人が変わるのは、どんなとき?


 変わろうとして変わることもあれば、変われないこともある。

 変わりたくないと念じても、気付けば変えられている。

 昔と今の自分を比較して、変わったことに気付かされることもある。

 変わっているのか、いないのか、それすら、自分では分からないこともある。

 

 人が変わるのは、どんなとき?

 

人を動かす「感動」

 例えば、映画を観て、心を動かされたとき。

 別に映画じゃなくてもいい。劇でも、ドラマでも、アニメでも、漫画でも、小説でも。何らかの物語作品に触れた折、僕らはたびたび、心をふるわされ、感動する。

 大泣きするほどに感受性の高い人もいれば、表情には出さず、静かに打ち震えるような人もいる。いずれにせよ、少なからず「感動」をもたらされた人間は、それを何らかの行動に移さずにはいられない。

 小さなことで言えば、その場にいた友達と感想を語り合うとか、ブログなどネット上に想いを書き連ねるとか。もちろん、その場で感動するだけ感動しておしまい、という人がいてもおかしくはない。

 他方では、強く影響を受けて、何か活動を始めたり、生活を変えてみたり、「夢」として挑戦しようとする人もいる。もたらされた「感動」が大きければ大きいほど、その人を動かす力も大きくなる。ただ、それが持続するかは、その人次第。

 

日常生活の積み重ね

 もしくは、気付かないうちに変わっているパターン。

 人間社会に生きる以上、僕らは日常生活において、他人と関わる機会を持っている。その人数や頻度、関係の濃さなどに違いはあれど、山奥やジャングルなど、人里離れた土地に居を構えない限り、他人と関わらずにはいられない。

 そうして人間関係を育み、積み重ねる中で、僕らは無意識に互いに影響し合っている。身近なものだと、方言やスラングといった言葉遣い。お互いの趣味嗜好、モノの見方。ほとんど意識することはないが、人と関わる中で、自然と誰かに影響を与え、また与えられている。

 意識的に変化を生み出している場合もある。尊敬する人の話し方を真似してみたり、お笑い芸人のネタを使ってみたり、好きな作品のキャラクターを演じてみたり。

 自分の外の行為を繰り返し真似することによって、それが自らの仕草や嗜好に影響を及ぼすことは否定できない。獣が親の真似をして狩りを覚え、絵描きが模写によって技法を学ぶように。それら反復作業は外のものを自分の内に取り込み、自らを変化させる。

 

全てを変える大きな出来事

 自分ではどうしようもない、予期せぬ大きな出来事。

 それまでの価値観を覆すような、とてつもない衝撃を持った、強烈な体験。

 そんな出来事に直面したとき、人は変わらずにはいられない。それが、実生活を変えるようなものなら、尚更だ。意図せず訪れた「非日常」は、既存の価値観も何もかもをぶっ壊して、僕らに選択を迫る。変化を受け入れるか、受け入れずに立ち向かうか。

 多くの場合、一度変えられてしまったものは、元通りになることはない。元のものに限りなく近い状態には戻せるかもしれないが、それを経験した「人」の存在がある以上、全てがそっくりそのまま、とはいかない。

 変化は、既にもたらされてしまっている。望む望まないとは関係なく。身をもって経験し、「変化」を刷り込まれてしまった記憶は、消すことはできない。たとえ、それを経験した自分の記憶が消えたとしても、周囲の人間がそれを知っていれば、意味のないことだ。

 変わらないことは、難しい。

 

変わる自分と、変わらないもの

 人は、変わってしまうもの。変えられてしまうもの。ならば、変化してしまった自分は、どうすればいいのだろう。

 その先の選択は、自分次第。

 自分を変えたものが、感動でも、悲しみでも、絶望でも、何であっても、変わった自分を受け入れて、その次にどうするかを考えるのも、また自分。変化を受け入れつつも、それまで通りに暮らすのも良い。変化と向き合い、新しいことを始めても良い。

 変わってしまった自分をさらに変えようとするのなら、まずはその「変化」を知ることが先決だ。自分の中で何が変わり、何が変わっていないのか。軸となる部分を再確認しつつ、もたらされた変化を汲み取る作業。それにより、やりたいこと、できること、やるべきことなどが見えてくる。

 

 人は、変わらずにはいられない。その変化を意識し、時に見直し、改めつつ、いけるところまでいくのが、ひとつの生き方。

 そして、変わるものもあれば、変わらないものもある。変化を続けることこそが進歩を生み出す一方で、それにおいても変わらないものは、自らを成す、重要な芯となる。自分にとって、不変のもの。

 変わらずにはいられない僕らにとって、それこそが、何よりも大切なものなのかもしれない。

 

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