『読書について』悪書だらけの新刊を避け、良書を読むために


 「本」にまつわる3篇の論説が収録された、ショウペンハウエルの『読書について』。過去2回に分けて「思索」「著作と文体」についてまとめてきましたが、今回はその最後、書名ともなっている「読書について」を読みました。

 3篇通じて言えることですが、200年も近く前のドイツの哲学者の指摘が、現代日本に生きる読書家たちに何らかの感慨を呼び起こし、レビューサイトなどを見ても高く評価され続けているのはすごいなあ、と。それこそ著者が文中で述べているような、いつの時代にも普遍的な「良書」たり得ていると言えるのではないかしら。

 

要約:新刊の多読に価値はなく、「古典」が我々を育て啓発する

 読書は、自分でモノを考えない活動である。本を読むことで我々は他人の思想に触れることができるが、そうして他者の思想を追いかけ消費しているばかりでは、ついには考えることを忘れてしまう。ゆえに、多読は慎むべきである。

 著作家にはそれぞれ固有の性質・才能が備わっているが、たとえその著作を読んだところで、後追いの読者たる我々がその才能を得ることは叶わない。同質の才能を持っていれば読書によって自発的活動を促され、それを現実に所有することもできるかもしれない。しかし、才なき者は生気に乏しい手法しか学べず、行き着く先は虚しい模倣者だ。

 この世にはどうしようもない人間が数多く存在しているのと同様に、クズみたいな悪書も日常的に存在し限りがない。価値のない新刊を濫造し、大衆にいつも同じ新しいものを読ませるべく奮闘している現代の文筆家が愚かしいのは言うまでもない。書店に並ぶ悪書の数々は、読者の金と時間と注意力を奪い取る強奪者である。

 だからこそ、読書に際しては読まずにすます技術が重要となる。数年後には市場からも読者の記憶からも消えている新刊などではなく、あらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読するべきだ。そのような良書こそが真に我々を育て、啓発する。

 

多読を避け、“読まずにすます技術”

 本項の冒頭部分では、多読に溺れた結果、自分で考えることを放棄した“愚者”を徹底的に批判しつつ、「読書」の持つ意義をまず明らかにしている。それすなわち、“読書は、他人にものを考えてもらうこと”であり、“熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる”

 とは言え、人間一人の時間は有限だ。気になる本すべてに手を付けることはできないし、無理に時間をとって読んだところで、一冊一冊に関して斟酌し熟考する時間などあるはずもない。口に入れてすぐに吐き出しているようなものなので、何も身につかないし、記憶にも残らない。ゆえに、“多読は慎むべき”なのだろう。

読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。

 その対策として提示されているのが、この指摘だ。後に続く主張と合わせて身も蓋もない言い方をすれば、「新刊は総じてクソ、むしろ“当たり”しかない古典を読むべし」と。現代日本に照らし合わせても、あながち間違っていないのではないだろうか。

 ジャンルにもよるが、昨今の書店に並ぶ新刊を見れば「過去の名作・古典の切り取り本」がやたらと多い。「超訳」や「〜でわかる」などの類だ。著者に言わせれば、“現代の浅薄人種がたたく皮相陳腐な無駄口”でしかないと。酷い言われようだが、かと言って全否定できるものでもない。

 同じく現代日本に生きる自分からすれば、その手の書籍を時間がないときの「入門書」として手に取るのは悪くないとは思う。さらにそれが古典へと遡るきっかけとなるならば、知の門へと誘う現代の水先案内人として、役割を果たしているようにも見える。

 ただ、調査研究も妥当性も保証されていない印象論だけの薄いビジネス書を濫読し、目次を書き写せば事足りるような感想をウェブ上にまとめ、それを殊更に「参考になる」とシェアする流れが当然となっている一部書評ブログ界隈を見ると、やるせなさを感じなくはない。彼らの場合、「読むのが目的(読んだ証が欲しいだけで知識・情報には無関心)であるようにも見えるので、あまり強く批判できるものでもないけれど。

 

「新刊」にはまったく価値がないのか

 さて、本書は明らかに「新刊」を強く批判し、「古典」を価値ある書物として説明する内容となっているが、果たして現代の「新刊」の大半もまったく無価値なものなのだろうか。

 時間の流れがある文学史的な側面で見ると、純粋な割合だけで言えば、国内だけでも1年に80,000冊以上も出版されている新刊本*1のうち、果たして数十年、数百年後にも残っている本が何冊あるかと考えれば、9割9分は「無価値」と断定できるだろう。2、3年前のベストセラー本ですら忘れられがちな現代において、長く読まれ続ける本というのは非常に生まれづらい。

 他方、現代に残る「古典」はそれが今存在しているだけで、長年読まれ続けてきたという価値を証明していると言える。未来へ読み継がれるほどに人を魅了するからこそ「名著」なのであり、それまでの「歴史」が価値の証左となっている。ぶっちゃけ、存在するだけで誰もが認める「良書」なのだ。悪書は淘汰されるのが自然の摂理。

 その時代、そこに生きる人々から愛される「良書」も当然あるだろう。今だからこそ読まれるべき本が、今でしか読めない本があっても何らおかしくはない。そういう意味では、歴史の影で消えていった「悪書」の中にも、今読まれれば人の心に響く「良書」となる本だってあるかもしれない。

 しかし、おそらく著者が言いたいのはそういう話ではない。これまで本書の3篇に関しては独立して考えてきたが、それらを一貫したものとして考えれば、断片的ではあるが著者の「思想」が見えてくるのではないかと思う。

  • 読書に重大な価値はなく、健全な精神は「思索」から生まれる
  • 思索なき著作に価値はなく、「文体」は主張の所有から生まれる
  • 新刊の多読に価値はなく、「古典」が我々を育て啓発する

 本書『読書について』 の感想をまとめた3つの記事で、自分はそれぞれの文章の「要約」部分でこのような見出しをつけた。読書それだけからは「思索」が生まれず、「思索」なき著作に価値はない。また、自らの思索を主張の形で所有することで「文体」が生まれる。そして、無価値な新刊の多読を否定し、「古典」を勧めている。

 キーワードとなるのは、やはり「思索」なのではないだろうか。要するに、本書で語られている「読書について」とは、「思索」ありきの“読書”であり、それ以外はすべて“悪書”として切り捨てているように見える。

 中でも新刊を強く批判しているのは、著作家の熟慮、思索の過程が見えない濫造品であるためで、そこから読者が「思索」を得られるはずもない。なればこその“新刊”批判であり、なればこその“古典”賛美なのではないか。“古典”には、紛れもない「思索」が見て取れる。

 もちろん、これは単に「自分がそう読んだ」というだけで、ショウペンハウエル先生に言わせれば「勝手に変な解釈してんじゃねえこのやろう!」とツッコまれるのがオチかもしれない。ただ、足りない頭なりに“考えて”みた点だけは、斟酌していただければ。

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

 何はともあれ、久しぶりに読んだ岩波文庫、そして「古典」でした。読み進めながら読書ノートを取り、自分で要約もまとめ、さらには音読まで始めるという、数年ぶりにがっつり読んだ本となりました。むっちゃおもしろかったし、楽しかった。

 改めまして、本書を贈ってくださった局長さんに感謝を。素敵な本を、ありがとうございました!そして、普段から本を読んでいるような人、特にブログで感想をまとめているような人にはぜひ読んでみて欲しい一冊なので、よかったら手に取ってみてください。

 

 

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