「Have a nice day!」の代わりに使える日本語が欲しい


f:id:ornith:20191223204202j:plain

 とある平日の午前中のこと。なじみの喫茶店でノートパソコンに向かい、いつものように原稿に追われている──と見せかけて、ただネットサーフィンをしていただけの僕。そんな自分に、話しかける人がいた。

 「すみません、ちょっといいですか」

 はい、なんでございましょうと横を見れば、そこには1人のおじさまの姿。金髪──というほどに派手な色ではないものの、染められた髪にまず目を引かれる。服装は思い出せないほどに平凡で、ただ、向かいの席に置かれた大きなリュックサックと、きれいな肌つやが印象的なおじさまだった。

 「今日って、○日で合ってましたっけ」

 今になって考えてみれば、日付を問うてきたのはおそらく、話しかけるきっかけに過ぎなかったのでしょう。今日はいい天気ですね、とか、なんとか駅への道はこちらでよかったかしら、とか、そのたぐいの。そういえば、他人に話しかける一言目として「時間」や「日付」を確認するのは、割とよく聞く方法な気もする。僕も参考にしよう。

 ええっと……と、一瞬だけ口ごもる僕。なんたって、こちとら圧倒的な集中力を発揮してネットサーフィン……じゃなかった、原稿の真っ最中だったのだ。完全に不意打ちの形で話しかけられたので、慌てて居住まいを正し、ちょうど目の前にあるパソコンの画面で日付を確認。おじさまが口にした日付と合致していることを確認して、少し軽快しつつも、ようやく言葉を返す。──そうですね、今日は○日ですよ、と。

 「そうですか、それはよかった」

 軽くほほえみ、大きく頷くおじさま。それで会話は終了──なーんてことは案の定なく、ややあって、おじさまが2つめの問いを投げかけてきた。よっしゃ、ばっちこい。今度は口ごもらないぞ。

 「それって、 “まっきんとっしゅ” ですか?」

 ……まっきんとっしゅ。想像もしていなかった単語が耳に入ってきて、思わずフリーズする僕。まっきんとっしゅ……マッキントッシュ……あ、Macintoshか! とようやく脳が理解し、急いで返答する。──ええ、そうですそうです。いつもこのパソコンを使ってるんです。いいですよね、Macintosh。

 そういえば、最近はずっと「Mac」って呼んでるなあ……と、おじさまに返答しながら、ふと思う。「Macintosh」と聞いて思い出すのは、2000年頃に親父が買ってきた、銀色の分厚いノートパソコン。それは、少年時代の僕が初めてさわったパソコン。それゆえ、自分の中では今も昔も、WindowsよりMacのほうが身近な印象があるのです*1

 「私もね、Macintoshを使っているんですよ」

 そう口にしながら、それまで飲んでいたフラペチーノから手を離し、こちらへと向き直るおじさま。あっ、これは、完全に雑談モードに入ったやつだ……と認識しつつ、どうしようかと悩む。見知らぬ人と話すのは嫌いじゃないし、今は別に忙しいわけでもないから──はてブ見てただけだし──おじさまにのっかろうかどうしようか。いや、でも、変な勧誘だったら嫌だしなあ……。

 おじさまに向き直るか。あるいはそのまま正面のパソコンを見つめつつ、聞かれたことには顔だけ向けて答える形で、受け流しながら様子を見るか。……よっしゃ、とりあえず、後者の方針でいくべか……と内心で決断したちょうどその時、おじさまから、思いもよらぬ一言が飛び出した。

 「実は私、“げいだい” を卒業しているんですけどね」

 ……ほほー、げいだいかー…………え!? 藝大!? てっきり壺を売りつけられるタイプの勧誘でも始まるのかと思いきや、突如として明らかになる、おじさまの過去。続けて「私も仕事でMacintoshを使ってるんですよー」と話すおじさまの声を聞き、そちらへ体の向きを変え、自然に返答してしまう僕。──ああ! やっぱりそうなんですか! 芸術系の人、というかクリエイター職の人って、Macを使っている人が多いみたいですよねー。

 「そうそう! 私の周りもみんなそうです」

 横へと向き直り、目に入ってきたおじさまの顔は嬉しそうで、けれど笑うのにはちょっと慣れていなさそうな、どこか不器用な笑顔。でも不思議と眩しい、素朴で素敵な表情でした。そしてそのまま始まる、おじさまの過去語り。普通に受け流しながら様子を見るつもりだったのが、「Mac」と「藝大」の2つの単語で、すっかりおじさまと話すモードになってしまっている僕がいた。

 というのも、おじさまが口にした学部学科が、うちの妹と完全に一致していたんですよね。たったそれだけで謎の親近感と興味が湧いてしまい、しばらくおじさまと話し込むことになったわけです。我ながらチョロい。……あ、こら、そこ、チョロQとか言わない。

 「今の藝大の倍率ってどのくらいなんですかねー」「私のときもすごい倍率でしたですよー」「試験ではこういうデッサンをやりまして」「学生数が多すぎてキャンパスを移動するのも大変で……」「あ、私、50代なので、当時は学生の人数が多かったんですよ」などなど、あれこれと興味深いお話をしてくれたおじさま。こうして並べると勢いがあるけれど、決して早口ということはなく、その口調は穏やかなものでした。

 その後しばらくして、おじさまとの歓談をすっかり楽しんでいる自分の姿に、ふと気づく。話した時間はそこまで長くなかったものの、結局は最後まで変な勧誘タイムに入ることもなく、ただただ「雑談」に興じただけ。純粋に素敵な時間を過ごしたわけです。

 ただ、なぜ自分がおじさまに話しかけられたのかは謎のまま。誰かと話がしたかったのか。たまたま隣の席にいた自分に話しかけたのか。自分が話しかけやすそうに見えたのか。はたまた、実は本当に日付を確認したかっただけなのか。本当のところはわからないけれど。

 でも──と、過去にもあった似た経験を振り返りつつ、考える。喫茶店で見知らぬ人と話すのは、思いのほか楽しい。これまで話した中に変な人はいなかったし、こちらが不快になるような話し方はしない、紳士淑女ばかりでございました。……彼ら彼女らはみんな、純粋に「話好き」なだけなのかな?

 閑話休題。

 そうしてしばらく話し込んだ後、先に席を立ったのは、おじさまのほうでした。すっかり存在を忘れられていたフラペチーノを飲み干し、大きなリュックサックを背負って、こちらに一礼。世間で言われる「話し上手」なタイプではないけれど、会話中の言葉選びが丁寧で、素の誠実さが伝わってくるお方でした。

 「それでは、お先に失礼しますね」

 そしてもう一言、「ありがとうございました」を添えて、去ろうとするおじさま。──いえいえ、こちらこそ。そう返しつつ、ふと何かを言わなければ、何かを付け加えたい……と、そう感じている自分の気持ちに気づく。見知らぬおじさまとのひとときが、想像以上に楽しかったからだろうか。ただ単に「ありがとうございました」だけじゃなくて、何かもう一言、おじさまに伝えたい。そう思ったのです。

 結局、口にしたのは、「お気をつけて」の一言。

 それに応じるように笑顔で頷き、お店の外へ出ていくおじさま。

 その背中を見やりながら、本当は僕は、「Have a nice day!」的な言葉をかけたかったのかもしれないと、彼を見送った後に気づいた。──話しかけてくれてありがとう。今日という日が、あなたにとって素敵なものになりますように──。多分、そんな意味を含んだ言葉を。

 改めて考えてみると、「街中でたまたま話をした他人との別れの言葉」って……ちょっと悩みません? 「また今度」とは言えないし、「さようなら」もどこか違和感がある。「お疲れさま」だと仕事っぽいし、「お気をつけて」も形式的っぽい気がする。咄嗟に出たのは、「お気をつけて」だったけれど。

 直訳の「良い1日を!」でも問題ないようには感じるものの……どうだろう。これはこれで、なんだかカッコつけすぎじゃない? そう感じてしまうくらいには、あまのじゃくな自分なのでした。

 こうやって、見知らぬ誰かと話し込む機会は少ないけれど。でも、次にこのような場面に遭遇したときのために、「Have a nice day!」代わりの日本語を考えておきたい。おじさまとの雑談で中断していた原稿……じゃなかった、ネットサーフィンを再開させつつ、そう決意したのでした。

 何かしっくりくる表現があったら、教えてくださいな。

余談:この件を妹に話してみた

妹「……そのおじさま、最初に日付を尋ねてきたんだよね?」

僕「お? そうだよ?」

妹「ってことは、そのおじさまは、アレだよ」

僕「??」

妹「 時 間 跳 躍 者 だよ」

僕「な、なんだってーーーー!?」

 

 なるほど、その発想はなかった。

 

関連記事