『茶―利休と今をつなぐ』自分と向き合う「独服」から始まる「茶」の世界


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「茶道」と言えば、ハードルが高い習い事のひとつ。

僕自身もこれまで茶道と交わるような機会はなく、現代的で平々凡々な生活を送ってきた一般人に過ぎません。茶席でのマナーなぞ知る由もなく、「興味はあるけれど、なんか怖い……」というイメージが先立っておりました。

他方では、大人の代表的な教養ある「習い事」としても支持を集めている茶道。日本における伝統芸能の “三道” ──茶道・華道・香道・戦車道──のひとつとして、古くから親しまれてきたお稽古事でもございます。

 

 

そんな茶道について少しでも知るべく読んだのが、『茶―利休と今をつなぐ』。筆者は茶道三千家のひとつ、武者小路千家の十五代次期家元である、千宗屋さん。本書の執筆当時はまだ30代という若さながら、国内外で幅広く活動されている茶人です。

「茶」に関してはド素人の身ながら読んでみましたが、単なる「茶の湯」の解説に留まらず、現代に即した考え方や日常への取り入れ方についても言及されており、非常に興味深く読むことができました。少しでも興味のある方にぜひとも勧めたい1冊です。

 

そうだ、お茶を飲もう〜自分と向き合う「独服」の時間

──などと冒頭では書いたけれど、実は本書、3年ほど前に購入し、途中まで読んで放置していた積ん読本でございました。

「茶道、コワクナイヨ、生活ニ、トリイレテミテヨ」という内容である第1章部分はおもしろく読めたのですが、駆け足とはいえ本格的に「茶の湯の歴史」を語る第2章は少し読みづらかった印象。買った当時は仕事が忙しかったこともあり、本を読むにも気力が必要だったのです……。

しかし一方で、第1章を読んだだけでも強く感化されていたことも事実。 ……というのも僕自身すっかり忘れていたのですが、「朝にお茶を飲む習慣」を身につけるきっかけとなったのが、本書を読んだことによるものだったのです。久しぶりに手に取って、思い出した。

 

独服とは、自分のために自ら点てていただくお茶のことです。茶室のことを「囲い」ともいいますが、日常の中にほんの一時、お茶によって囲われた非日常の時間を作り出すことで、自分と向き合い、確認をし、ニュートラルポジションに戻る。

 

会社の寮で暮らしており、仕事の忙しさでなかなか自分の時間が取れず、寮の自室に戻ってもなんとなく居心地の悪さを覚えていた入社1年目当時。先輩社員も寮に入っていたため、仕事とプライベートの境界も曖昧に感じられてしまい、なかなか心が休まらなかったんですよね。

そんなとき、序盤だけとはいえ本書を読んで、この「独服」という考え方に共感したのです。急須と湯のみ、手頃な粉末茶を買ってきて、試しに自分で毎朝、お茶を淹れて飲んでから仕事に出向くように。退勤して自分の部屋に戻ってからも、気づけばお茶を飲む習慣ができていた。

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──すると、あら不思議。

仕事とプライベートの切り替え、スイッチのオン・オフが、この「お茶を淹れて飲む」という行為によって確立されたという実感があったんですよね。朝一のお茶で気合を入れて、帰ってからのお茶で一服。精神的に楽になった感じがあったのです。

何もこれは「お茶」に限らず、コーヒーを飲むとか、料理を作るとか、軽く運動をするとか、人によってさまざまある「スイッチ」のひとつだとは思います。それでも、本書を読んで「独服」の考え方を知ったことは、慣れない環境であたふたしていた自分の救いになったんじゃないかと。

……という学びを得ていたことすら、久々に読みなおした今の今まで忘れていたんだけどね! ともあれ、個人的な生活における「スイッチ」としての「お茶」から、今回は文化としての「茶の湯」まで、最後まで読み切ることでまた新たな知見を得ることができました。

 

茶の湯はインスタレーションであり、パフォーミングアートでもある

さてさて、ここからは本書の内容を簡単にご紹介。

第1章は「誤解される茶の湯」という表題からもわかるように、まずは世間一般で誤解され、敷居の高い印象が先立ってしまっている「茶の湯」に対する認識を解きほぐすところから始まります。

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曰く、 “茶の湯は「絵画」や「彫刻」では括れない作品の総合、つまり「インスタレーション」であり、ものではなく動きが作品となる「パフォーミングアート」でもある” 

茶器や茶室は「道具」でありながら「作品」でもあり、さらには「芸術」や「政治」「宗教」の要素をも持ちながら、「茶の湯」として独立的に確立されたひとつのジャンルである、と説明しています。「茶の湯は○○である」と言い換えはできず、茶の湯は茶の湯として考えるべし。

──とはいえ、あまりにさまざまな分野が混在していると言われると、逆にまた訳がわからず忌避感を覚えてしまいかねないところ。そこで筆者は、茶の湯の本質と目指すべき目標として、次のようにも説いています。

 

茶の湯の究極的な目標は、“直心の交わり”つまり心と心の交わりを、茶の湯の方法論によって実現することです。その最善の手段として、“茶事”があり、亭主としては茶事を催し、考え抜いた趣向によってお客様に満足してもらい、そのことで自分も「人を招く悦び」を享受する。客としては修練と教養を積んで、亭主のもてなしを察し、的確に応じることができる。そのとき、主客の間に成立する人間的で、深いコミュニケーションが、双方にとってなによりの喜び、楽しみとなるのです。

 

読み始めた当初は「つまりどういうこっちゃねん!」ともどかしくも感じましたが──最後まで読み終えてみると、この言説こそが本書のテーマとなっているようにも感じました。

特に核心を突いているように読めたのが、「直心の交わり」という表現。言葉を介したやり取りではなく、身振り手振りによる伝達でもなく、直接的な心と心のコミュニケーションを実現するのが茶事であり、それこそが「茶の湯」の本質である。断言はされていませんが、僕はそのように読めました。

 

茶事では、見て、聞いて、触って、嗅いで、味わってという、自分の五感すべてを差し出さなければ成り立たない。この「五感をどう使うか」ということについての規範が確立されていることが、他の芸能や宗教行為との大きな違いでしょう。

 

“心と心のコミュニケーション” なんて書くと少々胡散臭くも見えますが、それを可能とするのが、茶道における所作。

はじめにお約束となる「型」があり、茶会の亭主はその文脈を理解したうえで、茶器や掛物、所作の中に自分なりの表現を落としこむ。ただしそれは己を前面に出した自己表現ではなく、その場に呼んだ「客」をもてなすためのものでなくてはならない。

茶室の空間づくりに専念することで、その場にいる人間の五感が研ぎ澄まされ、次第に言葉も不要になっていく。そういった言外のコミュニケーションの「型」が長い歴史の中で確立されてきたのが「茶の湯」であり、茶道を学ぶことの大きな魅力である、という話でした。

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「茶道」と聞くとどうしてもその硬いイメージ、形式的かつ厳粛な光景が浮かんでくるものでしたが、本書を読んでその印象が改められたように思います。茶会での具体的なエピソードなども含めて門外漢にもわかりやすく、噛んで含めるように説明されていたので。

また筆者が若く、現代アートにも造詣が深いことも手伝って、例え話をおもしろく読めたことも大きかったです。

茶の湯について、 “インスタントに教養人を養成する「古典教養養成ギプス」「文化の圧縮&解凍ソフト」” と書いていたり、利休の「見立て」をデュシャンの「レディ・メイド」と言い換えたり。さすがは、海外でも講演活動をしていらっしゃる茶人でございます。

本書では、茶の湯の特徴と歴史に始まり、フィクションで目にしてきた姿とは異なる千利休の人物像、茶席に呼ばれたときの楽しみ方に、茶道具の文化・歴史的背景などが全8章にわたって概説されています。

そういった点から、この『茶―利休と今をつなぐ』は「お茶」全般に関して興味がある人の入門書としてぴったりだと言えそうです。形式的な “茶道” の解説本はつまらない、茶の湯の歴史・文化を知るにもどこから手を付ければいいかわからない──そんな人の最初の1冊に。

まずはあれこれと学ぶよりも先に、日常生活に「お茶」を取り入れるのもいいんじゃないかと。「朝茶は福が増す」「朝茶はその日の難逃れ」「朝茶は七里帰っても飲め」といった数々のことわざが示すように、朝の一杯は自分の生活を見つめなおすきっかけになるはず。

 

缶の中から玉露を選択し、急須に目分量で茶葉を投入。ケトルがコポコポと音を立て始めたところで、沸騰したお湯を湯のみへ注ぐ。たっぷり40〜50秒ほど冷ましたお湯を急須へ。じっくり2分かけて抽出し、湯のみに注いだお茶をいただきます。さて、今日も一日がんばるぞい。

 

 

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