誰もが当たり前に使っているのに、実はすっごい曖昧なもの。
定義がしっかりしているようでいて、実は簡単に変化する適当なもの。
そして言うまでもなく、魅力的でおもしろいもの。そんな「ことば」の多様性と再会できる1冊、佐藤信夫著『レトリック感覚』を読みました。
振り返ってみればここ数年、「言葉の使い方」や「文章の書き方」を紐解いた本を何冊も読んできた自分。でも、そんななかでスルーしていたのが、この「レトリック」でした。
……だって、これ、なんとなく小難しいイメージがありません? なんだか、文芸部に所属する理屈系文系男子が、眼鏡をクイッと上げながら説明してくれそうな感じ。基本的な作文技法や論文の書き方とは異なる範疇にある、専門的な言語表現という印象が強かったんですよね。
それこそ、「小説家志望の人や文章を生業とする人が学ぶ技術」のような。自分には無縁の分野であると考えて、これまではスルーしてしていた格好です。しかし最近、普段から読んでいる書評ブログで、しかも複数の人がおすすめしているのが目に入り、気になって読んでみることにしたのでした。
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知らないようで意外と知っている、「レトリック」とは
正直に言って、当初はあまり乗り気ではなかった。
きっと小難しい話に翻弄され、「専門的すぎてつらたん……たしかにおもしろいけど、理解に時間がかかるお……」などと、あっぷあっぷ藻掻きながら読むことになるのだと。そんなタイプの本だと思っていたので。
ところがどっこい。
そんな想像は的外れで、印象としてはむしろ逆だった。
途中、特に躓くことなく読み進められるのはもちろん、「それ知ってる! 聞いたことある! ……というか普通に使っていたこの表現、そんな名前があったの!?」と、既知の事柄に形を与えられるような実感があった。
決して専門的で難解な内容ということはなく、過去の言説や古典の実例を元に、読みながら自然と学びを得られるタイプの本。読み終えた瞬間、自分の中の「ことば」のソフトウェアがアップデートされたように感じられた。これはいいものだ……!
たとえば、以下の言葉や文章には、どのような共通点があるだろうか。
- 赤ずきんちゃん
- 私は今、漱石を読んでいる
- 「今夜、飲みに行かない?」「わかった、でもこの前みたいに財布忘れんなよ!」
正解は、本文に書かれている表現を借りれば、「ある事物について、それと関係の深い別の事物で言い表している」こと。
「赤ずきん」は赤いかぶり物を指すが、「赤ずきんちゃん」と聞けば、童話に登場する女の子を思い浮かべる人が多いはず。言わずもがな「漱石」は人名であり、ここで読む対象は当然ながら人間ではなく、「書物」を指している。「財布」も重要なのはそれ自体ではなく、その中に入っている「金銭」であるということが、意識せずとも読み取れる。
ふたつの物事について、その隣接性に基づいて言い換える比喩表現──これを【換喩(メトニミー)】と呼び、本書では第3章で詳しく説明している。この単語を見て、「そういえば、高校の現国で習った!」と思い出した人もいるのではないかしら。かくいう僕も、読むまですっかり忘れてました。
そう、本書が扱う「レトリック」とは、つまるところ「比喩表現」のこと。過去に国語の授業で登場し、「『~のようだ』と付くのが直喩であり、それがなければ隠喩である」などとふんわりした説明を聞いて学んだ人も多いだろう、アレです。
そのように、知識としては知っている「比喩」。
でもぶっちゃけ、まわりくどい印象がつきまとっていたことも否めない。
「~のようだ」を付けたり付けなかったりすることに、意味はあるの? 若干のニュアンスの違いがあるにしても、それがあろうがなかろうが相手に伝わるのなら、直喩と隠喩を使い分ける必要はないのでは? ってかそもそも、そんなまだるっこしい言い方を考えるの、面倒じゃない──?
そんな「比喩」の疑問にまるっと答えてくれるのが、この『レトリック感覚』なのです。
わざわざ「レトリック」を用いる意味って?
わたしたちは事物を見るとき、自分の感覚に忠実に見ているだろうか。例えば、赤い色を見るとき、わたしたちは「赤だ」と感じる。しかし、それはわたしたちが今までに見て来た「赤」という言葉を通して、その色を見たにすぎない。もしわたしたちがもっとよく見つめるならば、その色は、今までに見た「赤」とはどこか違うはずである。光の反射具合、色の濃淡、質感など、少しずつ違っている。それらの違いを捨ててその色を「赤」というとき、言葉はわたしたちの感覚を規制する力を持つのである。
(『高校生のための文章読本』P.388より)
何年か前のこと。
物書きのプロを志す知人が、「難しい言葉とか、細かい説明とか、もったいぶった表現って、正直に言っていらないよね!」と声高に叫んでいた。おいしいものにはおいしいと、楽しいことには楽しいと、おもしろいものにはおもしろいと書けば、それで十分なんじゃないかと。
この主張は、部分的には間違っていないように思う。自分の気持ちに嘘をつかず、素直に感情を表現するのは、当たり前だけれど、きっと大切なことだから。
おいしいものにおいしいと、楽しいことに楽しいと書くのは、別に何もおかしなことではない。「芳醇にして脆美な赤身は無上の佳味にして……」などと小難しい表現を使うより、ただ一言「うめえ!」と大文字で書いたほうが、「あ、この料理はおいしいんだな」と多くの人に伝わるはずだ。
そんなことを鑑みると、レトリックの意義を検討するにあたっては、まず次のような疑問が思い浮かぶ。「そのまま普通に書けば伝わることを、わざわざ【比喩】を使って言い換える必要があるのだろうか──?」と。
僕らが日常的に使っている「ことば」は、その多くが、国語辞典に載っている一般的な表現だと言える。長い年月のなかで形づくられ、人々のあいだで共有されてきた、標準的なものの見方。味の良さを「おいしい」と、明るい気持ちを「楽しい」と表現するのは当然で、その意味をいちいち説明する必要はない。
それが標準化された一般的な表現である以上、口にした言葉のニュアンスは、ほぼ確実に相手に伝わると言っていい。おいしいと言えばおいしいと、楽しいと言えば楽しいと、臭いと言えば臭いという認識が、自分と相手とのあいだで共有される。そこに比喩が登場する余地はない。
しかしそれは同時に、「共有化・標準化されていない1回限りの体験や認識については、言語化して伝えることが難しい」とも言い換えられる。ある瞬間、1回だけしか体験しなかった事柄には名前がついておらず、的確な表現を見つけるのは難しい。
ある食べ物について「おいしい」というニュアンスを伝えることはできても、より詳しく伝えようとすると言葉足らずに感じられ、やきもきさせられる。すべての食べ物を「おいしい」という言葉で標準化・単純化してしまっては、個々の魅力が伝わらない。相手と認識を共有できない。
あるいは、少年時代の夏休み、夜に友達と向かった肝試しで体験した「怖い」思いと、ある日家族が倒れ、そのまま死んでしまうんじゃないかというときに感じた「怖い」記憶。両者は同じ「怖い」体験でありながら、その内容はまったく別のものであるはず。そして、そのときに感じた心の揺れ動きは、同じ「怖い」という一言だけで表現してしまえるものなのだろうか。──少なくとも自分は、すべての出来事を同じようにラベリングして残そうとは思わない。
どれだけ辞書を端から端まで眺めようと、「ことば」には限りがある。ある特定の体験を正確に言い表す単語を見つけることは困難であり、僕らは「ことば」の不確実性をもどかしく感じながら、その場その場で適した表現を探さなければならないのだ。
たとえどれほど数が多くても、単語の数はしょせん有限であり、他方、私どもを取り巻く現実や私どもの心のなかの風景は無限に変容する
(佐藤信夫著『レトリック感覚』Kindle版 位置No.693より)
だからこそ、名状しがたいものを名状せざるをえないとき、自分の1回限りの体験に名前をつけようとしたときに、レトリックは僕らの手助けとなる。
うんこを漏らした最悪の1日を、ただ「うんこ漏らした」で締めくくるのではなく、漏らすまでの奮闘を「その日、私は獅子であった【隠喩】」などと描写するように。あるいは、「苦しく、辛く、悲しく、恥ずかしく、痛ましく、惨めで、残酷で、哀れで、消えてしまいほどに私を追いこんだ宿敵、すなわちうんこである【列叙法】」と淡々と絶望を記録してもいい。はたまた、「漏らさなかった未来はなく、トイレという聖域は遙か遠く。それでもなお、限界まで奮闘した我が括約筋に敬意を評したい。ありがとうんこ【緩叙法】」とアホっぽい言いまわしで自虐することだってできるのだ。
「ことば」はいつだって、不確実で曖昧だ。しかし同時に、雄弁で、力強く、弾力性を持ち、いざという時は頼りになる、友人のような存在でもある。本書が紹介する「レトリック」とは、そのような「ことば」の特性と魅力を同時に教えてくれるものでもあるのだ。
7つのレトリック
「レトリック」と言えば、一般的には「修辞学」や「修辞法」と訳される。ことばを巧みに用いて、美しく効果的に表現すること*1。遡れば古代ギリシアにおいて始まったそれは、もともとは討論に勝つための技術だったそうで──という前提の説明から始まる本書では、主に7つのレトリックの型を取り上げている。
- 直喩:「XはYのようだ」「YそっくりのX」
- 隠喩:あるものごとの名称を、それと似ている別のものごとをあらわすために流用する表現法
- 換喩:ふたつのものごとの隣接性にもとづく比喩
- 提喩:常識的に適当とされているよりも大きな意味をもつことばをもちい、あるいは逆に、期待よりも小さな意味をもつことばををもちいる表現
- 誇張法:ものごとを実際以上に大げさに言いあらわす表現
- 列叙法:ものごとを念入りに表現するために同格のさまざまのことばを次々とつみあげていく表現法
- 緩叙法:言いたいことの反対のことを否定してみせる表現
ここでは、中学高校で習っただろう【直喩】と【隠喩】は割愛し(もちろん、本文では「~のようだ」の有無にとどまらない、各技法の本質に迫る解説がされています)、残りの技法の中から【提喩】【誇張法】【緩叙法】について、ざっくりとまとめてみます。
提喩
“比喩のうちでもっとも比喩性の目立たぬ形式” であると筆者から称されている【提喩】は、その定義からして不安定だとも書かれている。辞書によれば、「全体の名称を提示してその一部を表し、また、一つの名称を提示して全体を表すもの」とある。
たとえば、「花」と書いて「桜」を指すような場合、そこには提喩が働いている。先ほどの「今夜、飲みに行かない?」という文中に含まれる「飲む」も、提喩の一種と言えるだろう(「飲む」と言えば、説明するまでもなく「酒」を表すように*2)。
ただ、これを「2つの言葉の関係性に基づいて言い換える技法」と考えると、先の【換喩】との区別が困難になり、本書ではその分析に尺を割いて説明している。
しかし一方で、筆者の考察によればむしろ両者は対立関係にあり、それどころか、【提喩】は【隠喩】と同系のレトリックであるという結論に至っている。このあたりの話が個人的にはすごくおもしろかったので、気になる人はぜひ本文で読んでみてください。
誇張法
文字どおり、「ものごとを実際以上に大げさに言い表す表現」が【誇張法】である。「一日千秋」や「千載一遇」といった表現をそのままの意味で受け取る人はおらず、「そんなの嘘だ!」といちいち腹を立てるような人もいないのではないかしら。
誇張法の説明で興味深いのは、その技法だけでなく、言語を介した表現やコミュニケーションにおいてしばしば取り沙汰される、「うそ」の問題を掘り下げて言及している点にある。
あまりにも大げさ過ぎる表現は好ましくないし、うそによって人を騙すのも良くない。しかし、比喩はもとより、それ以外の大げさな表現のなかにも垣間見える「うそ」は、そもそも人を騙すことを目的にしていただろうか──と。ことばの使い方を考えるにあたって避けては通れない「うそ」と「虚偽」の問題を、本章では胸がすくような切り口でもって説明してくれている。
緩叙法
字面だけ見るとピンとこないが、この表現もまた、日常的に使っている人はかなり多いはず。「言いたいことの反対のことを否定してみせる表現」である【緩叙法】は、小説などでしばしば気の利いた言いまわしとして登場するだけでなく、普段の会話でも無意識に使いがちな表現だと言える。
たとえば、次の3つの表現について考えてみよう。
- うれしい
- かなしくない
- うれしくないわけではない
平常表現の「うれしい」に対して、反対のことを否定している「かなしくない」は緩叙法の表現である。そして3つ目の「うれしくないわけではない」は、緩叙法の表現をさらに否定した、二重否定の緩叙法となっている。
本質的には、どれも「うれしい」という感情を表明していることに違いはない。しかし当然、この3つの表現は、「まったく同じである」と断言できるものではない。はじめから「うれしい」と書いていない以上、残りの2つには「うれしい」だけでは表せないニュアンスが含まれており、それを読んだ読者も何らかの意図を感じずにはいられないはずだ。
「うれしい」と言うとき、人はたんにうれしいのであろう。それに対して、 「かなしくはない」と言う表現は、うれしさのかたわらに、存在しないかなしみの映像を成立させる。
(佐藤信夫著『レトリック感覚』Kindle版 位置No.3617より)
レトリック、コワクナイヨ
読書の魅力と言えば「未知の知識を得られる」点がよく挙げられるけど、たまに「既知の事柄に名前があることを知る」場合もあって、それがむっちゃ気持ちいい。自分の考え方に実は名前があったり、無意識の行動に意味や体系があったりするのを知って、「そういうことだったのかー!」と腹落ちする感覚。
— けいろー (@Y_Yoshimune) May 22, 2018
本書を読み終えた直後、こんなツイートをしました。「本の魅力」はもちろんこれだけではないけれど、今回読んだ『レトリック感覚』という本には、まさにこういう魅力があったと感じたので。「未知の知識を得られる」かと思いきや、「既知の事柄に名前があることを知る」ばかりの1冊だった*3。
そういった意味で、本書は決して難しい専門書ではないし、日常的に「ことば」に触れる生活を送っている人にこそ、ぜひおすすめしたい。
それまで無意識に使っていた表現に名前があると知ることができるこの本は、読んだ人の表現の幅をきっと広げてくれるはずだから。「レトリックって難しそうだお……洒落た言いまわしとか僕には似合わないお……」と部屋の片隅でぶるぶると震えていた、読む前の僕に教えたい。レトリック、コワクナイヨ。
そういえば本書を読み進めている途中、書店でたまたま見かけた『論証のレトリック』は、また別の視点から「レトリック」を取り扱った1冊らしい。『レトリック感覚』では冒頭でのみ触れられていた、「説得」の技法としてのレトリックの話だそうな。
「スゴ本」のDainさんの書評を読んでますます気になってきたので、少し時間を置いてこちらも読んでみようかなーと考えています。即効性のありそうなハウツー本ばかり手にとってしまいがちな生活のなか、たまには、「ことば」の海に揉まれてみるのも……楽しいよ!