自分が落ち着ける〈居場所〉への渇望と、「逃げ場所」としてのサードプレイス


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photo by Herr von Draussen

 苦しいときの、人頼み。

 

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「サードプレイス」という存在

 「サードプレイス」なんて言葉が語られるようになって久しい今日このごろ。

都市生活者には三つの“居場所”が必要だといわれます。第一の場所(ファーストプレイス)が「家」。第二の場所(セカンドプレイス)が「職場」。そしてその二つの中間地点にある第三の場所を「サードプレイス」と呼びます。

 

 家と家族、職場と同僚。そのどちらでもない、第3の「場所」。その重要性は年々増していると語る人は多く、僕自身もそう思う。

 家庭内の問題がマスメディアでも当たり前に語られるようになり、誰にも等しく安心できる場所であるはずの “イエ” は失われた。いや、もともと「誰にでも等しい」場所なんてなかった。ただ、それまで見えなかったものが顕在化しただけの話。

 “イエ” に限らず、僕らは環境によって自分を変質させ、その場に適した役回りを演じることで、そこでの立ち位置を確保している。けれど、それがいつもいつでもうまくいく保証はなく、うまくいっているように見えてその実態は……なんてケースも少なくない。

 

 そのような綻びのあるコミュニティに属することは、強要されるものではないが、生きていく上では最低限、必要なものだ。

 賃金を得て生活を営むための手段として、 “会社員” は何よりもメジャーな手段だし、どんなに嫌であっても、家族の繋がりをそう簡単に切ることはできない。

 

 家は落ち着かない、学校ではいじめられる、会社では居場所がない。子供や大人、世代に関係なく、家でも職場でもない、第3の〈居場所〉を求める人は多くなっているように感じる。

 自分が自分でいられる、大切な場所。ひとつでもそんな〈居場所〉があれば、他のコミュニティで演じたり、耐えたりすることがどれだけ大変であっても、なんとか頑張ってやっていける活力たりえるはず。「帰る場所があるって幸せ」とは、よく言ったものですね……。

 「サードプレイス」と言うと、喫茶店や居酒屋、書店や図書館といった、「地域活動の拠点」としての意味合いが強い。けれどここでは、いざというときに逃げ込める「逃げ場」、自分が落ち着く場所という意味での第3の〈居場所〉について、考えてみようと思います。

 

いつでもすぐに逃げ込める、緊急避難先

 「居場所を作る」と言うと、それはほぼ「好ましい人間関係を作る」こととほぼ同義になるのではないかしら。

 別に仲良しである必要はないけれど、程良い距離感、程良い関係性を保ちつつ、お互いに心地の良い空間を作ることのできる人間関係。言葉にするとさっぱりしてるけど、実際に作ろうとするのは難しい。

 

 「じゃあオフ会でもやれば?」というのは、効果の見込める提案のひとつだと思う。共通の趣味や関心を持って集まった、性別も年齢もばらばらの、本来ならば出会うことのなかった関係性。

 経験上、中途半端に共通点が多いよりは、「一点だけ共有する何かがあって、それ以外は全く共通点がない」くらいのほうが、良い感じの距離感を保てるような気がする。踏み込みすぎず、踏み込ませすぎず。そのくらいの、ユルい関係性。同族嫌悪にならず、価値観が極端に異ならない程度。

 

 「お互いに親密にならないで、本当にそこが落ち着く〈居場所〉になるの?」という突っ込みも、ごもっとも。できることならば、それこそ親友とか兄弟とか言えるくらいの関係性になるのがベストなんだろうけれど、それには長い時間をかける必要がある。

 今、多くの人にとって必要な〈居場所〉は、日常生活における「緊急避難先」であって、それはいつでもすぐに機能することが求められるものだ。本当に仲の良い友人関係を作ろうとすれば、年単位で時間が必要となってくるだろうし、常にそこが助けてくれるとも限らない。

 いつでもすぐに逃げ込める緊急避難先とするのであれば、ほどほどのユルさを持った関係性があり、細く長く続いていくようなコミュニティであったほうが、うまく機能してくれるんじゃないかと思う。仲良く、濃密になりすぎた関係では、得てして問題が発生しがちだ。

 

繋がりやすく、切れやすい

 インターネットをはじめとする技術革新によって、あらゆるものが流動性を獲得した現代。誰かと出会おうと思えば、お互いにSNSで連絡を取り合うだけでちょちょいのちょいだし、そのなかには、一度どこかで顔を合わせただけ……なんて関係も珍しくはない。

 人が “出会い” やすくなったことは、同時に “別れ” やすくなったことも意味する。オフ会で会ってしばらくは仲良くやっていたけれど、なんでもないことで喧嘩に発展してしまったとか、男女関係で気まずくなったとか。そんなことで、いとも容易く関係性は途切れてしまう。

 

 でもだからと言って、「最近の若者は人間関係を大切にしない」という主張が正しいかというと、一概にそうとは言い切れない。

 人間関係すら流動的になってしまった現代社会においては、そもそもひとつひとつのコミュニティに積極的に関わり、傾注する時間が少なくなっているのではないかと思う。

 

 学校や職場に限らず、複数のサークルや部活動、ネットでの趣味の友人との付き合いにSNSでのやり取りと、自分と関わりのあるグループをたくさん持っている人は多い。さらにそこに、勉強や趣味に費やす自分の時間も含めれば、とんでもなく忙しい。これが、リア充か……。

 そのような環境下では、どこかのコミュニティで発生した問題について、長い時間と精神をすり減らして向き合うような時間も余裕も、確保するのは難しい。本当はどうかしたいと思っているけれど、それすら難しい……だから、関係の自然消滅が起こってしまう。

 

 加えて、たくさんの繋がりを持っているからといって、それらが〈居場所〉的な役割を果たしているかと言えば、それも怪しい。人間関係も、そこで挙げられる話題も、周囲の環境も目まぐるしく変化していくなかでは、「落ち着ける居場所」なんてものは生まれづらい。

 言うなれば、攻略サイトをまったく見ず、それぞれの選択肢を考慮検討しながら、複数のアドベンチャーゲームをプレイしているようなものだ。……そんなの、どっかの神にーさまでも無理ゲーでしょう。たぶん。

 ゆえに、流れ流され疲れきった多くの人たちにとって、固定化された絶対的な〈居場所〉というものは、非情に稀有な存在と言える。ユートピア、理想郷。

 

自分にとっての〈居場所〉作り

 そんな〈居場所〉を自ら作っていこうという試みが、最近よく目に入ってくる話題の中で言えば、伊藤洋志さんやphaさんの語る「フルサト」であり、家入一真さんの作る「リバ邸」のようなものなんだろう。

 

フルサトといっても必ずしも実家のこととは限らない。実家がフルサトであることは多いが、地縁血縁が濃い地元はいい面もあるが、同時にしがらみもあってやりにくいことも多い。それに一カ所に限らず拠点は複数あった方がセーフティーネットとしてもいい。

都会でのシェアハウスが「実際の家族よりゆるい家族」だとしたら、フルサトは「実際の故郷よりゆるい故郷」だ。困ったときに実際の家族や実際の故郷を頼れればいいけどそれができない場合もあるだろうし、いざというときに頼れる場所はできるだけ多いほうがいい。

 

 前者の「フルサト」は、過疎地の空き家を有効活用しつつ、都会の家と行き来できるセーフティーネットとしての〈居場所〉。後者の「リバ邸」は、 “現代の駆け込み寺” と言われているように、文字通りの「逃げ場所」として機能しているシェアハウスだ。

 いずれも紛れもない「住居」ではあるものの、そこで築かれている人間関係は、多くの人が求める「心地よさ」や「距離感」を持ったものであることが想像できる。

 

 純粋に、 “同じ空間を共有している” という一点でのみ繋がっている、ユルい関係性。もちろん同居していれば軋轢や問題もあるだろうけれど、それでもそこに住み続けているのであれば、それはなんだかんだで心地の良い〈居場所〉たり得ているのではないかしら。

 そんなユルい関係を外に探して、作り出すこと。そうすることによって、いざというときの「逃げ場」として確保し、精神的に押しつぶされないような余裕を持つことは大切だと思う。ひとつのコミュニティに固執し過ぎては、そこがなくなったとき、行く当てを見失ってしまいかねない。

 

 学生ならば、外部のサークルや習い事の友人。会社員ならば、趣味のコミュニティや飲み友達。そんな「ちょっとした関係性」は、普段はなんでもないひとつの付き合いに過ぎないけれど、いざ困ったときには助けとなってくれるかもしれない。

 親しい友人には深刻すぎて話せない問題や、自分の家族・友人関係について知っている人には伝えられない話など、ほどほどの距離感だからこそ、力となれるような場合がまったくないとは言い切れない。混みあった大きな問題が発生したとき、「親しさ」が邪魔になることだってある。

 

 「誰彼構わず親しくなるな」という話ではなく。仲良くなれるならなったほうが楽しいだろうし、より良い関係性を築くことにも繋がりうる。けれど、人によって適切な距離感はまったく異なってくるし、全員と対等に付き合うなんて不可能だ。

 集団ごと、個人ごとに固有の、別々の感覚を持っているのが当たり前なのだから、いろいろな種類の繋がりを持っておいても損はないと思う。

 そして、そのうちのひとつが自分の「逃げ場所」や〈居場所〉になるのなら、それに越したことはない。結びつきの強弱に関係なく、やはり、人間関係は大切なものだ。

 

 

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