に関心を抱かせて惹きつける扇情性、魅力といったもの付与されたわけだ。
それだけでは関心が持てない、意味のない〈情報〉に対して、〈感情〉=〈印象〉という名の付加価値を与えることで、意味を持たせる作業。つまり〈感情〉とは、単体では “伝わりにくい” 情報を、 “伝わりやすくする” 役割を持っているとも言えるだろう。
行き過ぎた〈感情〉の危険性
このように、単純な〈情報〉を伝えるにあたっては、〈感情〉を付与したほうが伝わりやすい場合は多い。無意味に意味を、無価値に価値を付け加える作業。……ただし、STAP細胞の件では、それが裏目に出てしまったようですが。
一方では、ある〈情報〉について〈感情〉を織り交ぜすぎた、もしくは〈感情〉中心になってしまった結果、極端に扇情的な内容として受け取られてしまう場合も往々にしてある。いわゆる、「炎上」*1だ。
それこそ昨今、世間を騒がせていた「バカッター」*2のように、常識的には不適当であり、多くの批判にさらされても致し方ないように思えるケースも少なくはない*3。
しかし、そういった “非常識な” 投稿以外にも、Twitterのちょっとした発言や、個人ブログの記事が燃え上がるようなケースも存在する。理由・要因はさまざまだが、そのひとつに、不必要に過剰な〈感情〉や〈情報〉が含まれている、という見方があるんじゃないだろうか。
例えば先日、 “川越シェフ” こと川越達也さんのインタビューでの物言いが取り上げられ、多くの批判にさらされたことがありました(物議に川越シェフ反省『生意気でした』 - NAVER まとめ)。
川越さんの言い方も悪いとは思うけれど、この件の根っこにあるのは、ある種の「文化の違い」とでも呼べるものだと思う。双方が持っている認識、前提の違い。
この件に関して言えば、店側から見ると「高級店で水にお金を払うのは当たり前なのに、そこを突っ込まれて評価を落とされるのには納得がいかない」という思いがあり、お客さん側からすると「注文してもいない水を勝手に入れられ、代金を請求されるのはおかしい」という主張がある。
根本にあるのは、「明らかにどちらかが悪い」という問題ではないと思う。本件が炎上した主たる原因は、おそらく川越シェフの “物言い” の部分。相手が事情を知らないことについて「おかしい」と断言し、さらには年収云々にまで突っ込んでしまったことだ。
もしも「当店ではこのような事情がありまして、お客様には大変申し訳ないのですが、お水代を余分に戴いております」という形で淡々と応じていれば、ここまで燃え上がることもなかったように思う。……もちろん、そこまでへりくだる必要もないとも思うけれど。
加えて、「年収がいくら」という、客として店に訪れていない無関係の不特定多数をレッテル貼りするような「あなたたちはわかっていない」的な発言をしてしまえば、そりゃあ批判もこようもの。実際、「貧乏人は背伸びしたらあかんのか!」という突っ込みもきてますし。
本件に限らず、目的語を広くする言葉や、強い言い回し、感情的な言動や、特定層にレッテルを貼り付ける主張などは、得てして炎上しがちだ。
余計な言葉をそぎ落とせば、真っ当な意見のひとつとして認められる可能性もある。けれど、不必要に「バカ」とか「クソ」なんて付けてしまうと、それだけで読み手に悪感情を与えてしまう。強い言葉は、多くの人を同調させ味方にしてくれる一方で、逆に多くの敵を作りかねない危険性も孕んでいる。
〈感情〉 の使い方、「ことば」の選び方
自称「炎上系男子」こと、ジャーナリストの津田大介さんは、著書『ゴミ情報の海から宝石を見つけ出す』で、 “叩かれて本気で傷つくことはほとんどない” として、その理由を次のように書いている。
なぜなら、炎上のきっかけになったり、人から否定的な反応を引き出す言葉だったりというのは、それだけ人に訴える力があることの裏返しだからです。
表現として強かったり、言葉に力があるからこそ、ネガティブなもの、ポジティブなものを含め、反応を巻き起こすことができるのだと思います。逆に、炎上を恐れて無難なことしか発信しない、建て前ばかり言っている人はつまらなくないですか。
残念ながら、建て前でしか話さない人のところには、そもそもおもしろい情報も人も集まってきません。だから、賛否両論が起こる意見は、そこで何かしらのムーブメントが起こせている「よい兆し」なのです。
正直、議論を巻き起こすために自ら燃え上がろうなんてこと、やりたいとは思えない。しかしインターネット上では、自らの〈感情〉=〈意見〉について強い「ことば」を発し、周囲へ投げかけることで、千差万別の意見が飛び交う場を作ることもできる。
逆に、曖昧な「ことば」はつまらないとして、忌避するような言説にも一理ある。「この問題には違和感を覚える」「彼の主張はどうかと思う」といった書き方は、たしかに主張がわかりづらく、周囲からすれば突っ込みづらい。……が、少なくとも炎上のリスクは回避できる。
きっと、どちらがいい、という問題ではないのだろう。
〈感情〉を重視すれば、主張が “共感” という形でさまざまな人に伝わりやすくなる一方で、その部分だけを読んで “誤読” される危険性も高まる。最悪、燃える。
淡々と〈情報〉だけを伝えようとすれば、最低限の人へそれを届けることはできるかもしれないが、一部の人にしか読まれない。最悪、誰にも見向きされない。
自分の〈感情〉〈意見〉〈印象〉を、どこまで乗っけるか。どのような「ことば」選びをするか。元はまったく同じものでも、たったこれだけを変えるだけで相手に伝わる〈情報〉は如何様にも変化するし、その反応もいろいろな方向へと枝分かれする。
だからこそ、自分が、何を、誰に、どのような意図を持って伝えたいのか、という部分を考えることは、情報発信にの場においては非常に重要だ。炎上のリスクを持ってまで伝えたいことなのか。それとも、どうせ伝わらないのだから適当でもいいや……と、思うままに発信するのか。
いずれにせよ、やっぱりインターネットは「伝わらない」メディアだと思う。面と向かってでさえ思いのすべてを伝えることはできないのだから、文字だけじゃとてもとても……。
「伝わらない」ことを前提においたうえで、自分が「伝えたい」情報や感情はどのようなものなのか。それを考えつつ、伝える努力を惜しまず試行錯誤を重ねていくことで、自分にとっての「情報発信」の有り様も徐々に変わっていく。そうすることによって、自らの「ネットリテラシー」も自然と鍛えられていくのだろう。
連載「ネットリテラシー」について
- 第1回:「半年ROMってろ」が僕らに教えてくれたこと
- 第2回:マスメディアもインターネットも本質的には変わらない
- 第3回:主体性をもって情報発信する 〜 アウトプットの考え方
- 第4回:あなたの言葉はネットでは伝わらない〜「炎上」を考える(本記事)