現代は、誰もがほぼ等しく情報を発信できる社会であると言っても過言ではない。インターネットに接続すれば、SNSでもブログでも個人サイトでも、自分だけの「ホーム」を持つことによって、全世界に瞬時に言葉を届けることができる。
特にSNS、中でもTwitterの果たした役割はあまりに大きい。前記事でも書いたように、デマや嘘の情報も蔓延してはいるものの、140字という短文で、気軽に情報を発信できることの利便性はとんでもない。東日本大震災に際して、その恩恵にあずかった人も多いのでは。
ところがどっこい。あまりに手軽すぎるTwitterのインターフェイスは、情報発信を簡単にし過ぎてしまった。リアルタイムで流れてくる数々の情報に接しながら、自分の主張や意見もどんどんかるーい感じで発信していく格好。ボタンひとつでRT。ね、簡単でしょ?
それゆえに、「気づかないうちにデマの拡散に加担していた」なんてことも少なくはない…どころか、ありふれたものですらある。さらに、それがデマだということに気づかないまま終わってしまうようなこともある。
情報の取り扱いが簡単になりすぎたことによって、その流れは数多のゴミ情報を生み出し、デマをいともたやすく拡散させ、コントロールのきかない奔流となりつつある。
それを食い止め、少しでも意義のある情報発信・受信を行うためには、一人一人がしっかりと情報と向き合いつつ、より多くのユーザーが思考停止せず「考える」ことが必要だ。ここでは、そんな「情報発信」について考えてみようと思います。
「情報発信」の現状
総務省の示す統計*1によれば、日本国内のインターネット普及率は平成23年末の時点で79.1%。利用者数は9,610万人であり、多少の誤差はあれど、ほぼ「一億総インターネット時代」と言っても差し支えはないと思う。
言い換えれば、日本国民の大半がネットに接続し、好き勝手に情報を発信できる時代。言葉にすればあっさりしたものだけれど、テレビや新聞、雑誌や本などの限られた媒体でしか広く情報を伝えられなかった頃と比べれば、割ととんでもない時代がきているんじゃないかしら。
ネットによる情報発信と言っても、方法は様々だ。ウェブ上に既にあるサービス、掲示板なんかに書き込むだけでも「情報発信」していると言えるし、ブログやレンタルホームページを利用する手もある。手段は多種多様。メルマガも電子書籍もあるんだよ。
その中でも最も手軽な媒体を挙げるとすれば、冒頭でも書いたTwitterが筆頭だろう。簡単な情報を入力するだけで登録可能。1回の投稿が140字という限定された、でもそれゆえのお手軽感。人によっては、何万、何十万というフォロワーに対して発信できる影響力。
とは言っても、フォロワーの数は問題じゃない。フォロワーが多かろうと少なかろうと、「限定公開」にしない限り、ユーザーの発言は誰にでもアクセス可能な、全世界に対する情報発信となる。よく「Twitter(ネット)が公共の場」と言われるのは、そのためだ。
けれど、それを知らないユーザーが、LINEやmixiのような仲間内でのコミュニケーションツールと同様のものと勘違いして“やらかした”結果、炎上*2*3するという出来事が時たま起こる。さすがに最近は耳にしなくなったけれど。
「TwitterはSNSではない」
僕らにとって「Twitter」といえば、他のユーザーと会話し交流するSNS、ソーシャルメディア(「ソーシャルメディア」ってなーに?)としてのイメージが強い。
日本人が過去に親しんできたSNS、例えばmixiなどと比べれば、その性質や雰囲気に差はある。だが、そこで「人の交流」があるという点を鑑みれば、それらは同様のものと言ってもいいかもしれない。
しかし、米Twitter社の幹部によって、それは違う、とはっきり否定されている。
「われわれはソーシャルネットワークではない。情報ネットワークだ」
確かにTwitterでユーザー同士の交流は生まれているが、その本質は情報のやりとりであって、交流が全てではない。……まあ日本においては、かなり交流が重視されているように感じなくもないけれど。
実際のところがどうかはさておき、「TwitterはSNSではない」という前提を意識として持っておくことは、ゴミ情報の溢れる現状において効果的な考え方なんじゃないかと思う。
「特定小数」とやり取りをするのが前提のSNSではないTwitterは、常に「不特定多数」に見られている場所であり、彼らからたくさんのリプライが飛んでくる可能性も否めない。
そんなことをちょっと意識するだけで、わざわざ“下手なこと”を言おうとは思わなくなるんじゃないかと。あたしネットウォッチャーさん。今あなたの後ろにいるの。
思考停止の情報拡散
Twitterは使い方を誤れば、「思考停止メディア」ともなりうる可能性をはらんでいるものだと思う。何も考えず、情報の選別もせず、流れてきた情報をひたすらリツイートし続けるだけの簡単なお仕事。それなら、botでいいじゃない。
Twitterで拡散されるデマの中には、少し時間をとるだけでそれが「嘘」だと分かるようなケースが結構ある。ちょっと考えれば、情報元を確認すれば、一呼吸おけば分かるはずなのに、感情的に突っ込むか、はたまた何も考えていないか。すぐにRTしてしまうのは、悪い癖だ。
分かりやすいのは、虚構新聞社のネタ記事に対する突っ込み。虚構新聞で書かれるネタ記事には多くの批判もある。しかし、「一見すれば本当っぽいけれど、記事を全文読めば分かる」程度には嘘が文中で示されているものが多い*4。
タイトルだけを見てRTしたのか、それに対して本気で突っ込んでいる人を見ると、「ああ…アクセスすらしていないのか……」と残念な気持ちになる。でも、虚構新聞を知らない人からすれば信じちゃう面もあるのかな。
明らかなデマ情報を拡散してしまう彼らに共通するのは、情報ソースを確認していないか、思わず感情的になってしまったか、何も考えていないか。
別に目に入った情報、全てについて言及する必要もないんだし、気になる記事については読んで、確認するくらいの作業時間をとってもいいんじゃないかと思う。
「検索」は主体的行動
目に入った情報が正しいか、間違っているか。その真偽、妥当性を判断するには、相応の知識が必要となる。詳しい人であれば一瞬で分かるだろうし、専門家でなくとも、少しでも理解のある内容ならば、「あれ?」と違和感を見つけることくらいはできるはずだ。
でもそもそも、ネットではちょっと「検索」するだけで必要な情報を見つけられる場合も多く、断言はできなくても、素人でも判断基準となるような知識を集合知から得ることはできる。Google先生は偉大なのです。
……と書くと、「Google病だ!」「検索中毒だ!」「最近の若いもんは何でも検索検索と…」なんて突っ込まれそうですが。確かに一理あるとは思うけれど、「検索」は自らそうしようと考えての行為であって、立派な主体的行動なんじゃないだろうか、とも。
「検索する前に考えろ!」と言うのも分かる。癖のようにGoogleにアクセスしてしまうのはよろしくない。ただ、それが「自分で考えて分かるものかどうか」の判断くらいは、事前にできていると思う。そもそも知識がなければ、判断はおろか、考えることもできないのだ。
なので、順序としては、こんな感じかしら。
情報ソースの確認 → 自分の知識で判断できなければ調べる → 妥当性を問う → 自分で考える → 情報発信
自分の意見を乗っけるのは、それを情報として発信する前、最後の手順。分からないことは、はっきりとそう書けばいいし、他の人に「どう思います?」と問うてみるのもありだ。自信がなければ事実だけを記述すればいいし、第一、言及しないという選択もある。
デマを拡散せず、少しでも意義のある情報を発信しようとするために必要なのは、単純な話、「考える」ことであり、「思考停止」しないことだ。そして、発信する情報には「自分」という「主体性」があるということも。
何も考えずに情報を流してしまうのは、それがどこか他人事だから。自分には無関係だけど、なんかおもしろそう、役立ちそうだから突っ込んでみよう、という好奇心。
そんな気軽さは決して悪いものだとは思わないけれど、不特定多数に対して何かを発信する以上、そこにはある種の責任が伴ってくる。ネットだから、見知らぬ他人が相手だから、と侮らず、せっかくだし自分で「考えて」みることによって、もっともっと楽しく有意義にネットを使う努力をしてみてもいいんじゃないかしら。
連載「ネットリテラシー」について
- 第1回:「半年ROMってろ」が僕らに教えてくれたこと
- 第2回:マスメディアもインターネットも本質的には変わらない
- 第3回:主体性をもって情報発信する〜アウトプットの考え方
- 第4回:あなたの言葉はネットでは伝わらない〜「炎上」を考える