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「罪なき者のみ石を投げよ」は詭弁? ロジカルシンキングを疑う『論より詭弁』がおもしろい


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 『論より詭弁』という本を読んだ。

 ロジカルシンキングを扱う本が数多く書店に並んでいる現代において、このタイトルは否が応でも目に入った。序章のタイトルからして「論理的思考批判」であり、「論理なんぞ知ったこっちゃない」と言わんばかりの言葉が並ぶ本書の第一印象は、あまりにも鮮烈だった。

議論に世の中を変える力などありはしない。もし本当に何かを変えたいのなら、議論などせずに、裏の根回しで数工作でもした方がよほど確実であろう。実際に、本物のリアリストは、皆そうしている。世の中は、結局は数の多い方が勝つのである。

(香西秀信著『論より詭弁』Kindle版 位置No.53より)

 「あまりにもぶっちゃけすぎでは!?」と驚いてしまうものの、だからといって「論理」を完全に蔑ろにしているわけではない。それどころか、筆者自身は論理的思考の研究と教育に携わってきた立場にある。

 『論より詭弁』では、そんな筆者が論理学と修辞学の視点から「議論」を批判し、一般的には「詭弁」と呼ばれ否定されがちな論法について分析と考察を加えていく。おなじみの「ロジカルシンキング」を別の視点から捉え直す内容となっており、とても興味深く読めました。

「罪なき者のみ石を投げよ」は、論点のすり替え?

 本書のメイントピックのひとつとして扱われているのが、「人に訴える議論」という詭弁だ。これは「相手の議論にではなく、相手そのものに対して関係のない攻撃を仕掛ける」論法を指す。筆者によれば、これこそが「論理的思考最大の急所」であるらしい。

 本文では「人に訴える議論」の典型的な例として、あまりにも有名すぎる次の一節が挙げられている。

あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。

 元も子もないことを言ってしまえば、これは「論点のすり替え」に他ならない。なぜなら、「女が罪を犯したこと」と「石を投げようとする人々が別の罪を犯していること」は、直接的には関係がないからだ。たとえ周囲の人間に問題があったとしても、それが女の罪を非難してはいけない理由にはならない。

 このように批判者の問題を指摘する「人に訴える議論」の論法は、一見すると詭弁以外の何物でもない。論理的な話し合いにおいて大切なのは、言うまでもなく「議論の内容」である。発話者の背景や属性など、本題とは関係のない論点を持ち出して相手を批判するのは、検討するべき「論」を「人」にすり替えた盤外戦術のようにも感じられる。

「人」と「論」とを完全に切り離すことはできない

 しかし言うまでもなく、盤外戦術も「戦術」である。それに、先の「罪なき者のみ石を投げよ」の話についても、「ほーら、イエスですら詭弁を使ってるじゃないか」と批判するために取り上げているわけではない。それどころか筆者は、続けて次のように書いている。

しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティヴな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である。

(同著Kindle版 位置No.1,233より)

 「罪なき者のみ石を投げよ」の例は極端すぎるかもしれないが、批判者の発言と行為に矛盾があるのなら、批判者には、首尾一貫していない自身の態度について先に弁明する責任がある。さもなくば、その発言に説得力は生まれ得ない。「煙草は体に悪いからやめるべき」と声高に叫んだところで、批判者自身がヘビースモーカーだと知れてしまえば、周囲の人はあまり真剣に話を聞こうとは思わないだろう。

 もしかしたら、批判者は次のように話すことによって、ヘビースモーカーである自身と論点とを切り離そうとするかもしれない。「煙草は体に悪いと知っているが、やめられない」「自分は好きだから吸っているが、体に悪いのは事実である」と。──なるほど、たしかにそうかもしれない。しかし実は、この弁明こそが、彼の「論」の正当性を揺らがせるものとなってしまっている。

彼が煙草をやめないのは、ヘビースモーカーでも、特に健康を損なうことなく長生きした例をいくらでも知っているからである。つまり彼は、「煙草は体に悪い」とそれほど深刻に思ってなどいない。これは要するに、彼の行為と発言内容の真偽は「何の関係もない」どころか、大いに関係があるということではないか。われわれは彼の行為から、「煙草は体に悪い」という発言の真偽を――命題としての真偽ではなく、彼自身の言表としての真偽を――部分的に論証することができる。

(同著Kindle版 位置No.1,349より)

 つまるところ、「『誰が言ったか』よりも、『何を言ったか』を重視するべきだ」と主張したところで、「人」と「論」とを完全に切り離すことはできないのだ。中には「自分は切り分けて考えられる」という人もいるかもしれないが、議論は複数人が参加するものである。参加者と聴衆の全員がその前提を共有しながら話し合うのは、現実的には難しい。

 そもそも現代社会における「話し合い」の多くは、各々の背景も考慮して行われている。

 国際会議の出席者は「国」を代表して来ているし、企業間の打ち合わせでも「社」の肩書きを背負って話し合いに臨んでいる。議論では、詭弁じみた “すり替え” によって批判を受けることもあるかもしれないが、逆に過去の実績や周囲の心証によって論点を “移行” させれば、説得力を高めることも可能だ。

 議論によって物事を決定する際には、自国や自社の思惑は言うまでもなく、相手の事情や背景、さらには周囲の反応をも考慮する必要があり、それらを無視して話し合うことはできない。その中で、論点のすり替え──もとい「論点の移行」によって相手の主張の正当性を確認するのは、議論においては妥当な行為だと言えるだろう。

言葉で何かを表現することは詭弁である

 とはいえ、そのような「人に訴える議論」を詭弁(虚偽)と判断するか否かは、研究者によっても意見が分かれるらしい。虚偽研究の世界的権威ですら「その議論が用いられる対話の文脈によって決まる」と結論づけており、筆者は拍子抜けしたように「空しい結論」と記している。

 最終的にはケースバイケースで考えることになるとはいえ、本書で解説されている「詭弁」の論法は日常的に見聞きするものも多く、最初から最後まで興味深く読むことができた。この手の本は『レトリック感覚』くらいしか読んだことがなかったけれど、他にももっと手を出してみたくなるほど。

 ところで、この『論より詭弁』を読みながらずっと頭の片隅にあったのは、Twitterのいわゆる「クソリプ」の存在だった。いや、クソリプに限らず、それまでは「この人の考え方、すっごく論理的だ……!」と共感していたツイートですら、「詭弁」的な要素を多分にはらんでいたことに、本書を読んで気づかされた。

 第1章のタイトルからして「言葉で何かを表現することは詭弁である」と断言する本書は、普通ならば「論理的」だと判断されそうな主張すらもその正当性を疑い、新しい視点を授けてくれる1冊として、なかなかに有意義な本だと思う。おなじみの「ロジカルシンキング」に食傷気味な人は、ぜひ手に取って読んでみてください。

 

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