こちらの記事を読みました。内容そのものは、ブログをそこそこ続けているブロガーさんにとっては、それこそ「常識」の範疇かと。
ただ、「あえて書くほどでもないと思う常識をブログ記事にしたほうがいい理由」という文言にビビッとくるところがあったので、少し膨らませて考えてみようと思います。
「普通」や「常識」を書いたブログ記事
「あえて書くほどでもないと思う常識をブログ記事にする」こと、その是非を問われれば、僕は「あり」だと思う。
冒頭の記事でも指摘されているように、「自分の中では常識で、あえて書く必要もないと思っていることが、意外にみんな知らなかったりする」ので。
ただ、そんな「当たり前」の内容を記事にすると、「何を今更」「何年前の話だよ」「い つ も の」なんて、わざわざ突っ込んでくる読者さんもいるわけで。
そんなコメントを見ていると、最初のうちは心が折れそうになる。でも同じように、「為になった」「あるある!」などの共感コメントもついてくるはず。
もちろん、記事を読んだ全員が言及してくれるわけではないので、実際はどちらの層が多いのかはわからない。けれど、ひとつでも共感のコメントがあるのなら、それは誰かにとって「意味のある記事」だと言えるのではないかしら。
だいたい、よほどの新しいトピックでなければ、誰かが語る「話題」なんてものは、すでに別の誰かが過去に語っているもののはず。
短期間で見れば、インターネットの歴史上で。長期間で見れば、人類史上で。あらゆる話題は、誰かにとっての「普通」や「常識」として、幾度となく論じられてきたのだから。
そもそも「普通」とか「常識」 ってなんぞ?
そもそも日常的に語られる「普通」や「常識」は、僕らが思っている以上に曖昧でふわふわとしたものだ。
先日、こんな記事を書きました。内容について一言で言えば……まあタイトルのとおりなんですが、ざっくりとまとめるとこんな感じ。
- 「普通」という言葉を使う時、その人の頭の中では、「大多数の人がそれを『普通』であると認識している」という前提がある
- 「普通」という言葉を頻繁に利用すると、語彙力が残念になる
- コミュニティによって、あらゆる「常識」は異なる可能性がある
- その場の「普通」や「常識」を知ることは、コミュニケーションを円滑にする
要するに、「『普通』って、実は曖昧だよね!」というお話。
冒頭の記事でもそれとなく触れられていますが、誰かが「普通」「常識」と考えているものは、それを受け取る人間・時間軸・場面によって、「普通」「常識」ではない場合がある。
たとえば、大人にとっての社会の「常識」は、子供にとってはそうではない。また、ひとつの国でもその地域によっては、文化・慣習などはまったく異なってくる。
誰かにとっての「普通」や「常識」は、他の誰かにとっても、そうであるとは限らない。ゆえに、自分が無価値だと考える「普通」を書き記すことが、どこかの誰かに価値をもたらす可能性だってあるはずだ。意外と曖昧な「常識」を形にすることは、価値ある作業と言えるのではないかと。
記事を書こうか、どうしようか
しかし他方では、以下のような指摘もあります。
『はてなブログ』をあれこれ読んでいて思うのは「誰にでも書けそうな内容でも、書かないより書いたほうがプラスになるはず」だと考えている人が多いな、ということ。「そんなのYahooニュースで読める」「また『ネタがない』ネタか……」と思われるのは「書くことのマイナス」の方が大きいのに。
— FUJIPON (@fujipon2) 2014, 3月 12
これもまた、仰るとおりだと思います。……こうして「書かないより書いたほうがいいんじゃね?」的な記事を書いておいて、なに言ってんだこいつとツッコまれそうですが。
けれど実際、ブログを読んでいて、「なんか無理して書いているような……」と感じることもたまにある。僕自身、自分の記事を読み直して「無理やり感」を覚えることはしばしばあるので。
たとえば、「ネタがないから、話題のトピックにとりあえず言及してみた記事」のように。普段から大量に投稿しているようなブログならば、有効な書き方なのかもしれないけれど。
しかし、そうじゃないブログ──特に、普段からそこそこの文量をもって考え方を記しているような人が急ごしらえの記事を書くと、「無理やり感」や「なんとなく感」が透けて見えてしまう。それを隠して補えるほどの文章力、個性があれば問題ないのでしょうが、なかなかそうもいかない。
そんなとき、記事を書くか否かの基準としては、何を意識すればいいのだろう。個人的には、以下の記事の意見に共感しました。
記事を公開する前に「ああこれあんまり人気でないかな、でも俺が書きたい事だから良いや」って出したりもするんですが、やっぱり自分が楽しみながら書いた記事ってのは人に受け入れられやすい気がします。
(ブログは楽しんで書こうぜ!って話…書いてる側のどす黒い思惑は読者にも伝わるんじゃないかなぁ? | Web論)
基本的と言えば基本的なことだけど、「楽しんで書けるか」「ノリノリで書けるか」という点。
これだけ見ると、感情的で曖昧な意見と取られるかもしれない。「ブログの書き方」をまとめた書籍や記事でも、結構な頻度で見受けられる考え方。当時は胡散臭いとも感じていたけれど、実際にブログを始めてみたら、まったくそのとおりでびっくりした。
中途半端な知識で話題に乗っかるよりも、その日の出来事を淡々と語るよりも、自分の好きなこと、興味関心の強い分野について書いた記事。そのほうが多くの人に読んでもらえやすいし、言及される可能性も圧倒的に高い。
僕がよく「好き勝手に書いてまぁす☆」なんて言っているのも、変に打算的になって迷走したくないがため。……割とよく迷走しますが。
なので、記事を書くかどうしようか悩んだときに、「楽しんで書けるか」をひとつの基準にするのは悪くないと思う。同様に「普通」や「常識」について書くにあたっても、「ノリノリで書けるかどうか」を念頭に置いて書き始めてみると良いのではないかしら。
「普通・常識」+「付加価値」=「オリジナルコンテンツ」
とは言え、自分の考える「普通」や「常識」が本当に「当たり前」のことであり、オリジナリティのない記事になってしまうことだってあるかもしれない。──そういえば、イケダハヤトさんも「オリジナリティがなきゃダメ!」と仰っていましたね。
アクセスも収益も上がらない、「ダメなブログ」は、多くの場合、「代替可能性」に根本的な問題を抱えています。コンテンツとしてのオリジナリティ、創造性が欠如している記事というのは、そのブログを読んでいる人も、書いている人も「面白くない」のです。
(「ダメなブログ」に共通する、たったひとつのこと : イケハヤ書店)
先ほどもちょろっと触れましたが個性的な文章を書ける人であれば、何も悩むことはないのでしょう。「普通」のこともノリノリで書くことができて、それでいてオリジナリティが感じられる記事としてまとめることができるはず。
でもおそらく大多数の人は、「ノリノリに書いたところで、ありきたりな文章になっちゃうから……」と感じているのではないかとも。ただ、「文体・語彙=オリジナリティ」というわけでもなく、別の要素でもって個性を出すことだってできると思うんですよね。
自分で撮った写真を文中にたくさん挿入するとか、イラストを加えるとか、視点を変えて書くとか、ほかの事象と比較するとか。広い意味でのプラス要素──付加価値を添えることで、他者との差別化を図ることは充分にできるのではないかと思う。
僕なんかは自己主張大好き人間なので、徹底的に「自分語り」をした記事を投稿することがよくあります。主観的過ぎてドン引きされることもあるけれど、そんな記事が割と読まれることもあるので。手前味噌になりますが、具体例をば。
たとえば、こちらの記事。今や誰にとっても当たり前で「普通」に使っているインターネットについて、徹頭徹尾を主観的かつ好き勝手に語った内容。
ただ、そこに「平成生まれ」という要素を前面に出して加えたことで、同世代からは「あるある!」という共感、他世代からは「ねーよww」「全然違う……」というツッコミをいただくことができました。これも一種の “付加価値” かと。
最近のだと、入浴にまつわる「常識」を問うたこの記事とか。自分にとっての「常識」を示しつつ、他のサイトの記事やデータを付加要素をして引用しました。「風呂」という生活に身近なネタであることも手伝ってか、結構なツッコミをいただけた模様。
以上のように、たとえそれが「普通」で「常識」的なものだとしても、考え方や書き方によっては、誰かにとっての「価値ある記事」となりうる可能性はあると思うのです。
なので、あえて書くほどのない「常識」でも、自分自身がそれを楽しんで書けるのなら、ばんばん記事にしちゃっても良いんじゃないかしら。ウェブメディアとして運営していくならともかく、そもそも「ブログ」って、そういう自由なものだと思いますしね。