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幾度となく繰り返された「ことば」は重さを失う

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photo by Nina J. G.

 

 フリー素材……目次……こう思った……参考になります……あばばばば。

 

 

あらゆる分野で重要となる「型」の存在

 ある技術や行為を自分のモノとして身に付けるためには、まず「」を覚えるのが効果的だとされている。

 文章でもお絵かきでも仕事でも、何だってそうだ。先人の知恵や経験、努力の結果を体系的にまとめ上げた「型」は、何の知識もないゼロの状態から始めるのと比べれば、とてつもなく大きな手助けとなることは疑いようがない。

 

 事実、書店に足を運べば、多種多彩な「型」を記したハウツー本が数多く並んでいるのを見ることができる。その数たるや、もう目眩がしてくるレベルでござる。

 良く言えば、新たに学ぶための“師匠”が選り取りみどり。自分に合った“師”を選択することで、効率的に学ぶことが可能。悪く言えば、似たり寄ったり。有名古典の焼き直しや、普遍的でない自分の成功体験を書いただけ、なんて本が中にあってもおかしくない。

 

 何はともあれ、「型」の重要性は推して知るべし。それがなければ始まらないし、そもそも“始められない”ケースも少なくない。ゆえに、「とりあえず入門書!」という第一歩は普通の流れだし、何ら悪い方法ではございません。

 しかし、幾度となく繰り返し使われた「型」は、場合によっては見飽きた「テンプレ」と化すこともある。それを見る周囲の人間、あるいは自分自身に食傷をもたらし、マンネリと共に忌避される。なんだ、またお前か、と。

 

 コンテンツ産業においては、特にそれが顕著だ。「お約束」として歓迎される趣きがある一方では、新鮮味のない「いつもの」は次第に飽きられ、捨てられていく。そこには常に新しいものを生み出す必要に駆られる創作者の“苦悩”があり、消費者の“期待”と表裏一体の関係にある。

 ゆえに、作り手側が安易に乱用してしまえば、それを受け取る側にも伝わってしまいかねない。「型」を使うなら使う、「テンプレ」を用いるなら用いるで、それを使う必然性、実体が伴わなければならない。アレっすよ。流行のデザインテンプレートを取り入れても、フォントや色彩設定など周りがお留守で残念になっちゃう感じ。

 

文字としての「ことば」は伝わりづらい

 僕自身はこうしてブログを書いている人間なので、自然とブログ基準で考えてしまいがちなのですが、特にウェブ上の「ことば」を見ると、非常にテンプレ表現が多い印象がある。

 

 そもそも“書き言葉”としての「ことば」は意外と情報量が少なく、自分が思ったように伝わらないことが往々にしてある。面と向かってであれば、「楽しかった」「感動した」「泣いた」「つらい」といった感想と共に、声量や抑揚、表情や身振り手振りでその大きさを表現することができるが、文字だけではそうもいかない。

 文字としての「ことば」単体では、“どれだけ心動かされた”のかが伝わりにくい。あまりの感動にぼーっと歩いていたら電信柱に正面からぶつかるほどに「感動した」のか、「まあそこそこ普通に良かったんじゃね?」程度なのか、「感動した(棒)」なのか。そこで、付加情報として具体的な言葉を重ねる必要がある。

 

 しかし、あーだこーだと「ことば」を尽くそうとすれば、どうしても長文になってしまう。うまい表現が見つかるかも怪しいし、しかも「自分では伝わるように書けた!」と思っても、他者にどれだけ理解してもらえるかは読み手個人によって異なってくる。

 そこで、お手軽なテンプレートや強調表現、“強いことば”を使うという手が、ひとつ考えれる。「超(チョー)」「マジ(本気)」「激」「ヤバい」「クソ」などなど。“激おこぷんぷん丸”のインパクトと語感の良さは、個人的にも使いたくなるくらい好きです。

 

繰り返し使いまわされた「ことば」は重さを失う

 だが言うまでもなく、繰り返し使われる表現は徐々に重さを失い、使い古された言葉として廃れていく。いかんせん、ネットには「ネ申」が溢れすぎた。八百万の神々を認める神道も真っ青。あれもネ申、これもネ申。みんな「ネ申」なら、個性も何もあったもんじゃない。

 

 「ことば」というか、広い意味での「表現」と言いましょうか。

 

 今や文中で特大フォントを多用されるとイラッとするし、

 “!”の重ねがけも大したインパクトを生まない!!!!!!!!!!!

 どんだけwww草を生やしてもwwww胡散臭いだけwwwwwww

 【悲報】は、たいていがネタっぽいイメージ(※ここまで、個人の印象です)

 

 とは言え、同じ「ことば」でも人によって目にする頻度には違いがあるため、ある人にとっては使い古された表現でも、また別の人にとっては新鮮味を持ったものとして強く印象づけられることもあるかもしれない。あまりに“w”を目にしたせいで、かえって“(藁)”が斬新に感じる現象。原点回帰感ある。

 

 考えてみれば、Twitter登場前のインターネットでも、基本的にそのコミュニケーションは「短く」「簡潔に」「わかりやすく」が前提だったように思う。

 そこで、自然とコミュニティごとに短いスラングが生まれ、共通言語としてテンプレート的に利用されるのが定石だ。“(笑)”の変遷なんてその最たるものだと思うし、短く速いコミュニケーションが望まれる場では、そのような表現が一種の「型」として使われ続けていても違和感がない。

 

 ――ということは、TwitterやFacebook、ブックマークなどでよく見る言い回しも、もしかすると同様の「テンプレ」として使われているのかもしれない。具体的には、「参考になる」「勉強になる」「考えさせられる」「気になる」「興味深い」などなど。

 

 あまりに短くおなじみのコメントかつ、周りから見れば“何も言っていない”ツッコミであるため、一部ではスパムだと疑われることもあるらしい、これらの表現。

 実際に「参考になる」からこそ、そのようにコメントしているのでしょうが、それに加えて「ちゃんと最後まで読んだ」的な意味合いも含まれているのではないかしら。たまたま開いたそのページを、飽きることなく最後まで読み切り、その中で感じさせられることがあったので、その旨を短く記すための定型表現。そう考えると、納得できる。

 

 ……最近はどこもかしこも同じ文章構成、同じフリー画像、同じ書き口ばっかでつまんなーい!という話をして、「やっぱり“型”は大切だけど、それは徹底的に覚えたら破るもの、“守破離”の考え方って大事だよね!うん!」という流れでまとめようと思ったら、書きながら勝手に納得してしまった。なんてこったい。

 

 僕も「気になる」だけ書いて作業的にコメントすることもあるので人のことは言えませんが、ちょっとたまに気になる部分だったので。

 一種の「芸」として、いつも切り口が変わらない人は安心できるんですけどね。作業的に、何も考えずにツッコみまくっているようなアカウントを見ると、なんかモヤモヤするのです。あ、Twitterの話っす。うーむ。

 

 

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