(´-`).。oO(ウェブメディア運営者が自分の気に食わない一部批判を指して「炎上」と喜んでいるのを普通に目にするようになったあたり、もうどこぞの界隈では言葉の意味が変わっちゃってるんだろうなー、と)
— けいろー (@Y_Yoshimune) 2015, 6月 17
このツイートをしたところ、そういえば「ネット」に関する本をつまみ読みしていたことを思い出した。他に読む本、気になる本が増えすぎて、すっかり忘れてた。てへぺろ。
そんなわけで1ヶ月ぶりになります、川上量生さん監修『角川インターネット講座4 ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代』を読んだ、章別の感想となります。
今回は第4章。「炎上の構造」と題し、日本に限らず海外の事例も取り上げ解説しているのは、「そんじゃーね」じゃないほうの“ちき”*1こと、荻上チキ(@torakare)さん。
2007年にはすでに単著『ウェブ炎上』を出版しており、ご自身も10年以上「はてな」でブログを運営し続けていることもあって、ネット上の動向を常に注視してきたであろう評論家。“ネット論壇”と言うと血気盛んな人が多いようなイメージの中、絶妙なバランス感覚を保っている方という印象です。
そんな荻上さんから見た昨今の「炎上」傾向と、その「構造」を改めて整理するような内容となっている本章。淡々とした書き口で読みやすく、最低限のトピックに関して広く、しかし網羅的に言及したような文章となっておりました。
多種多彩な不特定多数が少しずつ関わり形成される「炎上」
さて、インターネット上において「炎上」という言葉を耳にした場合、何かしらのポジティブな想像をする人はほとんど皆無と言ってもいいと思う。
古くは2ちゃんねるをはじめとする匿名掲示板を発火点とし、各所へ波及。時には個人の特定、企業の悪評、マスメディアでの報道にまで結びついた「祭り」は、2010年代半ばの現在もなお、ネット文化圏の“当たり前の現象”のひとつとしてあり続けている。
筆者がまず「炎上の条件」のひとつとして挙げているのが、「多数の反感」だ。個人の主張や失言、団体の不祥事など火元はさまざまであるものの、それに憤った不特定多数のネットユーザーのコメント群が書き込まれることによって、「炎上」現象が顕在化する。
それぞれのコメントは最短で「氏ね」といった暴言から、数百・数千文字に及ぶツッコミまでいろいろ。しかし、単体では意味を成さない、わずか数Byte程度の文字列も、数が集まれば一種の“現象”となる。特定のコミュニティだけで語られていた話題はやがて別の場所へも広がり、不特定多数による「反感」は大きな炎となって火元へと押し寄せる。
だが一方で筆者は、“何に反感を抱くかは、人によっても異なる”として、次のようにも指摘している。
ある炎上事例については「燃えて当然」と思う者も、別の炎上事例については「何が問題なのか」と首をかしげる場合もある。ウェブ上には様々な文化クラスターが存在しているが、それぞれの反感の対象が異なるため、ある炎上が特定クラスター内のローカルニュースにしかならない事例も多い。そのため、「多数の反感」といっても、それは「部分的多数」でしかないこともしばしばである。
昨今の報道では「ネットで話題」という文句で動画やサービス、商店などを紹介することもあるが、一口に“ネット”と言ってもその世界は広大だ。
“自分のよく知るインターネット”と、“誰かの過ごすインターネット”は別のもの。利用しているサービスによって全く異なるスラングが使われていることは珍しくないし、趣味や興味関心によっても見ている世界は各々に違ってくる。
それゆえ、“インターネット全体”を横断するような大炎上というのは、過去にもほとんど例がないのではないかと思う。
どこぞのスポーツ選手が失言をしたとしても、彼を知らない人からすれば「だれ?」状態だし、発言内容に関心を持たなくても不思議ではない。ネットでもリアルでもセンセーショナルなトピックとして考えられている「政治」や「ジェンダー」の話題ですら、これっぽっちも興味を抱かず看過する人も決して少なくはないだろう。
加えて筆者は、ネット上での「個人」の振る舞いについても、その動機はさまざまだと説明している。
ひとつの炎上事例にも、様々な動機を持った個人が参加する。本気で憤りを示すものもいれば、煽られた文言に反応しただけの者もいる。普段から抱いていた政治的憎悪をぶつける者もいれば、ビジネスのために反感を利用する者も、ただ数分間の笑えるネタとしてのみ便乗的に消費する者もいる。炎上事例のたびに、異なる意図をもった個人が、その都度集合を形成し、離散していく。それらを持続的な人格としてとらえることはできない。
インターネットの性質を表す「集合知」をもじって「集合痴」*2と揶揄する表現があるが、この「炎上」という現象を端的に示した言葉であるようにも見える。
そこには統率者はなく、集団内で統一された主張もない。アフィリエイト収入といった目的を持って“参加”する人もいれば、実際は悪意すらなくただ感じたことを“ツッコむ”だけの人もいる。「多数の反感」というものの、その実「反感」すら抱いていない人も相当数いるのではないだろうか。
集団で統一された明確な主張があれば反論もできようものの、各々が好き勝手に叫んでいるだけではそれも難しい。だからこそ、「炎上」した側は無難な謝罪文を掲載するか、ただひたすら鎮火するのをじっと待つしかない。下手に一部に対して反論したところで、新たな「燃料」として燃え広がるだけだからだ。
“情の下に差別されながら偶発的に決定される”裁き
こうした不特定多数による「私刑」である炎上の構造として、筆者は以下のようにも説明している。
炎上は、それが集合行動であるために、個人の責任が匿名化され、加害意識や参加意識も希釈される。炎上された側は、数万人によるスクラムを受けたと認識するが、炎上させた側は、数十文字から数百字程度の「反応」を示したに過ぎないと捉える。この非対称な構造は、炎上した側に回らないとなかなか認識されにくいものかもしれない。
炎上させた側には責任も悪意もなく、中には「自分は正しいことを言っているだけ」という正義を振りかざしている人も存在する。実際問題、犯罪行為に対してであればそれもある程度の正当性ははらんでいるかもしれないが、過剰な正義感によって流言を拡散したり、無関係な第三者にまで攻撃を加えたりと、問題点は少なくない。
2013年頃に話題となった「バカッター」*3案件に関しても、一部では同様の構造が見られる。反社会的行為をした相手には何をしても、何を言ってもいいとして、生活圏を脅かしにかかる者。さほど問題視されないようなケースに関しても、自分の“常識”や“マナー”を根拠に無遠慮に殴りかかる者。
そうした一個人に対する過剰なペナルティについて筆者は、“その裁きの程度は、法の下において平等にではなく、情の下に差別されながら偶発的に決定される”と書いているが、これは言い得て妙だと思った。
問題行為が指摘され明らかになった時点で、「法の下」に然るべき裁きを受けるに至るケースがほとんどだろう。にも関わらず、一度“やらかした”相手には何をしてもいいと考え、不特定多数の“名無しさん”の「情の下」に差別し、フルボッコにする構造。弱者に対して大勢が一方的な攻撃を加えるこの構造が「いじめ」や「リンチ」を想起し、そう例える流れがあるのも当然と言えるだろう。
現状は結局、「炎上しないようにしましょう」「燃えたらすぐに謝りましょう」と自衛が強調されるにとどまっている。今後はどうか。過剰な炎上事例については、法的に対処しようという議論が盛り上がる国もあるだろう。国境を越えた「インターネット憲章」がつくられ、各国企業がそれに同意することで、著しい人権侵害には対処するような動きが出るかもしれない。
本章ではまとめとして、このように「炎上の未来」を示している。日本では最近、ヘイトスピーチの法規制についてたびたび議論されるようになったが、「言論の自由」との兼ね合いも含めて慎重に考えざるをえない状況であるように見える。
そうした現状を鑑みても、その流れをすぐに「インターネット」に持ち込み採用することは困難であるように感じる。ここ数年でサービスやアプリへの“囲い込み”が進行し、徐々にクローズドになりつつあるとされるネット界隈だが、それでも、「自由でオープン」な思想は変わらず根底にあるのではないかと。
ひとつ考えられるのは、昔から議論されているインターネットの免許制、もしくは実名投稿の義務化などだけれど……。それもなんだか違うよなあーーと考えつつ、次の章へと向かおうと思います。
あと個人的には、途中で語られていた「元気玉パターン」の話がおもしろかったです。『ぼくらのウォーゲーム』と『サマーウォーズ』の差異と、「暴走する集合体」に対して「合意する集合体」をぶつける「元気玉パターン」について。まさか『ロト紋』の名前を見るとは思わなんだ。
『角川インターネット講座4』感想記事(筆者敬称略)
- 序章/川上量生:『ネットがつくった文化圏』
- 1章/ばるぼら:『日本のネットカルチャー史』
- 2章/佐々木俊尚:『ネットの言論空間形成』
- 3章/小野ほりでい:『リア充対非リアの不毛な戦い』
- 4章/荻上チキ:【本記事】
- 5章/伊藤昌亮:『祭りと血祭り 炎上の社会学』
- 6章/山田奨治:『日本文化にみるコピペのルール』
- 7章/仲正昌樹:『リア充/非リア充の構造』
*1:荻上チキさん「別人と混同され、罵られ、顔の悪口まで言われるまいにち。」 - Togetterまとめ
*2:統率するもののいない集合体は衆愚であるということ。烏合の衆(集合痴とは - はてなキーワード)