「推し活」は消費じゃなくて表現?『推しエコノミー』がおもしろい


 「推し」の存在は、人生を豊かにしてくれる。

 アイドル、俳優、アーティスト、YouTuber、VTuber、アニメ、マンガ、映画、小説、食品、絵画、歴史人物。「推す」対象はなんでもOKだ。他人に強く薦めたいほどの熱意をいだき、夢中になって何かを「推す」行為は、その人の日常を彩り豊かにしてくれる。

 もともとはアイドルや俳優を指して使われていた「推し」という言葉が、幅広い対象に向けて使われている昨今。この現状は、「推す」という表現の普遍性を物語っているようにも思われる。もちろん流行り言葉の一種ではあるし、「応援する」「特に好きな対象」と言い換えることもできるだろう。

 とはいえ、「応援」あるいは「好き」の言葉だけでは表現しきれないほどの熱と感情が、「推し」の一言には間違いなく内包されている。それでいて、2000年代によく見かけた「萌え」や「俺の嫁」といった表現ともまた違う、独特な感覚が「推し」には含まれているようにも思われる。

 これはいったい、なんだろう。

 

「萌え」という内的体験から、「推し」という外的体験へ

 中山淳雄@atsuonakayamaさんの著書『推しエコノミー』を読んだ。

 デカデカと「推し」の文字が踊る表紙だが、本書はいわゆる「推しカルチャー」の解説書ではない。筆者の前著である『オタク経済圏創世記』に連なる、「エンタメ経済圏」や「コンテンツビジネス」に焦点を合わせて分析・考察を加えていく内容となっている。

 そもそも「推し」という表現はどのように使われており、また「推し活」とはどのような嗜好を指す活動なのだろか。冒頭で「萌え」という言葉についてもふれたが*1、本書の第2章では「萌え」と「推し」の違いをずばり説明してくれている。

「萌え」から「推し」という変化は単なる言葉遊びではない。これは確実に、対象(キャラやその作品の世界観)に対する人々の態度や価値観が如実に変化している事例である。「萌え」のように対象への内的な感情で対する姿勢ではなくなり、「推し」としてキャラ・タレントに活動として何かを与える、一緒に何かをしていくことを重視するようになっている。宝塚やジャニーズファンが昔からやっていたような行為を、男性ファンもまた乃木坂46やNiziUに対して行うようになっていく。

(中山淳雄『推しエコノミー』Kindle版 位置No.969より)

 筆者によれば、「推し」の概念はユーザーの行動特性すら変えてしまったのだそうだ。消費者は今や、店頭に陳列された商品や大々的な広告によって認知されたサービスを、従来のように購入して「消費」するだけにとどまらない。現代のユーザーは「消費者」ではなくある種の「表現者」として、コンテンツを取捨選択するようになっているのだという。

 たとえば、ゲーム。

 改めて説明するまでもなく、現代のゲームは「遊ぶ」だけのコンテンツではない。「視聴する」「語り合う」「表現する」といった、ゲームプレイを二次利用したサービスが展開されている。ここでは「推し」という言葉では表現されていないが、これもひとつの「関与」の形。ゲーム実況をしない人であっても、ネット上で語り合うことで「表現」が行われている。仲間内での雑談とは異なり、開かれたSNSにおいては一個人の感想が第三者からも参照可能であるため、大勢のプレイヤーが自ずと「関与」してしまっている。

 あるいは、映画。

 社会現象にもなった『鬼滅の刃』の劇場版にせよ、興行成績が近年振るっている『名探偵コナン』にせよ、シリーズ集大成にして完結編である『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にせよ、大ヒットの裏側には「推し」の力学が働いていたと、筆者は分析している。これらの作品では、「テレビや新聞で大々的に広告を打ってどーん!」あるいは「芸能人や人気タレントを作中に起用して集客!」といった従来型の方法ではなく、ファンに「関与」させる施策を講じたことが大ヒットの一因となっているのだそうだ。

「萌え」という内的体験ではなく、「推し」という外的体験に、人々の趣味活動はソーシャル化している。消費ではなく表現なのである。

 つまるところ、現代のユーザーにとっての趣味嗜好は、「消費財」ではなく「表現財」なのだ。買って、消費して、終わり……ではなく、ユーザー各々が「関与」する対象となっている。「推し」とは、「私が好きなこの人や作品に“関与”します!」というスタンスの表明と言えるだろう。

 ところで、旧来のオタクほど「推し」という言葉に違和感を覚えがちな印象があるが、その理由も、この解説を参照することで説明できるように感じた。ただ消費して終わりではなく、何らかの形で自身も「関与」し応援する――。それは、以前からオタクとしてコンテンツと接してきた人にとっては、当たり前の、息をするようにして続けてきた行為なのでは……?

 わざわざ「推す」という言葉で置き換えるまでもない、至極当然のオタク・ライフ・スタイル。だからこそ、それが「新しい消費形態」として受容されている現状に、なんとなく引っかかりを感じてしまっている……のかもしれない。

コンテンツ業界に携わっている人向けの「教科書」

 この第2章では他にも、「『萌え』から『推し』へとファンの心理が変わったのは、『幸せへの道』が変わったから」であるとして、恋愛観や結婚観の観点などからもコンテンツ受容の変化について紐解いている。

 昭和の時代の「幸せな人生設計」も、異性との交際にお金をかけてなんぼな80〜90年代の恋愛観も、いずれも一部の世代の価値観に過ぎない。今は恋愛・性愛・結婚・出産が地続きとは限らず、分断されてしまっている。価値観も選択肢も豊富な時代であり、おひとり様でも幸せでいられる。そんな現代においては、しがらみなく人々の感情のスキマに入ってくれる無色透明の「推し」の存在こそが、日々を生きる活力になってくれているのだという。

 以上のようなユーザー心理についての解説があり、それだけでも興味深く読めた本書。しかし実のところ、本筋はそれ以外の章にある。

 従来の「製作委員会」方式とは別の選択肢が生まれつつあるアニメ業界や、凋落しつつある一方で絶対的な優位性を持ち続けているテレビ業界。バトルロワイヤルゲームや『ウマ娘』といったトレンドの分析に、世界を舞台にして繰り広げられる、米中のサブカル領域における覇権競争。そして、欧米と日本とで明確に異なる「キャラクター」の概念と、日本ならではの強みなどなど。

 「推し」がどうの、というのは本書の一側面に過ぎず、全体を通して論じられているのは「エンタメ経済圏」の話だ。近年のトレンドのみならず、これまでのテレビ業界や映画業界の変遷についての説明もある。特に後者については自分が知らないことばかりで、おもしろく読み進めることができた。

 全体としては、「エンタメ経済圏の現状を俯瞰して紐解いていく本」あるいは「実際のデータと個々の具体例も取り上げつつ、現代のコンテンツビジネスの全容を捉えようとする本」であり、コンテンツ業界に携わっている人向けの「教科書」として機能してくれそうな印象を受けた*2。現状を把握しつつ、今後の展望を考えるうえでの手助けとなってくれることだろう。

 一方では、自分のようなユーザー目線でも、思いのほか得るものが多い1冊だった。自分がハマっているコンテンツがどのように作られているのか、業界全体の仕組みも含めて改めて整理することができたし、カジュアルに使っていた「推し」という言葉の解像度も上がったように思う。筆者が「語り切れなかった」と書いているVTuberコンテンツに関しても、キャラクターについて論じた第4章を下地にしてあれこれ検討できそうだ。

 特定の業界に寄らず、広い視野で現代のエンタメコンテンツを捉え直してくれる『推しエコノミー』。まさに今、何かを推している自分のような人間はもちろん、ネットを舞台に個人で活動するクリエイター層にもおすすめしたい。きっと、セルフプロデュースの参考になるはずだ。

 

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*1:この言葉、めっちゃ久々に使った気がしますね……。

*2:と思ったら、佐渡島庸平さんがまさに「教科書」であるという旨の帯コメントを寄せていらっしゃった。