大きな主語が指す「みんな」「世間」って何のこと?


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 「『主語が大きい人』は信用できない」という意見が、たびたび目に入る。「日本人はかくあるべき!」とか、「女性はみんなこうだ!」とか、「最近の若者は〜〜」とか、人やモノを一括りにして、「大きな言葉」で語ろうとする形。

 そんな、「大きな主語」について、思うことをつらつらと。

 

多数派に代弁させる「太宰メソッド」

 「日本人は〜〜」とか「最近の若者は〜〜」とか、大きな主語をとにかく乱用する人に対しては、「お前それサバンナでも同じ事言えんの?*2」と突っ込みたくなるけれど……あれ? 使い方が違う? まあいいや。

 まず、「大きな主語」のひとつとして、「太宰メソッド」がというネットスラングがあるらしい。 “ネット” も大きな主語ですね、はい。

 

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、

「冷汗、冷汗」

と言って笑っただけでした。

 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

 

太宰治「人間失格」より抜粋

自らの個人的な好悪の感情などを「世間」や「みんな」といった大きな主語に託すことで、自分の責任は回避しつつ、発言に権威や説得力をもたせようとする手法。

 

 「みんなそう言ってるよー」とか、「世間的にはそれが当たり前だよねー」とか。

 極端に言い換えれば、「世間様がこう言ってるから正しいんだよ! 多分な! ただしソースはない!」といったもの。明確な形のない、ふんわりとした「多数派の “誰か” たち」を拠り所として、発言の内容に説得力を持たせるような。

 もちろん、言われた側は「みんなって誰よ?」となるので、その点は説明する必要が出てくると思う。アンケート調査の結果だとか、取材の記録だとか。言うまでもなく、「自分の周囲の人間」としての「みんな」では、根拠として乏しいものかと。

 

目に見えない多数派に追従することの恐ろしさ

 この「みんな」「世間」というふんわりワードが怖いのは、それが目に見えないものであるにも関わらず、たしかな存在として、その人の思考を縛る場合があるからだと思う。

 

「ほら、こういうふうにね世間には差別があるの。苦しんでいる人がいるの。
あなたのことを大事に思うからこそ同じような辛い思いはさせたくない。
肉屋と鞄屋の人とは結婚して欲しくないという気持ちは変わらない。」

 

 「差別」の問題は、それが事実として多数派である場合もあると思われるので、難しいところ。上記記事の “えったもん” についても、 “えた・ひにん” として学校で習ったものであるわけですし。その差別意識が、現代の多数派として残っているとは考えにくいけれど。

 でも、そのような事実が確認できないのに、どこかから得た勝手なイメージや、自身の印象でもって「みんながそう言っているから」と主張するのは、やっぱりちょっとこわい。

 自分が批判されないよう、目に見えない「みんな」に従って(その対象に悪感情を持っていないにも関わらず)、差別をしてしまうケースは少なからずあると思う。誰もが見えない「誰か」に追従した結果、本来はそうでもないのに、大きな「差別」の波が生まれてしまうのはやるせない。

 

コミュニティによる多数派と少数派の差異

 「みんな」という言葉に依拠することの問題点としてもうひとつ、「井の中の蛙問題」がある。とある “井の中” の「みんな」にとっては当たり前、多数派であるものが、より大きな視点で見ると少数派である場合が、常としてあるのではないかしら。

 

 この問題は、過去にもこのブログで書いた内容に似ている――というか同じですね。

 父ちゃんも母ちゃんもじっちゃんもばっちゃんも兄ちゃんも妹もポチもタマも、全員が「目玉焼きにはマヨネーズ!」と断言する家庭にとって、それは「常識」だが、学校のクラスでは、しょうゆ派が大勢を占めているかもしれないし、職場では、ソース派が幅を利かせているかもしれない。タバスコ至上主義の地域があったっておかしくはない。

 だからこそ、全ての物事に関する「常識」は、そのコミュニティによって別のものであるという前提は、意識しておく必要があると思う。

 

 あるグループでは「みんながやっている当たり前のこと」が、より大きな視野のコミュニティ内で見ると、少数派でしかなかったり、奇抜だったり、「あり得ない!」とツッコまれかねないものであるかもしれない、という話。

 Twitterの炎上案件が分かりやすいかもしれない。相互フォローしている友人とのあいだで、「みんな」で当たり前にやっていた “遊び” が、その外側にいる大多数の人間、それこそ「世間」的に見ると容認できない “バカ” であり、炎上してしまうようなケース。

 

 炎上の過程を見ても、最初は彼らも笑って見ているんですよね。どこからか批判が飛んできても、「みんな」がやっていることだし、その「みんな」が「あんな批判、気にすんなよwww」と励ましてくれるので、特に問題だとは思わず、むしろ返り討ちにしてやろう、といった勢い。

 ところがどっこい、批判が増えてきて、尋常じゃなく燃え上がり、実は自分たちが多数派じゃないと気付いてしまえば、これはもうやべえ、と。「みんな」はあてにならず、アカウントを非公開にするか、削除するしかなくなってしまう。お疲れ様でした。

 このように、自分が「大きい」と考えている主語は、実は大きくもなんともない、 “井の中” の多数派でしかない、ということは、往々にしてある。自分の語る「みんな」が何者であり、どの範疇での「みんな」なのか、しっかりと意識しておかないと怖いですね。あばばばば。

 

じゃあ、「あなた」はどう考えているの?

 「みんな」がどうのこうの、という話がメインになってしまったけれど、「大きな主語」の本質は、 “目に見えない誰か ”に根拠や責任を持たせることだと思います。もしくは、自分にとって「よくわからないもの」を説明するときに使われがちな印象。

 

 単純な話、例えば、中国に頻繁に行く機会や、住んだ経験のある人が、「中国人は◯◯だ!」と断言することはなかなかないと思う。

 話をするにしても、「私が会ったことのある中国人にはこんな傾向がありました」とか、「僕はこんな印象を持ったよー」とか、そのくらいじゃないかしら。一括りにして、「全員が、こう!」と語れるものではないかと。中国に行ったことがないので分かりませんが。

 

 というか、自分がよく「知っている」ものに関しては、あまり大きな言葉で語ろうとしないんじゃないだろうか。僕の勝手なイメージかもしれないけれど。

 自分の場合、自己紹介をするときには便利なので、自分のことを「オタクですよーアニメとか好きですよー」なんて言っちゃうけど、何かしら特定のコンテンツが好きな人について語ろうとする場合には、一括りに「オタク」と言うことに抵抗があります。

 だって、同じアニメ好きでも、ぜんっぜん趣味嗜好が違うんだもの。ロボット好きの人が萌え系と一緒くたにされるのを嫌う場合だってあるし、逆もまた然り。最近は特に嗜好が細分化されている印象があるので、全てをまとめてどうこう言おうなんて無理っす。詳しくないし。

 

 先日も、「サブカル特化ニュースアプリ「ハッカドール」のウォッチリスト機能が捗る!」という記事のタイトルを決めるときに、「オタク」にするか「サブカル」にするか、はたまた「ポップカルチャー」にするか……と悩みました。

 で、「サブカル」にした結果、案の定、「いや、それは違うだろ」といくつものツッコミをいただきましたので。すみませんえっとわかっているんですサブカルにも様々あるしアニメマンガは大衆化しつつあることもでもサブカルの範疇が広すぎて訳わからないんでごめんなさい。

 

 本当は、「主語が大きくなる→たくさんの人がそこにカテゴライズされる→同意も反論も来やすい→アクセスを稼げる!→だからまとめサイトは(以下略)」なんてことも書こうと思ったのですが、長くなっちゃったのでこの辺で。主語の大きさがPVを生むなら……みんな死ぬしかないじゃない!

 結論として、先の「太宰メソッド」を解説したニコニコ大百科の記事を引用させていただきます。

 

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太宰メソッドとは - ニコニコ大百科

 でも、やっぱり使っちゃうんですよね……。「みんな」とか「社会」とか。どの程度までいいのか、ラインが分からない。「自分が知っている範囲まで」とか?

 

 

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