「文章力」の基本と表現を考える『危険な文章講座』


 なんだか変な本を手に取ってしまったな、というのが第一印象だった。タイトルは、『危険な文章講座』。いや、「危険」ってなんやねん。どこはかとなく漂う、胡散臭さ。こんなん読んで、大丈夫なん?

 開いて読み始めてみれば、どことなく「個人ブログ」のニオイがする書き口。

 自身の主張に括弧を付けて、セルフツッコミをするスタンスだったり、「いや、冗談ですって。ちょっと比喩がオーバーでした。そんなに大層なもんじゃありませんて」という、表現の軽さだったり。……うん、ちょっと、謎の親近感を覚えてしまった。

 

 にも関わらず、“文章講座”を冠する書名に対する疑わしさと、思わず「ブログでおk」とツッコミたくなるような軽妙さにモヤモヤを抱えながら、読み始めた本書。

 読み終えてみれば、「文章」に限らず「表現」や「言語」、果てはそれらを総合した「文化」にまで及ぶ示唆に富んだ内容であり、おもしろかったです。

 そう、“良書”と言うよりは、“おもしろい”という表現がしっくりくる読後感。そして何よりも、本編が終わった後のあとがきの、その最後に、衝撃のラストが待ち構えておりました。「は!?」って声に出しそうになったぜよ。

 

文章力とは?すべては《ゆがみ》から生まれる

 正直に言って、序盤は読みづらく感じた。「ちょっと待て!」とか、「おいおいおいおい」とか(原文ママ)、読者に語りかけるような文体にモヤモヤ。「新書」という形の本ではあまり見ないような文体に、違和感と不審感が募るばかり。

 読み終えた後に考えてみると、これはおそらく、本の構成として筆者なりに計算した上での表現であることが推測されるものではありますが。

 事実、この違和感を覚えたのは第1章のみ。そして、その1章で筆者が指摘しているのは、“文章力”や、文章表現の“巧さ”と“美味さ”、テクニックやレトリックといったものは一先ず置いといて、その「多様性」によって文章は成熟する、という点に尽きる。

 

つまり文章とは、表現とは、それほどデリケートなものだということ。「巧い文章」が「美味い文章」とはけっして限らない。どれほどわかりやすく素直な文章であっても、書き手の真意が書き手の意図したように読み手に伝わるとは限らない。いや、むしろ「伝わらない」という前提に立って「伝えよう」とする努力こそが、文章のさまざまなテクニックを生み出したのだとさえいえるくらいだ。ぼくたちはあらゆるメッセージを、自分が受け容れたいようにしか受け容れない傾向がある。

【1】たったひとつのコトやモノ、感情や思想、人間や事件をモチーフにしながら、文章は無限に変貌し多様化しうる。

【2】それは主に、書き手の「伝えたい」という意欲のなかで〈自己の視界〉と〈他者の視界〉とが、さまざまな次元で交わり合うことから生まれる。

【3】文章を書くことは、その「さまざまな次元での交わり合い」を可能にする〈柔軟な視界や思考〉を獲得するためのトレーニングでもある。

表現における進化や成熟は、ひとつのスタイル(文体)やレトリックで測れるようなものではない。「多様な表現の可能性」のなかから、さまざまな表現を選び取れる〈幅〉や〈奥行〉の問題なのだ。

 

 本の流れを無視しますが、この「多様な表現の可能性」を担保し、文章を、表現を、「完全な現実認識」たらしめるのが、《ゆがみ》である、と。筆者は、第0章で繰り返しそう説いている。

 

文章は整体術や人格改造セミナーではない。表現なのだ。これほど大量の情報が氾濫する現実のなかで、あなたが「均整」や「バランス感覚」を心がけて文章を書こうとしようものなら、いつまでたっても何も書けやしないだろう。

そもそもあなたが何かを書きたいと思ったということは、それ自体がある種の《ゆがみ》なのだ。いや、それ以前に、あなたがあなたの頭で何かを思考することそのものが、あなたのなかに、そして人間の思考(意識/無意識を問わず)の総体である〈世界〉の森羅万象のなかに《ゆがみ》を創り出す行為なのだ。

元来、表現とは、表現したいという欲求や必要とは、ひとりひとりのかけがえのない《ゆがみ》から生まれてくるといってもいい。

 

 ざっくり言えば、「文章力?整った文章?知らんがな」などと突っぱねた上で、「思うがまま、感じるまま、書きたいように書けばいいじゃない」と煽るような言説。

 ただし、章末では、“あらゆる表現はもちろん受け手あってのものだ”と書いているように、何もかも好き勝手の“書きっぱなし”ではいけない、と念を押してもいますが。

 それでもやはり、《ゆがみ》をもってこそ、表現は生まれる、と。それを実感させるための0章と1章であり、“講座”(≒Howto)の名を冠した本としては、なかなかにぶっ飛んだ導入でございました。

 

自己を表現できるということは、そのまた逆も同様

 続く第2章では、「自己表現・オリジナリティとはなんぞや」といった話題に触れ、3章では、“「自分が何者であるか」を無防備に露悪的なまでにさらけ出す”、《好き嫌い》の表現について。

 そして、「文章精神主義を疑え」と題した4章では、歴史的、言語学的な視点からの文章によるコミュニケーションに関して言及した上で、《言葉》を再定義した内容となっています。

 

【1】けっして完全でも万能でもないが、いまのところ最も複雑で広範な表現とコミュニケーションを可能にしてくれるメディア。

【2】たとえ非言語的表現であっても、その表現が確かに成立する背景には必要不可欠なもの(だからこそ映像や音楽を「読み解く」ためのメディア・リテラシーも必要になってくる)。

【3】〈心〉などと呼ばれるものと不可分でありながらも、両者が互いを互いの道具として利用したり支配したりするケースも、けっして珍しくない厄介なもの。〈心〉を支配する最大の外部的制度ともいえる。

【4】だからこそ「噓をつく」ための最適・最強のメディア。

 

 文章のもたらす表現とコミュニケーションの可能性を信じ、絵や図解といった非言語メディアでも必要不可欠なものであるとしながら、意図のするしないに関わらず、いともたやすく「嘘をつく」ことのできてしまう存在として定義。おお、こわいこわい。

 

読み手には〈誤解する権利〉や〈曲解する権利〉だってある。誤解や曲解の余地がまったくない表現なんてありえないのだし、十人十色の解釈が可能だからこそ自由な議論も生まれるのだ。

書く字のスタイルは第三者にもかなりはっきり区別がつくからサインという習慣が生まれた。これに比べて文章のスタイルはそれほどはっきりした個性をもっていない。匿名の筆者をつきとめることは困難である。

言葉は自己を表現する手段であると同時に、時にはそれ以上に「自己を韜晦する(隠す)手段」でもあるのだ。

 

 この辺りの話題は、普段からネットで他人とやり取りしている人からすれば、覚えのあるものかもしれない。

 特に、読み手の〈誤解・曲解する権利〉という指摘。これはブロガーに限らず、日常的に何らかの「表現」を行なっている人の多くが考えるべきテーマなのではないかしら。

 僕自身、投稿した記事が別の意図で伝わってしまったことに対して、「違う、そうじゃない」と、やきもきすることも少なくはありません。「どうしてそんな隙間に突っ込んで、揚げ足取りをするような真似を……」なんて思うことだってある。

 

 けれど、考えの全てを正しく完璧に伝えるなんて不可能だし、むしろ、自身の表現の拙さを省みるべきところなのかもなー、と。

 そこで「なぜ」を考えることによって、自身の表現にも変化――筆者の言葉で言えば《ゆがみ》――が生まれてくるのだろうし、批判は甘んじて受けるものだとも思う。

 

 逆に、“自己を韜晦する(隠す)手段”として、文章を書いていることも否定できない。実際、意識的に考えを曲げて書いた記事だってあるし、自身を正当化するため、無意識に悪い部分を隠したことだってあったはず。

 この点については、次章の《物語化》の話と合わせて考えると、ひっじょーにおもしろそうなんですが、長くなりそうなので割愛、ということで。

 

発想と思考、肉筆とワープロ、武器にも凶器にもなる文章、そして「日本語」とは

 後半は、多角的な視点を文章表現に結びつける、自己相対化と思考のトレーニング方法としての《ひとりディベート》を挙げたり、日本語における〈書く〉という行為から逸脱した、ワープロがもたらした視点と問題点を指摘したり、《批判》と《悪口》の違いに見る《言論の自由》について言及したり、果ては、日本語の表意/表音の二重構造と、難解さについてまで語り出して、もうお腹いっぱいです。

 泡沫のいち個人ブロガーが何を言ってるんだ、と突っ込まれるかもしれません。が、日常的に文章を書いている自分にとっては、どれもこれも、広く「文章」と〈書く〉ことを考える意味では強いテーマ性をはらんだ話題であり、考えさせられる、考えてみたいものでありました。

 

 気になる点を軽く抜粋すると、

 さて、さっそくワープロとはいったい何なのか、である。
 おそらく最も端的に言ってしまえば、それは

 

 【A】言葉を意味や肉体から解放して、無垢な記号/信号に還元するメディア

 

ということになるだろうか。
「解放」だの「無垢」だの「還元」だのと言えば、一見(一聞か?)聞こえはいいのだが、もちろんそれはこう言い換えることもできるのだ。

 

 【B】言葉から意味性や肉体性を剝奪し、空虚な記号/信号に堕落させるメディア

その動機が高邁だろうが低劣だろうが、自分が招いた批判や反論には少なくとも誠実に耳を傾けるのが「言葉で武装する」批判者としての最低限の責任であり、《言論の自由》たるものの基本的ルールというものだ。

TVやマンガによって言葉がますます感覚化し、いい意味で(これもおそろしく便利な言葉だが)女性化し、言文一致化することによって、和語が本来そなえていた語感・音感が日本語界に復権し始めているのかもしれない。どちらかといえば漢語至上主義の知識人の支配する活字メディアが、その覇権をTVやマンガに侵されることによって、逆に活字メディアにも「和語の逆襲」の波が押し寄せているようにも思える。これはけっして悪いことではないと思う。

 

 この辺りでしょうか。2つめとか、そのままテーマになりそう。

 そんなこんなで、「最初はどうかと思ったけど、なんだかんだでおもしろかったなー」という感慨を抱いて本を閉じようとしたところ、あとがきの最後の一文を見て、目ん玉ひん剥いた。

 

1998年3月

 

 え!?そんな昔の本だったの!?

 

 言われてみれば、事例として挙げられている事件や文献が耳慣れないものばかりだったし、「パソコン」じゃなくて「ワープロ」ってなってるし、「日本語の乱れ」として言及されているのが「とても…ない」で、そこは「ぜんぜん」じゃないのか!とツッコミもしたけれど、まさか90年代の本だとは思わなばばばばば!

 

 単純に、第一印象の「ブログっぽい」のまま読み進めていた、“ブログバカ”な自分のアホっぷりが露呈しただけの話なんだけど、狐につままれたような気分ですわー。

 本文中で、『あなたの年齢当てます』(コーリイ・フォード)という短編の引用から文章の「嘘」を説明しており、「こいつぁおもれぇわーHAHAHA!」なんて笑っていたけれど、固定観念で読んでいたのは僕でした。うへえ。

 

 翻って、まだネットが一般化しているとは言い難い時期に書かれた本が、当時以上に文章表現が多様化した現代にずばーん!と刺さる内容であるように見えるのは、なんとも感慨深いというか、おもしろい。

 

 Amazonのレビュー(2009年のものですが)にも書かれていましたが、全く同感です。

出版が10年も前なのが逆に残念な本。
webやblogで思ったことが自由に書けるインフラが整った今、
「言葉を使って表現することの意味」を問い直すことができる本。

 

 ネットを使い、誰もが等しく、文章による表現ができるようになった今だからこそ、ぜひ多くの人に読んで欲しい一冊だと思います。

 

 

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