「何の前知識もないまま、ノリで映画を観に行った」のは、邦画では初めてだったかもしれない。なんとなくで足を運んでみたら、呆然としながら劇場を後にすることになった。
きっかけは、少し前に映画館に行ったとき、鑑賞前に目にした予告編*1。とある映画の予告映像で流れていた、聞き覚えのあるピアノの音色──どっかで聞いたことのあるような、別の作品で耳にしたような──というか、日常的に作業用BGMに使っていたような……?
その映像中で示されていたクレジットは、「音楽:ルドヴィコ・エイナウディ」。5年前、映画『最強のふたり』を観た帰り道、「この素敵なピアノ曲を作ったのは誰だ!」と速攻で検索。その場でCDをポチるほどの一目惚れ、もとい “一耳惚れ” をした作曲家さんである。
聞き覚えのある音楽によって注目させられると同時に、どこか独特の雰囲気を放つ、予告編それ自体も気になった。ほかの新作映画のCMと並べても異彩を放つ映像が印象に残り、「時間があったら観に行こう」と思わされた。
それが、是枝裕和監督の最新作『三度目の殺人』でした。過去に観た・読んだ・聴いた作品のなかでも、これ以上はないと思えるほどに「灰色」のイメージが強く、徹底的に「灰色」を描ききった映画。そのように感じられました。
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【あらすじ】青空が広がることはなく、曇天のまま終わる物語
一口に言えば、「法廷劇」に分類される本作『三度目の殺人』。殺人犯と弁護士、嘘と真実とが入り乱れたサスペンスドラマ。主に弁護士の視点で殺人犯の謎と向き合い、少しずつ真実へと迫っていく展開は、ミステリーの要素をもはらんでいるように見て取れる。
ところがどっこい。「白黒つける」場である法廷を舞台にした作品でありながら、本作では、何ひとつとして「真実」が明らかにならない。びっくりするほどに “白” とも “黒” とも判別がつかず、徹頭徹尾が「灰色」で塗りたくられた物語となっている。真実はいつもひとつじゃないし、じっちゃんの名にかけることもない。
主人公は、「勝ち」にこだわる弁護士・重盛。ある事件や問題について、何が真実であるかは二の次で、裁判での勝利を是とする仕事人だ。
そんな重盛が担当することになったのが、殺人の前科を持つ男・三隅。クビになった工場の社長を殺害し、財布を奪ったうえで亡骸に火をつけた、強盗殺人の容疑で起訴されている。逮捕当初から犯行を自供しており、死刑も確実とされている彼を、重盛は無期懲役に持ちこもうと考える。
ところが、面会を重ねるたびに話が変わる三隅と、その人間関係を探るうちに、重盛の胸の内に違和感が生まれる。法廷戦術を示し、三隅を弁護することはできる。しかし、どうにも「真実」が見えてこない。金目当てなのか、第三者に頼まれたのか、はたまたそれ以外の動機があるのか。
やがて重盛は、三隅の殺人の理由と真実にたどり着く。その「真実」とは、誰もが想像もしていなかったものだった──と、一般的な “法廷もの” であれば、多分そうなっていたのでしょう。
でも、そうはならなかった。確固たる証拠を見つけ、明白明快な「真実」を観客に叩きつけて終わり、にはならない。あまり書くとネタバレになるのでアレですが……たしかに、裁判で判決は出る。しかし、それですべてが丸く収まり、めでたしめでたし──になる作品ではなかった。
いわゆるハッピーエンドが「青空の下で大団円わぁい!」なイメージだとすれば、本作は「最初から最後まで曇天模様うげぇ!」な感じ。常に灰色空の下で暗中模索しているような感触で、「観終わってすっきり!」とはなかなかいかない。人によっては、ひたすらダルく感じそう。
ただ、そんななかでも一筋の光が射しこむような感覚はあり、上映後に抱いた感慨は格別だった。劇中ラスト、7度目の接見室のシーンでも描かれていたように。
透明な壁を隔てて、拘置所の不自由な環境にありながら、狭くも明るい接見室で光を背に受ける殺人犯・三隅と、自由な世間のなかにありながら、薄暗い影をまとっているようにも見える弁護士・重盛。その対比と、初対面時と比べて近くなった距離に2人の関係性を垣間見つつ、最後は、ある場所で佇む重盛のカットで幕を閉じる。
終盤の一連のシーンは、しばらく脳裏に焼きついて離れなさそうだ。
どこにもない真実と、見て見ぬふりと、忖度が動かすシステム
他方で、法廷が舞台である本作は、いくつかの社会問題を端的に示しているようにも映った。冤罪問題とか、死刑制度の是非とか、加害者や被害者に向けられる視線とか。
門外漢が偉そうに言える話ではありませんが……それでも、既存の「システム」の歪さを描いている点については、いろいろと思うところがあった。現代社会に当たり前に存在し、問題を解決するために機能しているシステム。それが、物事の本質を蔑ろにしてしまうリスクについて。
本作では「殺人」に焦点が当てられているけれど、最近の話題で言えば「痴漢」の問題が想起させられた。映像などの証拠がなければ、満員電車での痴漢行為が事実としてあったかはわからない。それでも白黒つける必要があるため、判断は司法のシステムに委ねられている。
そんな折、時と場合によっては、「やっていない」という主張をしながらも、痴漢を認めざるをえない状況が生まれる。余計な裁判を減らすため。企業の評判を下げないため。自分の生活を守るため。立場によって思惑はあれど、詰まるところは「認めたほうが都合がいい」から。
自分本位──というよりは、集団としての利益や調和を優先した “システム本位” とも考えられる、これらの行為。実際に痴漢があったかどうかは問題にならず、「真実」は二の次だ。
その構造の一部が、本作中でも再現されているように感じた。二転三転する殺人犯の主張もそうだし、裁判官・検察官・弁護士を交えて行われていた “忖度” もそう。目に見えないシステムのために誰もが動き、見て見ぬふりをし、踊らされている……ように見える。
だからこそ、そんなシステムの一部として働く歯車でありながら、三隅の気持ちを酌もうと考えた重盛の行動には、一瞬でも胸のすく思いがした。もちろん、それが正しいとは言い切れないし、もしかしたら真っ赤な嘘に乗っかっただけなのかもしれないけれど。
ただ、そこで個人対個人の関係性に立ち返り、あえて殺人犯の気持ちを “忖度” した弁護士の決断は、灰色に染まりきった劇中でも、ひときわ “色” を感じられる行動だと感じたのでした。
接見室で三隅に「真実なんてどうだっていいんだ。信じるのか信じないのかと聞いているんだ」と問われるシーンがありますが、あのとき、重盛は三隅の気持ちを忖度したんだと思います。
(映画『三度目の殺人』パンフレットより)
重盛を演じる福山雅治さんも、パンフレット内のインタビューでこのように話されていました。加えて、「重盛と三隅の関係性は、構造としてある種ラブストーリーになぞらえることができる」とも。そう考えると、それだけ関係を重ねてもなおわからない「真実」がもどかしくもありますね……。
そして、そんな灰色一色の世界のなかで明らかになる、タイトル『三度目の殺人』の意味。 “三度” をそのまま受け取るなら、作中での「真実」はこういうことなんじゃ──? と考えることもできるけれど、もしかしたらそれすらも嘘かもしれないのよね……。度し難い。
「誰を裁くのかは、誰が決めるんですか?」
広瀬すずさんが演じる被害者の娘・咲江の一言が、今も耳に残って離れない。個人の判断で “裁き” を決めることはできないけれど、かと言って巨大かつ不可視のシステムに頼りきるのも考えもの。しかも「真実」は十人十色に存在し、何が正しく何が悪いかは、人によって異なる。
あまりに考えすぎるとドツボにはまりそうではあるけれど、たまにはこういうのも悪くはないなーと。晴れることのない曇り空の下、光明を見出すために四苦八苦する弁護士と、一筋の光を見つけた殺人犯。2人を取り巻く物語と、背後を流れるピアノの音色に、しばらくは思いを馳せてみたい。
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