「この作品、『普通』におもしろかったよー!」
↓
『普通』ってどのくらい?
「え?目玉焼きにはマヨネーズが『普通』でしょ?」
↓
それは、マヨラー界隈での『普通』では?
「仕事の進め方がわからない?『常識』で考えろよ」
↓
その『常識』を説明してほしいんですが……。
汎用性が高く、日常生活でもよく使われる言葉である、「普通」と「常識」。友達との会話で、学校の授業で、会社の仕事の中で。これらの表現は、驚くほどに “普通に” 使われている。
聞けば意味は伝わるし、当たり前に使っている言葉なので、別に問題視する必要はないのかもしれない。けれど、これらの言葉を説得や議論の場で使うのは、ちょっと危ないようにも思うのです。
本記事では、一種のマジックワード*1でもあるこれらの言葉について、その意味と使われ方を整理。そのうえで、自分なりに考えたことをまとめてみました。
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「普通」とはなんぞや
低学年の小学生でも知っている、非常にありふれた言葉、「普通」。日常的に耳にし、 “普通に” 使われている言葉です。その意味を辞書で調べてみると、次のように記されていました。
一 ( 名 ・形動 )
①いつでもどこにでもあって,めずらしくない・こと(さま)。
②ほかとくらべて特に変わらない・こと(さま)。
③特別ではなく,一般的である・こと(さま)。二 ( 副 )
①その事柄が多くの事例にあてはまるさま。一般に。
(普通 とは - コトバンク)
②いつもではないが,ほとんどそうであるさま。たいてい。
──うん、「普通」ですね。
考えていたとおりの意味であり、異論はありません。
でもたとえば、街中を歩いている100人に対して、この「普通」の意味を見せたとしましょう。もしかしたらその中には、「いや、それは違うよ!」と主張する人がいるかもしれません。
その場合、異論を唱えた人にとっての「普通」は「普通」ではなく、彼にとっての「普通」とは、また別の意味合いを持つ「普通」だということになります。……って、何を言っているのかよくわかりませんね、はい。
ある人が「普通」という言葉を使うとき、その人の頭の中では「大多数の人がそれを『普通』であると認識している」という前提があることになります。冒頭の例で言えば、「目玉焼きにマヨネーズは『普通』」という人の周囲では、それが多数派として存在している*2ことになる。ややこしいですね。
しかし、その認識が正しいかどうかは、実際に調査をしてみないとわかりません。自分はそれが「普通」だと思っていたけれど、実際のところは、みんながみんな異なる認識を持っていた──なんてこともあるかもしれません。そう、マヨネーズ派が正義とは限らない。しょうゆも、ソースも、あるんだよ。
「『普通』におもしろい」
「普通におもしろい」
「普通においしい」
「普通に楽しい」
このように、「普通」という言葉は何かの感想に付随することもあります。日常的に耳にする「普通」という言葉の中でも、その曖昧さが際立って表れている表現なのではないかしら。──最近は気をつけるようになったけど、僕も学生時代に使っていました。「普通」に。
この「普通」が使われる文脈における意味としては、「取り乱して叫び出すくらいにおもしろかったわけじゃないけど、つまらなくはなかったよー! 程々におもしろかった!」くらいの意味かと。「ま、いいんじゃないっすか?」くらいの、軽い感覚ですね。
実際、これでも意味は通じるし頻繁に耳にする言い回しなので、とやかく言う必要もないのかもしれません。でも、あまりに何でもかんでもふつーふつー言い過ぎると、語彙力が落ちていく一方なのではないでしょうか。
事実、当時の僕は酷かった。本や映画、アニメなど、作品の感想をよくTwitterに投稿していたのだけれど……そのボキャブラリーの貧相さといったら、もうね……。
Twitterで頻繁に呟く単語を抽出してくれるツールで調べてみたところら「すげえ」「やべえ」「ぱねえ」「普通」の頻出度がやばかった……じゃない、圧倒的に高かった。さすがにこれは、よろしくないでしょう……。
そんなわけで、「普通」という言葉をあまりに頻繁に利用すると、語彙力が残念になりかねないわけです。お気をつけください。
「『常識』的に考えて」
また、「常識」という言葉も「普通」と似た意味合いを持っており、同じくらい当たり前に使われています。辞書で確認してみたところ、次のように説明されていました。
ある社会で,人々の間に広く承認され,当然もっているはずの知識や判断力。
(常識 とは - コトバンク)
厳密には「普通」とは意味が異なる印象も受けますが、個々の単語の本質にまで突っ込むと話が脱線するので──本記事では、「だいたい同じ」であると認識していただけますと幸いです。
ここで問題となるのは、辞書の説明文にある「ある社会」という表現。
たとえば、日本社会とアメリカ社会はどうでしょう。国家間で言語や文化、慣習が異なるのは当然ですが、もっと小さな単位で考えてみるとどうなるか。そう、地域社会、会社や学校、さらには家族間ですら、そのコミュニティごとに異なる「常識」を持っている可能性があるわけです。
ゆえに冒頭のマヨネーズの例を出すと、人によって持っている「常識」が異なっているのは……そりゃあ当然ですよね。
父ちゃんも母ちゃんもじっちゃんもばっちゃんも兄ちゃんも妹もポチもタマも、全員が「目玉焼きにはマヨネーズ!」と断言する家庭にとって、それは紛れもない「常識」なのでしょう。しかし、学校のクラスではしょうゆ派が大勢を占めているかもしれないし、職場ではソース派が幅を利かせているかもしれない。はたまた、タバスコ至上主義の地域があったっておかしくはないのです。
だからこそ、あらゆる「常識」は個々のコミュニティによって異なるという大前提は、常に意識しておく必要があるように思います。
「それはおかしいだろ、常識的に考えて……」と言ったところで、「それってどこの常識?」と複数人に突っ込まれれば、反論の余地はありません。そのコミュニティの「常識」を受け入れるか、「常識破り」に挑戦するか。いずれにせよ、「自分の世界の『常識』が絶対である」という思い込みは危険です。
そういえば、最近は「常考」「JK」という表現もあまり見かけなくなりましたね……*3。
「普通」や「常識」を押し付けず、うまく付き合う
このように、「普通」や「常識」といった言葉はマジョリティが使う強い言葉であるように見えて、実のところは非常に曖昧なものです。
実際にそれがメジャーであることを示すには、そのコミュニティ内で調査をし、信頼できるデータを明らかにしなければなりません。そうして初めて、「ほーら、やっぱり『普通』じゃないか」と断言できる。……もちろん、そんなことをいちいちやる人はいないでしょうが。
もしかしたら「普通」や「常識」という言葉を乱用する人も、それが曖昧だとなんとなく自分でもわかっているから、自然と口調が強くなるのかもしれませんね。
でもだからと言って、「これが普通なんだよ! だから従え!」と押し付けるのはよくありません。説得しようとするのなら、「多くの人がこうしているから、そのほうがやりやすいと思うよー」くらいの軽さで言ったほうが、相手も納得できるのではないかしら。反対意見が出たら、改めてその妥当性を説明すればいい。
その一方で、あるコミュニティで共有されている「普通」や「常識」を知ることは、なんだかんだで大切です。集団内でうまく立ち回るにあたっては、そのコミュニティにおける共通言語を知ることによって動きやすくなる部分もあるはずなので。
かの有名なアインシュタイン先生は、こんなことを仰ったそうな。
Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.
──常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことである
人間誰しも、育ってきた環境も培ってきた経験もばらばらなのだから、価値観が異なるのは当たり前。それらがぶつかった時、自分のコレクションを押し付け、相手を自分の「常識」に取り込もうとするのではなく、お互いに見せ合い、それがどのようなものか知ろうとすること。
それこそが、「相互理解」と呼ばれるものなのではないでしょうか。
ちなみに、僕は、塩派です。