悪意も全て可視化するネット言論と、ブログメディアの泳ぎ方『ネットの言論空間形成』


 川上量生さん監修『角川インターネット講座4 ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代』を読み進めております。今回は第2章。

 筆者は、佐々木俊尚@sasakitoshinaoさん。Twitterでは30万以上のフォロワー数を抱えるジャーナリストで、毎朝ほぼ欠かさず行なっている「朝キュレーション」活動は有名ですね。ネットに関して取り上げた著書も多く、その言説に触れたことがある人も多いのではないかしら。

 第2章では、1999年の2ちゃんねる誕生に始まり、日本のインターネット上に形成され今に至るまで変遷を続けている、「ネットの言論空間」を取り上げています。

 「ネット論壇」という言葉を耳にする機会は減ったものの、掲示板、ブログ、SNSとプラットフォームが移り変わる中でネット上の「言論」はどのような性格を帯び、変化していったのかを探る内容。本書の中では、おそらく「はてな」ユーザーとそのサービスが特に強く関わり、具体的に言及されている章でもあります。

 

「2ちゃんねる」から始まった、日本のネットの言論空間

 日本のインターネット事情を語るにあたって、やはり「2ちゃんねる」の存在は看過できない。それどころか、むしろネットの中心的役割を果たしてきたと言っても過言ではない。SNSが一般層にまで普及した今もなお、「まとめサイト」へ分化しつつも広く親しまれている存在だ。古くからの「住民」からすれば、たまったもんじゃないとは思うけれど。

 本文では第一に、 “日本のインターネットに本格的に言論空間が立ち上がったのは、2ちゃんねるが最初である” と断言している。 “ネオ麦茶事件” こと、西鉄バスジャック事件*1に代表されるような問題点を数多く孕みつつも、ある業界や社会にいなければ知り得ないさまざまな情報の「オープン化」に寄与したことは明らかだ。

 一方で、言うまでもなくそこには誹謗中傷や罵詈雑言、デマといった膨大なノイズが併存している。しかし、『電車男』*2のように秀逸なコメントだけを抽出したコンテンツの成功は、多量のノイズの中に価値ある “宝石” が埋もれている証左とも言える。ゆえに筆者も、 “2ちゃんねるは意外にも良くできた言論空間にもなっていた” と書いている。

 膨大なノイズと、一部の秀逸な書き込みと。そのような中から最初期の「ネットの言論空間」は誕生し、その性質は現在にも受け継がれているように見える。ネットで言葉を交わすのであれば、清濁併せ呑むことが前提となる。件のネオ麦茶事件に際して生まれた名言「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」*3は、おおよそ現在のネットにも通用するのではないだろうか。

 

意志なきネットと、足場を持つマスメディア

 2ちゃんねるが世間的にも認知され始めた2004年頃、同時に日本では、爆発的な「ブログ」ブームが巻き起こった。年齢や職業、肩書きに関係なく誰もが自らの意見を発信できるプラットフォームの誕生によって、これまでのマスメディア一強時代にはなかった多彩な視点がネット上に可視化されるようになる。

 ここでは、ネットがジャーナリズムに与えた影響として、2005年のライブドア事件*4に対して数多くのブロガーが言及したことを取り上げつつ、ひとつのブログ記事で示された意見を引用している。

 

「ジャーナリズムの中身を大きく分けると情報の提供(食材屋)とその情報を分析し、誰にでも分かる形で広く知らしめること(料理屋)になる。これまでは食材も料理もマスコミから買うしかなかったが、これからは一次情報だけを食材屋であるマスコミから購入し、料理はブロガーが行うという棲み分けも可能になるのではないか」(ブログ「幻影随想 別館」

 

 言い換えれば、マスメディアが提示した情報に対して個人の知見や付加情報を加えることで、より質の高い情報(=料理)が広く提供・共有されるようになった、と受け取れなくもない。もちろんその一方では、ぶっ飛んだ極論や陰謀論、どうしようもなく残念なダメ出しやツッコミといった、ノイズやら悪意やらも引き受けることになるのだが。

 昨今は閉鎖的なサービスも増加しつつあるネットだが、基本的には常に「オープン」であるという性質は変わっていない。等しく開かれ、均質な「場」に表明された意見は、他の人間の主張を取り込み、相互に作用し合いながら拡散される。

 一見すると、より良い意見が「集合知」として醸成される素晴らしい環境であるようにも見えるが、ご存知のように決してそうとは限らない。得てして人はセンセーショナルな意見に流されがちだし、筋の通った「論理」よりも短絡的な「わかりやすさ」が支持されるケースも少なくない。そのように、良くも悪くも常に揺れ動いているネットだからこそ、既存のマスメディアよりも優れているとは断言できない。

 

リアルの社会にも素晴らしい文章を書ける人、他人を感動させることができる人、他人を説得できる力をもっている人がいるのと同じぐらいに、人を呪詛するしか能力のない人やつまらない揚げ足取りに終始している人物がいる。ただリアルの社会では、言論の空間は新聞やテレビ、雑誌などにコントロールされているから、そうしたつまらない言論がパブリックな場所に表出してくる可能性はきわめて低い。しかし中央コントロールの存在しないネットの世界では、そうしたひどい言論が簡単に表出してくる。

 

 自由であることは全体の多様性へとつながるが、それが必ずしも「正しい」意見とはなり得ない。コントロールされているからこそ、クオリティの底上げが可能となるが、外部からは “偏向的だ” と見られることもある。コントロールされていないからこそ、有象無象のノイズが垂れ流し放題になる一方で、極端な “偏り” を避け多様性が保障される。

 結局はマスメディアとネット、それぞれの特性の差でしかないのかもしれないが、こうした違いを知っておくことは重要だ。

 

「ユーザーの質」をネットに求めてはいけない

 「雑多で低質なノイズがネットの言論空間を汚染しているのなら、それらをまとめて排除しちゃえばいいじゃない」と思う人もいるかもしれない。しかし、それができれば既にやっているはずだし、そうして有象無象が消えたネットは、果たして本来的な「ネット」と呼べるのかという疑問もある。

 ネット上の言説に限ったことではないが、「俺の主張を理解できない人はバカだ」「どこの誰とも知れない人の批判は受けない」といった主張は、たびたび目にするものだ。ネットに限って言えば、この手の主張は十中八九、燃え上がる。

 なぜかと言えば、それはフラットで自由なネットの言論空間を否定する発言であり、もっと言えば「ネット」そのものの有り様を拒否するような物言いでもあるからだ。一口に言えば、「じゃあさ、そんなことを言うあんたは、どうしてネットで書いているの?」である。

 この視点について本文では、梅田望夫*5さんのブログ記事に端を発する炎上現象を取り上げて説明している。ざっくり言えば、

といった流れ。けんすう@kensuuさんの言及記事を合わせて取り上げつつ、筆者は次のように書いている。

 

ユーザーの質のようなものをそもそもインターネットに期待すること自体が間違っている。ネットの空間はリアル社会の写し絵でしかなく、そこには善人がいれば悪人もおり、頭の良い人がいれば頭の悪い人もいる。リアル社会と異なるのはただひとつ、ネットではそうしたプラスマイナスの存在がすべて可視化されてしまっていることだけだ。だからネットでは見たくないものまですべて透けて見えてしまう。

 

 人の「悪意」も含めた、普段は見えないものまでもがデフォルトで見えてしまっているのが、ネット空間の常。それらのノイズは、サービスの規約やコミュニティの公開設定などによってある程度はカットすることも可能だが、オープンなネットの性質が失われてしまうリスクも孕んでいる。

 個人の特定が可能で、それぞれが肩書きを持ったクローズドなコミュニティでは、フラットで自由な言論空間は形成されづらい。社会的地位や人間関係などが現出することで、その場はネットでありながらリアルに限りなく近い環境となってしまう。ある意味で二者択一とも考えられるこのバランスは、十人十色であるユーザーの目を気にするネットメディア運営者にとっての悩みどころなのかもしれない。

 

ネットでは良質な情報を収集するためには母集団がある程度大きくなることが必要であって、最初からノイズを排除して母集団を小さくしようとすると、結果的に情報全体の質が低下してしまう。ノイズを排除してはならないのだ。

 

 自由でフラット、ありとあらゆる人間が共存しているネットでは、ノイズを排除することはほぼ不可能、というより排除するべきではない。

 先にも書いたように、ネットの基本的なスタンスは「清濁併せ呑む」ことだと僕自身もずっと考えてきたので、筆者の主張には強く共感できる。そして同様に、少なくとも情報発信の場としてブログを運営しているブロガーに関しては、ノイズを積極的に排除することは勧められないように思う。何より、そうして「読者はバカだ」「これだからアンチは」と思考停止的にユーザーを切り捨てるのは、悪手でしかない。

 

そうした非難が起きるのは、彼らがバカだからではなく、彼らをターゲティングしなかった書き手の側に問題がある。ネットの空間はそこまでフラットなのだ。

 

 罵詈雑言・誹謗中傷を遮断するのはわかる。日記的に、自由気ままに更新したいから仲の良いユーザーとの交流に注力するのもわかる。……けれど、気に食わない「批判」までをもすべてノイズだとして排斥し、挙句の果てには中傷で返すのはどないやねん、と。じゃあSNSでもいいじゃないか。あるいはせめて、完全にスルー&ノータッチを突き通すくらいの気概は持って欲しい。

 また、梅田さんの「期待」もわかるし、「残念」は正論だとも思うけれど、それはきっとすぐには叶わない。この先、10年単位で変化が訪れるかも怪しい。ネット上の荒らしや罵詈雑言はそれこそ2ちゃんねるの時代から十数年と続いてきた一種の「文化」だし、人間個人の「悪意」なんて、根本的には日本社会の格差問題・社会不満が一因としてあるんじゃなかろうか。

 「ネットに夢見てんじゃねえ」と知った顔をして言うのは簡単だけれど、誰だって少しは “夢見てる” からこそ、ネットを使い続けている面もあるんじゃないかと思う。その “夢” や “期待” は、「誰にでも認められる自分」じゃなくて、「どっかの誰かに伝われば良いな」という淡い希望。そのくらいのバランス感覚のほうが、健全で楽しくネットの言論と向き合えるんじゃないかな。

 

 

『角川インターネット講座4』感想記事(筆者敬称略)